◇リハビリ・ショート―NO―
夕日が沈む放課後の校舎は、深紅色に染まっていた。
元海奏は、校門前で双子の兄・智を待っていた。
足を組み換え、鞄を左右の手で持ち替え、長く伸ばした髪をさっと耳にかけ、また戻して。
毎日校門の前で智が来るのを待つのが奏の日課である。
智を待つ時間も、智と過ごす時間も、智に触れ合う何もかもが奏にとってはいつも新鮮で、奏を取り巻く智には幸せという言葉しか浮かんでこなかった。
この日までは。
足音が一つ近づいてくる。
これはきっと・・・智だ!
女のカンというものか、奏には智の足音が聞き取れる。
そして奏は自分のカンを疑わない。
嬉々とした表情を顔中に滲ませ、奏は足音のするほうに振り返った。
「智っ!」
だが、奏の喜びの表情は瞬時に凍り付く。
一人きりのものだと思っていた足音が、二つに分かれていく。
いつも奏が焦がれる、静謐な空気を纏う智の隣に、寄り添うようにして女が一人。
(市橋、美希)
奏が名前だけは知っていた、智のクラスメイト。まともに鉢合わせするのはこれが初めてだ。
智に唯一笑顔を与えることが出来る女だと。
智が一番心の拠り所と感じているであろう女だと。
奏は知っていた。智に必要以上に近づく女のことなんてお見通しなのだ。
その市橋美希は、奏が突き刺すような視線を向けているのを感じたのか、戸惑いがちに智から少し距離取った。奏に見つめられているのが不安なようだ。
きっと奏についての噂を相手も聞き知っているのだろう。陰口と言えば陰口になるが、奏が否定しない至極真っ当な真実である。
「元海智には手を出すな。兄依存症の妹が黙っちゃいない」
智が美希の気配が離れていくのを感じたのか、大丈夫だから、と、美希に声をかける。
その瞬間、奏の中に強烈な苦い嫉妬の炎が沸き上がった。
(嘘でしょう?ねぇ、嘘だって言ってよ智っ!)
そして認めたくない現実を、奏は静かに痛感する。
智が美希に向けた表情の何と微笑ましいこと。
他人に心許した瞬間にのみ花開く、智の穏やかな表情を。
奏は激しく渦巻く嫉妬を必死に飲み下しながら悟っていた。
もう市橋美希は、智にとってただのクラスメイトではなくなってしまったのだと。
それ以上の存在になってしまったのだと。
奏は、自分のカンを疑ったことがない。
世界が崩壊していくようだった。
「奏、こいつは市橋美希。俺の、」
彼女。
少し照れ臭そうに、智は美希のことを紹介しみせた。
(そんな顔あたしと居るときには一回も見せてくれなかった! )
嫉妬の炎が膨らんでいく。鼓動は燃えるように激しくなっていくのに、足元はガタガタと震えて崩れそうになるのは何故だろう。
「は、初めまして。だよ、ね?元海さん。市橋美希、です」
どうして智はこんなに疾しくて黒いモノを抱えてるあたしに気付かないのなんでどうして?
市橋美希は偉いと、奏は感心した。鋭い眼差しを緩めずに。
智のいる手前、精一杯の明るさで彼氏の妹に声を掛けようと美希は必死だ。
今も美希が話しだした瞬間刄のような鋭さで襲い掛かった奏の視線に震えながらも耐え、何とか言葉を繋ごうと努力していた。
語尾なんて今にも消え入りそうな弱々しさを漂わせている。
なんて愉快。そしてなんてザマなの? あたしは。
「そういうわけで、俺今日からは市橋と帰るから」
智の普段とは打って変わった穏やかで温かみのある、そうまるで幸せそうな声に、奏の嫉妬は許容量を超えて溢れ出した。
(許さない!許すもんか!一生かかったって許してなんかやらないあたし以外に智の隣を陣取る女なんて、女なんて―)
「―ない」
美希が奏の唇の動きにはっと息を呑んだ。だが智はぴくりとも表情を変えなかった。
嫉妬を飲み下して話したせいか、智に意見するために怯えていたからか。
震える唇で紡いだ奏の訴えは智に届かない。
それがまったく相手にされていないようで、奏は寂しかった。そう、いつもそうだった。
たまにはいいでしょう?
