第二話 夜のはじまり



 学校を出たころには西日はさらに地平線へと傾き、赤と濃紺のグラデーションが空に広がっていた。

 以前なら部活帰りの学生達が通りを賑わしていた時間帯だが、三木島の言っていた連続襲撃事件の影響か、二人が並んで歩く路地には深夜と灯里の他に誰もいない。


「あ、そうだ。さっき保健室で言いそびれてたんだけど」


 と、灯里は思い出したようにうつむきがちにこう言った。


「ごめんね。今日も迷惑かけちゃって」

「迷惑かけたのはむしろ俺だと思うけど」


 こんな時間まで保健室で看病してもらった深夜としては、現在進行形で灯里には迷惑をかけている覚えしかないのだが、どうも彼女はそうは思っていないらしい。


「その……自意識過剰なのかもしれないけど。今日、神崎くんがかばってくれなかったら、位置的にボールが私のところに飛んできた、ような気がして」


 灯里は俯いたまま目線だけを動かし、ちらりと隣を歩く深夜の顔、というよりも彼の瞳を見上げる。


「もしかして、神崎くんは自分を盾にしてまで助けてくれたのかなって……」


 ああ、そのことか。と深夜は心の内で納得するが、同時にどこか複雑そうな表情を浮かべることになった。


――あれは自分を盾にしたとかじゃなくて、ただ受け止め損なっただけなんだけど……――


 しかもその結果、頭を打って気を失ったのだから格好がつかないにもほどがある。


「あ、いや……気にしなくていいよ。友達なんだし、これくらい当然だから」


 恥と誠実さの葛藤に捕らわれた末、深夜は目にかかる程度に伸びた前髪をいじりながらそんなクサい言葉を絞り出す。


「ん……友達……」


 しかし、それを言われた灯里の方はなぜか複雑そうな表情で小さく喉を鳴らしていた。

 もしかしたら、友人だと思っているのは自分だけで灯里はただのクラスメイトとしか思っていないのではないか。

 そんな不安が深夜の胸中をよぎるが、灯里のその表情は見間違えを疑うほど一瞬のことで、次の瞬間にははにかむ笑みに変わっていた。


「……それにしても本当にすごいよね。未来が視える眼、なんて」

「未来予知って言っても、視えるのは十五秒先の未来だけ、だけどね」


 深夜はそう言いながら自らの左眼を手のひらで覆い隠し空を仰ぐ。

 灯里の言葉は比喩などではなく、深夜の左眼は本当に『未来が視える』。

 どういう理屈なのかは本人にもさっぱりわからない。

 ただ、彼の左眼は物心ついた時からずっと十五秒先の未来の光景を写し続けていた。


「それに前にも言ったけど、そんなに便利な物じゃないよ。宝くじを当てたりとか、テスト範囲を予想したりとかはできないしね」


 これがたとえば、十年先、二十年先を見通せるだとか。他人の未来をピタリと予言できるのならそれは素晴らしい力だろう。

 だが如何いかんせん、深夜が視ることができるのは左眼の視界というごく限られた範囲かつ、今からちょうど十五秒というほんのわずか先の未来だけだ。


「確かに十五秒だけじゃそういうのは無理なのか……結構難しいね」

「あと、地味に本を読んだり、テレビを見たりするのも疲れるんだよね」


 そのうえ、この力にはオンオフを切り替えるといった便利な仕様もない。

 恩恵らしい恩恵といえば、片目だけを閉じるのが得意になったことと、時間感覚が正確になったことくらいだ。


「私はそれでもすごいと思うよ。なんていうのかな……うん、特別って感じがする」

「そうかなぁ?」


 灯里はしみじみと羨むような視線を深夜に向けるが、当の本人はどうもピンとこない。

 生まれた時から他人と見えている世界が違う、というのは「特別」というよりもむしろ「異常」という方が近い気すらしていた。


「普通に生きている分には、絶対にジャンケンに負けないことくらいしか使い道がないけどね」


