三日目 キミとふたり、聖域にて
翌日。
朝早くにチェックアウトを済ませ、ホテルを出発した車は、舗装すら充分になされていないような山道を走っていた。
ガタガタ、と激しく揺れる車体と、どんどん山奥に向かっていく景色に、あたしは不安を感じて、ゆりに問いかける。
「ね、ねえ、ゆり……?これ、どこに向かってるの?」
「昨日言ったやん。ボクのやりたいことをしに行くって」
不安そうなあたしの声に、ゆりは相変わらず、淡々とした声で返事をした。
「でも……なんかどんどん山奥に向かってるし……この先になんかあるの?」
「あるある。そんなに心配せんでも大丈夫やって」
「そう……?」
ゆりはそう言うが、不安なものは不安なのだ。
こんな山奥に、ゆりは一体何をしに行くと言うのだろう。
不安に、押し潰されそうになる。
しかし、朝早くからゆりに起こされた事で若干寝不足だったあたしは、車の振動も相俟って、次第に眠気に包まれていく。
くわ、と思わず欠伸をしたところで、隣から、くすりと笑う声が聞こえた。
「……眠いんやったら、寝とってええよ」
「……う、ん」
不安は、残っている。
だけどじんわりと身体を包む眠気には抗えなくて、次第にあたしの意識は、じわじわと闇に飲み込まれていった。
「さくら、着いたよ。起きて」
「……ん、んん……ついたの……?」
優しいゆりの声とともに、ゆさゆさ、と身体を揺すられて、あたしはゆるりと瞼を持ち上げた。
「わあ……!」
そして、視界に飛び込んできた景色に、目を輝かせる。
そこには、山奥とは思えない景色が広がっていた。
咲き誇る色とりどりの花が広がる広場。その奥には、古ぼけてはいるものの、綺麗な教会のような建物が見える。
そこはまるで、女の子の憧れを詰め込んだ式場のようだった。かく言うあたしも、こんな綺麗な場所で、好きな人と式を挙げたい、なんて思ってしまうくらいに。
思わず、数日前に告白して恋人という関係に落ち着いたあの人の顔を思い浮かべてしまって、思わず顔が熱くなった。あの人は、あたしがこんな場所で式を挙げたいと言ったら、どんな顔をするんだろう。気が早すぎるかな?内心できゃあきゃあと悲鳴を上げつつキョロキョロしていると、ゆりがそっと近づいてきて、あたしに囁いた。
「どう?ええ場所やろ?」
「うん!とっても!でもこんな場所、どうやって見つけたの?」
「偶然や、偶然。ネットで見かけてな。行ってみたいなぁ思て」
「へえ……」
なんだか、意外だった。基本的に何に対しても無関心気味なゆりが、こんなロマンチックな場所に興味を持つなんて。
もしかしたら、意外とゆりも、こういうのを好む女の子らしい一面があるのかもしれない。
「ほんだら行こうか」
ゆりがするりとあたしの手に自分の絡ませながら、言う。珍しい。普段スキンシップを嫌がる節があるのに。
「……うん」
素直に手を引かれれば、ゆりは満足そうに微笑んで、奥に見える教会のような建物のほうへと進んでいく。
いつもと違う様子のゆりに違和感を覚えながらも、あたしは、ゆりに付き従うようにして、ゆっくりと歩みを進めた。
「うわぁ、綺麗……!」
一歩足を踏み入れたその建物の内部は、少し寂れてはいるものの、神秘的な空間が広がっていた。
少し草臥れたように見えるステンドグラスも、光を受けて、キラキラ輝いている。
少し古ぼけた様子でさえ趣に変えてしまうその空間に、あたしは一瞬で魅了された。
だからこそ、気付かなかったのだ。
あたしの手を握る彼女の様子が、おかしかったことに。
「……さくら」
「ん?なあに?」
名前を呼ばれて、突然ぐい、と腕を引かれた。
目の前に、ゆりの無機質な瞳が広がる。何が起こったのか分からないままに呆然としていると、そのままあたしの身体は、教会の冷たい床に叩き付けられた。
「……っ、い、った……な、何するの……っっ」
叫ぼうとした声は、しかし、首筋に触れた冷たい感触に、吸い込まれた。
おそるおそる、自身の首筋に当てられたものを見る。そして今度こそ、ひゅ、と息を吸い込むこととなった。
首筋には、冷たく光るナイフが突き付けられていた。
「ゆ、ゆり……?」
「……」
「どうして……?どうして、こんなの、」
「……さくらが、悪いんや」