最高に鈍感で、愛すべき“お兄ちゃん”
血の繋がりなんて全く無いけど、世界で一番愛すべきお兄ちゃん。
智の意思に逆らってはいけない。
奏には奏なりに、智と上手くやっていくための約束事を抱えている。
それは数えきれないほど頭の奥深くに刻み込んでいたはずだった。
だがこの激情は抑え切れそうにない。
(ほんと、笑っちゃうよ)
いきなりはい彼女だよと他人を紹介されたって、納得できるわけがない。
「許さない」
さっきよりも幾分強い口調で、きっぱりと奏は宣言した。
今度はきっと、智に届いているはずだろう。
案の定、智の冷徹とさえ言える表情にさっと朱が差し、殺気立った鋭さが目から放たれてきたのが奏には分かった。
嫌に冷たい粘液を飲み下したような気分になる。生きる上で最上級の不快感、拒絶されることへの恐怖。
智に拒絶されてしまったら奏には何も残らないのに。世界は輝きを失うのに。
それでもまだ、奏は立っていることができる。今なら拒絶される恐怖に打ち勝つことだってできる。
智が彼女を選んだということは、もう奏は選ばれなかったということだから。
「許さない。あたしは許さないんだからっ!それに認めないっ、彼女なんて!絶対にっ!」
奏は感情に任せて一気にまくし立てた。もはや開き直りの域だ。奏にはもう怖いものなんて何もない。
何も、何も―
「もう一ぺん言ってみろ奏」
智の吐き出した言葉に奏を取り巻く空気がさらに凍り付く。
心臓を鷲掴みにされたような痛みが、胸のあたりから全身へと徐々に広がっていく。
(こわ、い)
ここまで静かで激しい怒りは初めてだった。
何度も見てきた荒々しさとはまた違う、徹底的な冷たい拒絶。
足の震えは一層大きくなり、奏は立っていられなくなってきた。
何を思い上がっていたのだろう。
起こっていることのキャパと、受けている視線の圧は、とっくに許容範囲を超えていたというのに。
奏の意識がくらりと遠くなりかけた、ときだった。
「元海くんやめてっ!奏さんは何も悪くない、これ以上はだめよ!!」
兄妹の緊張感が最高の高まりを見せたとき、奏の耳を打ったのはそんな市橋美希の凛とした言葉だった。
その響きに、智は反応した。はっとして、瞳の鋭い光を和らげた。明らかに。
(え、今、何を)
奏は呆然と美希の言葉を聞いていた。
さっきまで沸点をゆうに超えていた嫉妬が、瞬く間に霧散していく。
残るのはただ、途方も無い虚しさと、寂しさだけ。
そして湧き上がるあまりの惨めさに、奏は泣きたくなってきた。
(こいつは、いや、このコは。智を止めることが出来るの?)
適わないのかもしれない。市橋美希に。一生かけても。
一番身近にいると信じていた奏にさえ出来かったことを。拒絶されることが怖くて、けしてやり遂げられなかったことを。
奏に怯えてさえいた市橋美希は、そんなことなどまるで無かったように見事にやってみせたのだ。
「そう、だな、市橋。ごめん、俺また止められなくなってた」
智が美希の言葉に頷いた。智が美希に返したものは、氷結の刄ではなく穏やかさの戻った温かい声だった。
二人の間に奏は割り込めそうになかった。
(ああ、智が)
あたしの、智が。
どんどんと離れていく。急速に、手の届かないところへと行ってしまう。
二人が作る世界には奏の居場所など無いだろう。
奏に残された道は、背を向けて静かにこの場を立ち去るだけだ。
(認めたくないのに。認めたくないのにっ!)