【深夜の隣に並んで歩く灯里は、何の脈絡もなく彼の前に握りこぶしを突き出した】


「ジャンケン! ポン!」

「ん」


 灯里の手はグー、深夜の手はパー。


「不意打ちでもダメなんだよね」

「宮下がいきなり手を出すのも含めて、十五秒前にわかってたからね」


 傍から見れば突如として始まったジャンケン勝負。

 だが、深夜には十五秒前に彼女がそうするとわかっていたので、驚きすらなくあっさり勝てる。


「じゃあ、ジャンケンの世界大会に出てみるのはどう?」

「嫌だよ、面倒くさい」

「あははっ。そう言うと思ったけど」


 灯里の提案を深夜は大きな欠伸と共に切り捨てる。もっとも、灯里も深夜の返答は予想通りとばかりに笑っていた。


「でもやっぱり憧れるなぁ、そういう超能力みたいなの」

「またそんなこと言って……じゃあ、宮下は手に入るならどんな力が欲しいの?」

「そうだなぁ。私は――」


 そんな他愛のないもしもの話を遮るように、深夜のポケットに納められていたスマホが初期設定の無機質な着信音と共に鳴動し始めた。


「ごめん、ちょっと電話。あっ……」


 一言断りを入れてから学ランのポケットからスマホを取り出した深夜は、その画面に映し出された「神崎真昼まひる」という名前を見て顔をひきつらせる。


「誰から?」

「……妹。帰りが遅くなるって連絡入れるの忘れてた……」


 指先が数度空を泳いだ後、意を決したように勢いよく通話ボタンをタップしてスマホを耳に当てる深夜。


「はい、もしもし……」

『兄さん、今どこ?』


 電話越しのその声は静かに、しかし確かな不機嫌さをはらんでいた。


――怒ってる……――


「ちょうど、帰ってる途中で……」

『今って、例の襲撃事件で物騒だから、居残りとかはないはずだよね? こんな時間まで何してたの?』

「……学校で寝てました」

『兄さんらしいというかなんというか……。だとしても、帰りが遅くなるなら起きた時にちゃんと連絡してよね。あと、夕飯は先に作って一人で食べちゃうから』

「ごめん、受験生なのに真昼に手間かけさせて」

『はぁ……そっちを謝ってほしくて怒っているんじゃないんだけどなぁ……』


 非常に長いため息の後、深夜に向けて、というよりも独り言のような調子で呟く真昼。


「え? だったらどうして……」

『それじゃ、気を付けて帰ってきてね。今度は兄さんまで入院なんて、本当に洒落しゃれにならないんだから』


 その真意を確認するよりも先に通話は一方的に切られてしまい、深夜は行き場のない困惑を抱えたままスマホの待ち受け画面を眺めていた。


「……これはしばらく不機嫌だなぁ……」

「怪我して保健室にいたこと、妹さんにどうして言わなかったの? ちゃんと言ったら怒ったりしなかったと思うけど」

「確かに事情を説明したら許してくれたとは思うけど。それこそ真昼に余計な心配かけることになるし、知らなくていいことはわざわざ教えたくないんだよ」


 今回は保健室で目が覚めた時にちゃんと連絡を入れておかなかった自分の失態だと割り切り、深夜はスマホを上着のポケットに戻す。


「連絡を忘れて心配をかけたのは事実だから、今回は素直に怒られることにする」


――それで真昼がしばらく塩対応になるのはちょっと……いや、かなり辛いけど――


「妹さんはむしろ、心配させてくれないことを怒ってるんだと思うけどなぁ」


 灯里はぽつりと、どこか思い当たる節があるかのように呟く。


「心配なんてしないに越したことないでしょ?」

「それはそうなんだけど。本当は大変なのにそれを内緒にされると、自分って頼りにされてないんだな……って思っちゃうというか。複雑な妹心ってやつ、かな?」


 灯里は自信なさげな空笑いを浮かべながらも、真昼の態度に思うところがあったのか、そんな意見を代弁した。