なにも答えてくれないんじゃないかと、そう思ったけれど、どうやらそれは杞憂のようだった。
ぽつ、ぽつ、と零される声。その声は酷く淡々としていて、しかし、隠しきれない狂気を孕んでいる。
「さくらが、あんな男を選ぶから。さくらが、あんな男と付き合うって言うから」
長い前髪から覗くゆりの瞳と、あたしの瞳がかちりと合う。ゆりの瞳の奥には、ぐるぐるとした気持ち悪いほどの執着が渦巻いているような気がして、ひ、とちいさな悲鳴が漏れた。
「さくらが、あの男と付き合うことになったって聞いてから、ずっと、ずっと、どうすればいいのか考えてた。ボクは、自分が誰かのいちばんにはなれないって、知っとる。だから、だからこそ、自分のいちばん大事なものだけは、自分のものにしたい。他の誰にも渡したくない。だけどさくらは、他の男のモノになってしまう。ううん、なってしもた」
ナイフを握るゆりの手に力が篭って、あたしの首筋に食いこんだ。ぷつり、と薄く皮膚が裂かれて、そこから血が流れ出すのを感じる。
こわい。怖くてたまらない。目の前にいるのは、一体誰なんだろう。ゆり、あたしの大切な友人。そうだったはずだ。
ゆりは、一体なにを言ってるんだろう。大切なものは、自分のものにしたい?つまりゆりは、あたしを自分のモノにしたいと、そう、言っているのか。
ぞわり、と怖気がはしった。久しく忘れていた、実家での自分を思い出す。
まるであたしを、自分たちのモノのように扱っていた、パパとママ。あたしの意思なんて、大学進学のために反抗したあの時まで、見て見ぬふりをしていた、パパとママ。
歯向かう意思を見せれば舌打ちをされて、望むように振る舞えば、機嫌よく頭を撫でられた。あの家でのあたしは、間違いなく、ふたりのお人形として生きていた。
それが嫌で、あの家を飛び出して、あたしはあたしの人生を歩むはずだったのに。
どうして。外に出て初めて出会った大切な友人に、あたしの人生は、再び、奪われようとしているんだろう。
「……っ、ひ、なんでぇ……どうしてっ、ゆり、こんなこと、するのっ」
ぼろぼろと涙が零れた。恐怖と嫌悪感がぐちゃぐちゃに混ざり合って、吐き気を催してくる。
泣き喚いて、どうして、と叫んでも、ゆりは止まらなかった。あたしの身体を押さえつける力が、強くなるばかりだった。
「考えて、考えて、やっと分かったんや。どうしたら、さくらがボクのものになってくれるか。どうすれば、さくらがあの男のものにならずに済むのか」
くすくす、と調子外れたように、ゆりは笑う。
ナイフを押し当てているのと逆の手が、まるで恋人繋ぎをするように、あたしの指を絡めとった。
まるで、情事の前のような雰囲気を纏って。熱い吐息を零して、ゆりは、言葉の続きを吐き出した。
「簡単な、ことやったんや。さくらをこの手で、殺してしまえばいい」
その言葉を脳が理解した瞬間、あたしは全力で抵抗した。
「いやっ……やめて、離して!」
がむしゃらに振り上げた脚が、ゆりの鳩尾に綺麗に入った。衝撃で、一瞬ゆりの拘束が緩む。その隙を突いて、あたしはゆりの身体の下から這い出した。
手荷物の中からスマホを取り出す。
警察、警察に連絡しなきゃ。殺されちゃう。あの子に、友人に、殺されちゃう。
震える手で番号を押そうとして、しかし、それが叶うことはなかった。
ギリ、と、細い腕が、あたしの腕を捻りあげる。ゆりの手だった。
「……っ、痛……!」
その細い腕の何処にそんな力があるのか、と思えるほどの力で捻りあげてしまえば、ひとたまりもない。あたしは思わず、スマホを取り落とす。
ガシャン、と床に落ちたスマホを、ゆりは無情にも足で踏み潰した。
これで、通信手段が潰えてしまった。じわじわと絶望感が押し寄せてくる。
ゆりはじりじりと距離を詰めると、再び、あたしの首筋にナイフを突きつけた。
「……これでもう、誰とも連絡取れんなぁ」
にたり、と浮かべたその笑顔は、淡白ではあれど優しかった友人のそれとは、似て似つかないものだった。
「どうして、なんで……どうして、こんなこと、するの?優しかったゆりに、戻ってよぉ……っ」
「どうして?」
がつん、と腹を蹴られる。
「ぅ……っ、げぇ……っ」
吐き気が込み上げて、ごぽりと胃の中身を吐き出した。べたべたとした、汚らしい吐瀉物が、神聖な空間にボタボタと落ちる。