唇をぎゅっと噛み締める。気を張っていないと緩みそうな涙腺を意地で抑え付けるのだ。
この二人の前で、奏はけして泣くことなど出来ないだろう。
それが奏のプライドなのだ。
二人を置いて奏は走り出した。後ろを振り返ることは、けしてなかった。
走りだしてすぐ、元海さんと呼ぶ美希の声が奏に届いたが、聴こえないふりをした。
智からの言葉はなかった。何も。
これで終わったわけではないからだ。
帰宅し、自分の部屋に戻ってきた奏は惨めさに泣きたかった。だが泣いてはいられないと思った。
智が帰ってきたら。
その時二人の関係は本当に変わるだろう。
それが奏の直感だった。
智の登場を、しゃがみこんで震えながら奏は待った。
智が来たら言おうと準備していた言葉たちは、目の前でノックもなしに蹴られぶっ飛んだドアを見て飛散した。
驚きと共に胃へどす黒く凍った異物が入り込んでくる。
何かを訴えるときこんな幕開けを用意するときの智が、奏には何よりも恐ろしく見える。
そこには普段の智の姿は欠片もない。
ただの暴君がそこにいるだけ。
「何あれ」
こういった一切の無駄を省いた言葉には、より強い響きをもたらす魔法がかかっている。
智のすべての負の感情がこの一言に込められていた。
不満と、不信に、そして嫌悪も。容赦なく生々しい感情が突き刺さってくる。
手に取るようにその危険な空気を察知した奏の返答に全てがかかっていた。
もっとも、既に何もかもが手遅れだったのかもしれないが。
智の激烈な登場で対話を諦め始めた奏の言葉に覇気はほとんどなかった。
震えていたが、弱々しかったが、智に響けばそれでよかったのだ。
少なくともその時まではそう思っていた。
「何、って?あれがあたしの思ってること全てよ。他にどう言えっていう―」
の、まで言葉を続けることが出来なかった。
ばきんと壁を殴る音が、奏の言葉を遮る。
言葉を受け入れないという智の無言のサインだった。
一瞬真っ白になった奏の思考は、そこで怯えるのをやめた。
その様にむしろ腹が立ってきた。
(理不尽じゃん、智)
これって、とても、そう。
自分に向けられたあまりにも理不尽な怒り。嫌なものは暴力でなんとかしようとするそれ。
自分にとって嫌なことは何でもかんでも全部遮断だと言わんばかりのこれも、そう。
今まで何故こんなにも当たり前に智の暴挙を受け入れてきたのだろうとさえ思えてくる。
よく考えてみたらこれは、とても理不尽な怒りだ。
いつも奏が受け入れてきた智の怒りの数々、これだって十分理不尽ではないか?
身体のどこにも痕が残らない、魂にだけ器用に傷をつけられているような理不尽。
そしてそれを与える本人をもっと早く嫌いになれていたら、きっとこんなことにはならなかったのに。
全身がびくつきながら、どこかでこの感覚を与える相手にときめいている。なんておかしい感覚だろう。
それでも、想うことの何が悪い?
想い続けた男の隣で対等に歩く女の姿を認めたくなくて何が悪い?
「あたしは、ちゃんと、言いたいことを、言ったわ。
ずっと、理不尽だったのは、あんたのほうじゃない、智」
奏の理性のどこかが弾けた。
沸き上がってきたのは、熱い怒りだ。
無言で智は奏を促す。
しゃがんだままの奏を見下ろす智の姿には有無を言わせぬ威圧感があったが、奏はもうそれを怖いとは思えない。
市橋美希と智の前から去っていくとき感じた気持ちまで嘘のようだった。
やっぱり認めない。認めたくない。
こんな智に、こんな結末。
彼女、遠ざかる心、智の拒絶。
嫌いになりたいのに傍に居たい執着。
「いつも智は、自分の思い通りにならなきゃそうやって怒鳴ってきた。後で散々後悔してたことは知ってる。
でも怒鳴られるこっちの身にもなってみて。いつも智に振り回されてるのはこっちなんだよ!」
「だから?何?」
奏は今度こそ何を言ったらいいのか分からなくなった。
「今そんなこと関係ないだろ?俺の聞きたいことに答えてないんだよお前。
ふざけたこと言ってないでちゃんと答えろよ」
何も届いてはいないのだと、奏は悟る。
さっき、三人で立っていた場所で語った。あれをもう一度、繰り返せと?
智にとっては奏の言葉などまるでただ流れ通り過ぎていく雑音なのだろう。
自分の声は、所詮その程度のものでしかない。あんなにさきほど、振り絞ったのに。
何も届いてはいないのだ。
意地の悪い思いが頭の中をすっと過り、口元を歪んだ嫌らしい笑みに引き伸ばしていく。
無意識に形作られていく昏い微笑み。
即席の不仕合せな計画。
届かないならいいじゃん?言っちゃってもさ。
やけっぱちの始まり。
だってあたしの声は届かないんだから。響かないんだから。
届いたら届いたでどうとでもすればいいから、言っちゃえばいいのかな。
それがいいきっといいきっときっといい。
奏は引きつった笑顔を浮かべたままねっとりとした口調で切り出した。
「あたしの思ってることさっき全部言ったでしょもう忘れたの分からず屋が。
元海智に、お兄ちゃんに、いや、赤の他人に向けたあたしの気持ちの全部をさぁ!」
智は奏の言葉にわずかに反応した。突然何を言いだすんだと、訝しがっている。
そうやって首を傾げている余裕はないと、奏は智に反論の余地を与えぬまま言葉を続けた。
「頭がおかしくなったんじゃないかって顔してるよ?智。でも何が悪いの?