――別に頼りにしてないんじゃなくて、不便や迷惑をかけたくないだけなんだけどな――


 灯里の言葉を借りるならば、単純な兄心というヤツはなかなか上手く隠し切れないものなのだろう。


「そういえば、今は妹さんと二人で生活しているんだっけ?」

「うん。俺と真昼は幸いほとんど怪我がなかったんだけど、両親はまだしばらく入院ってことになってるから」

「大変だね……ご飯とかはどうしてるの?」

「今はとりあえずレトルト頼り。今まで母さんに頼り切りだったから、俺も真昼も料理はまったくダメで…………」


 ある程度の生活費は両親から預かっているとはいえ、毎日外食などという羽振りのいい生活をするというわけにもいかない。そのため、ここ一か月ほどの神崎家の夕飯事情は、レトルトパスタ、レトルトカレー、冷凍食品のローテーションをぐるぐると回り続けていた。


「俺だけならそれでもいいんだけど、真昼にいつまでもそんな食生活をさせたくないから色々と考えてはいるんだけどね」


 それですぐに体調を崩したりすることはないだろうが、現状は栄養バランスが良いとはとても言えない状況。まだまだ成長期であろう中学三年生の妹のためにも食生活の改善は急務だ。


 もっとも、先日試しに独学で料理に挑戦してみた結果、コロッケを揚げるつもりが危うく家を燃やしかけたのだが。


「ええと……それなら……あの……」

「ん?」


 灯里は足を止めて、両手の指先を胸の前でくっつけたり、離したり、くるくると回したり弄びながら、口ごもる。

 その様子に気づいた深夜も彼女の数歩先で立ち止まり、その言葉の続きを待った。


「あぅ……それは、その……あっ! ほら! もうマンション見えてるから! 私はここで!」


 灯里は強引に話を打ち切るように、あからさまな大きな声で道の先に見えたマンションを指し示す。


「どうせだし、ロビー前まで送るつもりだったんだけど」

「ここまで来れば平気だよ。それに早く帰らないとまた真昼ちゃんに怒られるよ?」

「それは、嫌だな」


 心配は心配だが、本人がそう言うならと深夜はその言葉に甘えることにした。


「ごめんね、遠回りさせちゃって」

「看病してもらったんだ、気にしなくていいよ」

「保健室に一緒にいただけで、私は何もしてないけどね……それじゃあ気を付けて」

「宮下もね。じゃあ、また明日」

「うん。また明日」


 人気のない通り道、深夜は軽く手を振って灯里に別れを告げ、分かれ道を歩いていくその姿が見えなくなるまで見送る。


――また明日、なんて言葉久しぶりに使ったかも――


 思えば、前に灯里と二人で帰り道を歩いたのは随分昔のことのような気がする。少なくとも高校生になってからは一度もなかった。

 妙なこと口走ってはいなかっただろうか、と深夜は自分の発言を思い返しながらご機嫌斜めであろう妹が待つ我が家への帰路を改めて歩き始めた。


「あ、そうだ。一応例の事件についてネットでも調べておこう」


 一人になった深夜はポケットからスマホを取り出し「霧泉市 連続襲撃事件」と検索をかける。


「ああ、あった」


 襲撃事件などと大それた名前は付いているが幸いにも死者が出ていないこともあり、ネットのニュースサイトなどでのその扱いはかなり小さかった。内容もおおよそ保健室で三木島が語っていたものと変わらない。


 ただ一つ、三木島の話には出てこなかった単語がその記事の関連として取り上げていた。


「和泉山間トンネル、崩落事故……その真実、ねぇ」


 スマホの画面を見ながら苦笑混じりに記事のタイトルを読み上げ、おもむろにそのリンクをタップしようとしたその次の瞬間に、深夜の左眼の視界が【赤く弾けた。】

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