喉を焼くような胃酸の酸っぱさに、床に手をついてゲホゲホとむせ込んでいると、ぐい、と前髪を引っ張られた。
昨日、優しく顔を撫でられた時とは違う、乱暴な手つき。それもまた、悲しさを助長させたような気がして、むせ込んだせいで零れた生理的なものとは違う涙が、じわりと浮かんでくるのを感じる。
その、乱暴な手つきと打って変わって、ひどく優しく甘い声で、ゆりは、言った。
「そんなん決まってるやろ。さくらのことが、好きやからやん」
すり、と優しく頬を撫でられた。その優しさと、現在置かれている状況の差異が、とてつもなく、怖い。
頬を撫でる感触に、ふるり、と身体を震わせると、ゆりは恍惚とした笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「一目惚れ、やったんや。初めて会った時から、ボクは君に惚れていた。抱きしめたい。キスをしたい。なんならその先だってシたい。ずっとそう思ってた。だけど、さくらは、絶対にボクのこと、好きにならんやろ?やから、この気持ちは、伝えるつもりなんてなかったのに……」
するり、と身体を撫でられた。
やめて、触らないで。
叫びたくても、声はひゅう、という、変な呼吸音に変換されて、吐き出されるだけだった。
心地よかったはずの友人の手が、今では恐怖の対象でしかない。ゆるゆると太腿を撫で回して、スカートの裾から滑り込んでくるその手を叩き落としたくて、だけどそれは叶わなかった。
「さくらが悪いって、言ったやろ?あんな男のモノになるって言うから、だからボクは、ここで君を、ボクのものにしてしまおうと思った。そのために、君を旅行に誘った。君を安心させて、楽しませて、そして今日、君の全てをボクのものにする。この旅行は、それだけのためのものやったんやで」
君があんな男に誑かされなかったら、ボクだって、こんなこと、するつもりはなかったのに。
寂しそうに笑って、ゆりは言う。あくまであたしが悪いんだというふうに、ゆりはあたしをひたすら責め立てた。
あたしが。あたしが、悪かったのか。
ゆりをこんなに追い詰めたのは、あたしだったのか。
「ね、ねぇ、ゆり……やだよ、あたし、死にたくなんてないよ。あたしが悪い?あたしのせい?そんなの、知らないよ。なんであたしが悪いの?好きな人と付き合うことの、なにが悪いの?それで、ゆりの傍から離れたりする訳じゃないのに、それじゃ、だめなの?」
「いかん」
ピシャリと、冷たい返事が返された。
冷たい声。今まで聞いたことのないようなその声に、びくりと肩が跳ねた。
「付き合うってことは、さくらは他の人間のものになるってことやん。初めてのキスも、初めてのデートも、そしていつかは処女やって、そいつに捧げるんやろ?嫌や。そんなの耐えれん。考えただけで嫌で嫌でしゃあない。ボクは今のまんまの、誰のものでもない綺麗なまんまのさくらが、欲しい」
だから今、君を殺す。
そう言うや否や、ゆりは再び、あたしの身体を床に押し倒した。頭を強かに打ち付けて、ぐわり、と意識が飛ぶ。
次の瞬間、腹が燃えるように熱くなった。
ちらりと視線だけでそちらを見れば、ゆりがあたしの腹にナイフを突き刺しているのが目に入った。
「ごめんな、痛いよな。人殺したことなんてないから、勝手がよく分からんくて」
苦しそうに、ゆりが謝罪を述べたのが聞こえる。そんなことで謝られたって、困る。
謝るくらいなら、最初から、こんなこと、しなきゃ良かったのに。
「ばか、だな……ぁ、ゆり、てば……」
ぽろりと零れた言葉は、彼女に届いたのだろうか。
「そうやな、ボクは馬鹿や。やけどな、ボクは、もう、」
こうするしか、ないんや。
ぽつり、ぽつりと。雨が降るように、ゆりの涙があたしの頬に落ちる。
「さくら、好きや。君のことを愛してる。だから、迷子にならんと、あの世で待っとってな。すぐに、ボクも君のところに行くから」
最期に聞こえたのは、彼女のそんな言葉で。
最期に見たのは、まるで一世一代の告白をする時のように蕩けた、優しい、彼女の笑顔だった。
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