幕間 ボクの歪な愛の話

いつだって、ボクは誰のいちばんにもなれなかった。

友人もいなければ、恋人だっていない。家族だって、ボクを愛してはくれない。

愛する母親に先立たれた父親は、母親によく似た顔立ちの姉を大層気に入っていて、ボクのことなんて二の次だったのだ。

姉には潤沢に与えられる、服、お菓子、小物の数々。それを羨む気持ちがなかったと言えば、嘘になる。

だけれど、あの男の愛玩動物のように扱われるよりは、小間使いのように扱われて、居ないもののように扱われるほうが、余程マシだ。

毎晩のように、姉の嬌声が密かに響く小さなアパートで、ボクは、息を潜めるようにして生きていた。

ボクは、いや、ボクたちは子供で、親には逆らえない。あんなクズでも、親がいなければ、生活なんてままならない、弱い存在だ。

だけどせめて、自分の身の回りのことさえ出来るようになったなら。

その時は、この狭い家を出て、なんなら、こんな息の詰まる田舎だって捨て去って、少し息のしやすい世界で生きたいと、ずっと願っていた。

高校―いや、大学だ。せめて大学生になる時には、この場所から居なくなりたい。たったそれだけの願いを胸に抱えて、生きてきたのだ。

かくして、その願いはあっさりと叶えられた。

父親は、いくらお金を出してでも、ボクをこの家から追い出したかったらしい。ボクがどうにか自活できるスキルを持っていると分かった瞬間、何処にでも行けばいいと、そう、淡々と言い放ったのだ。

思っていたより、嬉しいも、よかったも、なにも感じなかった。

ただ、ボクは誰のいちばんにもなれないことを、改めて痛感した。もう痛まなくなったはずの胸がチクリと痛んで。たったそれっぽっちのことをよく覚えている。

家を出る前日、首元を鬱血痕まみれにした姉に、珍しく声をかけられた。

寂しい、でも、たまには戻ってきてね、でもなく。告げられた言葉は「アンタが羨ましい」という、その一言だけ。

そんなの、知るもんか、と思った。

誰かのいちばんになれた姉のほうが、ボクにとっては、余程羨ましい存在だったから。

誰かのいちばんになること。そんなの、とうの昔に諦めたはずなのに。

それなのに、羨ましいと思ってしまう、自分が嫌で嫌で仕方なかった。

もう、羨むのは最後にしよう。

羨む気持ちは、この家にすべて、置いて行こう。

決意して、ボクは古ぼけたアパートのドアを開けた。

もう、きっと。ボクがこの家に、足を踏み入れることはない。


大学生活は、そこそこ楽しかった。

友人と呼べるような存在も何人かできて、ボクはようやく、抱え続けていた寂しさを埋めることができたと、そう、思う。

誰かのいちばんになりたい、なんて。そんな馬鹿みたいな願いごと。

そんなもの、早々に諦めてしまえば楽だったのだと、ボクはようやく気がついたのだった。

誰のいちばんにもなれないまま、誰かにとっての「好きの部類に入る人間のうちのひとり」として、ずっと生きていく。慣れてしまえば、どうってことない。

むしろ、心地好いとさえ思えた。

好き、に近づくのは怖い。愛に、触れるのは怖い。

ボクにとって愛というのは、父親が姉に向けていた、あの、狂気にも似た歪なものだった。

いつの間にか、ボクにとって、愛も、好意も、恐ろしいものに成り果てていた。

だから、だろうか。

あの時、彼女に出会って。あの子に目を惹かれてしまったあの瞬間に。

ボクは自分がどうしようもなく、恐ろしい存在に成ってしまったような、そんな気持ちになったのだ。


「すみません。隣、座ってもいいですか?」


彼女に初めて出会ったのは、昼時で賑わう大学の食堂だった。

この日は、たまたま一人だった。普段昼食を共にすることの多い友人が、サークルの集まりがあるとのことで、そちらへ顔を出していたからだ。

いいですよ、と声をかけようとして、そして、思わず固まった。

そこに居たのは、どうしようもなく可愛らしい少女だったのだから。

ぱっちりとした瞳に、恐らく染めたのであろう、人工的な色をした茶髪の髪。

人好きのするような笑顔に、すらりとした、しかし女性らしさも併せ持つ、スタイル。

どこをどう切り取っても愛らしい美少女が、そこには居て、ボクは思わず見惚れてしまったのだ。

「あ、もしかして席取ってました?だったらすみません!別のとこ探すんで!」

「あ、いや、大丈夫、大丈夫です」

声すらも愛らしい。ボクは心臓をバクバクさせながらも、他の席を探そうとする彼女を引き止めた。

なんだ。

なんなんだこれは。

初めての感覚だった。

甘いときめきが、全身を毒のように巡り巡って、思考を溶かすようだった。

全身の血液が沸騰したように、熱い。

ああ、これが。

これが、愛しいという気持ちなのか。

彼女は、ちいさな口を必死で動かしながら、パスタを食べていた。時折ボクのほうに話を振ってくるあたり、人怖じしない、人が好きな人間なんだろう。

彼女の、そんな笑顔が眩しくて、好ましいと思えた。

もっともっと、彼女のことを知りたいと、そう、思ってしまうくらいに。

「……あ、あの。迷惑じゃなかったら、連絡先、交換してもいいかな?」

だから、彼女が去り際に、スマホを差し出してきた時は、思わず内心でガッツポーズした。

もちろん。そう答えて、震える手で、メッセージアプリを開く。

連絡先を交換して、そこに彼女の名前が表示された瞬間、ボクは柄にもなく、泣きそうになってしまった。


『花園さくら』


外見にも負けないほど可愛らしくて、綺麗な響きを持つ「それ」が、彼女の名前だった。


ボクとは正反対のように見えた彼女との交流は、意外なほど上手くいった。

ボクはいつしか、彼女に懐かれたらしい。

何がそんなに彼女の琴線に触れたのかは分からないが、彼女はやたらと、ボクに構ってきた。

暇だ。遊んで。見かけたから声掛けてみた。

そんな理由で沢山絡まれた。

気恥しさからつっけんどんな態度を取ることも多かっただろうに、それでも彼女は、ボクに笑顔を向け続けた。

ボクを、友達だって言ってくれた。

そんなある日、ボクは彼女に合コンに誘われた。

ゆりはこんなの好きそうじゃないけど、人数合わせで、どうしても来て欲しい。

眉を下げて必死で頼み込まれたが、ボクは最後まで、首を縦には振らなかった。

否、振れなかった。

嫌だったのだ。彼女が、どこの誰とも知らない男に、言い寄られている様を見るのが。

嫌で、嫌で、仕方なかった。

さくらは、最後まで残念そうな顔をしていて、それに胸が痛まなかった訳では無い。

さくらの悲しそうな顔よりも、ボクは、ボクの心を守ることを選んだのだ。

家に帰って、ヤケクソのように酒を飲んで、化粧も落とさずに寝た。

次の日は二日酔いで最悪だったが、それでも良かった。

彼女に、どんな顔をして会えばいいのか、分からなかったから。


「あたしね、恋がしたいの」

いつだったかふたりで宅飲みをした時に、ふわふわとした表情で、そう言ったのを憶えている。

「恋が、したかったんだぁ。だから、あのお堅い家を出たの。パパもママも、お見合いであたしの結婚相手を決めるって言うんだよ!?信じられないよね〜」

時代錯誤にも程があるよ、そう言って彼女は、仄かに赤く染まった頬を、ぷくりと膨らませていた。

「……さくらは、家が嫌いやったん?」

「うーん、分かんない」

彼女はそう言って、手に持っていた甘い酎ハイを、こくりと一口飲み込んだ。

「……でも、息はしづらかったなあって。今なら、そう思うよ」

ああ、そうか。彼女がボクにこんなにも懐いたのは。

ボクと彼女が、どこか似ているようで、だけどどこか違う、息苦しい過去を抱えていたからだったのか。

彼女はそれを、どこかで、感じていたのだ。

すとん、と腑に落ちた。思わぬところで繋がった点と点に、思わず、くふりと笑ってしまいそうになる程には。

「あっ、ごめんね!嫌な話聞かせちゃって!」

「……ううん。ええよ、別に」

ボクもその気持ち、分かるから。

その一言は、最後まで言えなかった。


好きな人が出来たの。協力して。

そう言われた時。ああ、彼女もやっぱりそうなんだ。そんな気持ちになった。

もう、解っていたはずなのに。諦めていた、はずなのに。

彼女がどうしようもなくボクに甘えるから。つい、期待してしまったのだ。

もしかしたら今度こそ、ボクは誰かのいちばんになれるのかもしれない。

そんな、あの家に置いて行ったはずの願いを、再び胸に抱いてしまっていたのだ。

そんなこと、ある筈なかったのに。

「そうなんや、どんな人なん?」

そう尋ねた声は、震えていなかっただろうか。

「それなら、こうしてみたら?」

そうアドバイスした声は、震えていなかっただろうか。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。こんなの、嫌だ。

君がボクのいちばんである必要はない。

だけど、こんなにも好きになった君が、他の誰かに取られてしまうのは、嫌で嫌で仕方なかった。


ボクのいちばん大切な君だけは、自分のものにしたかった。

たとえ、どんな手段を使ったとしても。


ああ、嫌だな。

自分の中に渦巻く、歪な愛に気付いてしまったことが。

きっと何よりも嫌で、嫌で、仕方なかった。


スマホが軽やかな音を立てて、着信を知らせる。

緩慢な手つきでスマホを持ち上げる。ディスプレイに表示された名前に、ボクはもやりとしたものを感じつつ、電話に出た。

「……さくら、どうしたん?告白は?」

吐き出す声とは裏腹に、心には、もやりとしたものが積もっていく。

どうか、彼女の恋が実らないように、なんて、最低なことを思ってしまう自分に、つくづく嫌気がさした。

彼女はきっと、気付かない。ボクのこんな気持ちに、気付くことなんてない。

『聞いてよゆり!無事!付き合えることになったんだよ!!』

だからこうやって、ボクの心を抉る言葉を、心底嬉しそうに言えるのだ。

「へえ、そりゃよかったなぁ」

震えるな。声。泣くな、ボク。

怒りを、悲しみを、嫌悪を、彼女に決して悟られるな。

ああ。だけど。彼女の楽しそうな声を聞いているのは、嫌だな。耐えられないな。

彼女がなにを言ってるかなんて、もう、何一つ分かっちゃいない。

機械的に吐き出される自分の声がいつも通りなことだけは、嫌という程よく分かった。

これ以上、彼女と話していたくなくて、ゼミの課題で忙しいと、適当な理由をつけて、電話を切った。


「っう、う、うううううううう〜!」


我慢していたものが、一気に溢れた。

彼女がとうとう、誰かのものになってしまった。

ボクのものなのに。ボクの大事なものだから、ボクのものだけにしたかったのに。

君は、彼女は、もう。

ボクだけの君じゃ、なくなってしまった。


「う、うええええええ、っ、ぐすっ、さくらっ、さくらぁ〜!!」


彼女を自分のものにしたい。彼女をボク以外の誰のものにもしたくない。

それなら、どうすればいい。

どうすれば。


―ボクのいちばん大切な君だけは、自分のものにしたかった。

たとえ、どんな手段を使ったとしても。


「……そうだ」

唐突に、かつて自分の中に浮かんだ仄暗い感情を、思い出した。

そうだ。簡単じゃないか。

君を永遠に、ボクだけのものにすることなんて。


「君を殺して、ボクも一緒に死ねばいい」


なんだ。たったそれだけで良かったんだ。


ボクは彼女へメッセージを送る。

『旅行に行かない?』という。たったそれだけの、簡素なそれ。

既読がつく。嬉しそうなスタンプが連投され、それから間髪入れずに『行く!』の返事。


「あーあ、本当に馬鹿だなぁ。さくら」

画面を眺めて、ボクは思わず笑顔を浮かべた。


君を手に入れるためなら、ボクはどんなことだってできるのに。

それに気付かずに、君はこうして、ボクに逢いに来てくれるんだ。


そんな彼女の純粋さが、どうしようもなく好きだった。

チクリと、ほんの少し、心が傷んだような気がしたけれど。

そんな痛みは直ぐに、仄暗い歓びが、かき消していった。




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