血の繋がらない一つ屋根の下で一緒に育った他人を好きになって、その他人に憎たらしいくらい可愛い彼女が出来て、それを認めたくないってことのどこが悪いの?
あたしはあんたの妹なんかじゃない、ただの他人よ?
本当の兄妹だったらおめでとうよかったねなんて言って終わるんだろうけど、あたしがあんたにそんなことを言う筋合いはないわ!」
訝しんでいた智の表情がみるみる強張っていくのを眺めて、奏の心は恍惚とした輝きに満ち溢れていった。
智自身がきっとよく知っている。奏は智に嘘などつかないということを。
嘘を言っているかどうかなんて眼を見てみれば分かるのだから。奏の感情など智は簡単に把握する。今はきっと、強烈な閃光のように。
だからこそ帰り道での発言の真意を探りにここにやってきた。
その奏が智にとって訳の分からないことを醜い形相で話しているのだ。
これが真実でないはずがない。
奏は心の底からいい気味だと思っていた。
あんなに智が好きだと体現しておきながら。
「なぁに智、今更?今更あたしたちが赤の他人だって知っちゃったの?あたしは小さい頃元海家に拾われたその名も青山奏って女の子よ。
同い年だったから双子って設定を使うことにしたらあっさり成立しちゃったんだもんね。
あたしは拾われるまでのことも拾われたときのことも拾われたあとのことも全部覚えてたのに、
やっぱ智にとっては他人事だったんだね、大きくなる頃には何も覚えてなかったもの。
あたしが本当に智の妹だって信じきってた。だからあたしと智の両親とで話し合った。
無理に本当のことを伝えようとすると智はきっと暴走しちゃう。
受け容れられないことを徹底的に拒否する智のこういう身勝手な性格を考えて、あたしたちは何も話さないことに決めたの!」
自分の顔を鏡で見てごらんよと、奏は智に侮蔑とも嘲笑とも言える表情を向ける。
智はがらがらと自分の世界が崩壊していくような顔をしている。
いや、既に智を取り巻く智が信じていた世界は終わりを迎えているのだろう。
短い人生の中で一番の絶望を堪能しているような、悲愴感に打ち拉がれた眼差しが頼りなげに奏を見つめている。嘘だろう?と問い掛けるみたいに。
いい気味。
疎ましがってねじ伏せて、妹として言うことを聞かなかったら無視して拒めば良いとかきっと考えていた智なんて。
散々妹だからと自分より下の存在だからとあたしの気持ちを理解しようとしなかった智なんて。
きっときっとこんなふうに考えていたんだろう智なんて。
智なんて。
想定していたはずの暴走が始まらない、心の底からショックを受けている智なんて。
何かが、躊躇い始めた。
非情になったはずの奏の心が智の悲しみを捉えた。
そこで、智をはねつけていた意思が、唐突に弾けた。
最後の最後に生まれてしまった。一度気付いたら無視することができなくなった。
智を想う気持ちが。
醜さに溶かしてごまかそうとしていた感情が。
これ以上智の心を切り刻むのを拒んでいた。
それに奏は気付いてしまった。
気付いてしまったら、もう話せそうにはなかった。
智をこうして悲しませたのは、奏自身だから。
言ってしまったから。
「あは、あはは。あははははっ」
智の悲しみは止まらない。
弱々しく奏を見つめる眼差しも変わらない。
奏にとってそれはもはや醜さに塗れた心にぐさぐさと突き刺さる杭でしかなかった。
これ以上見ていたくなかった。
奏はもう終わらせたくなった。
もう智をどうこうしようとは思えなくなった。
早く市橋美希に慰めてもらえばいいとさえ思った。
長い間感情の全てをぶつけてきた相手の悲しみなど見たくない。
もうやめよう。
「あははははっ、あはははっ、あはっ!」
乾いた虚しい笑い声をあげ続けた。
狂い尽くしたテンションでやってみたいこともあった。
きょろきょろと室内を見回して奏はハサミを探しだす。
奏の周りでは、こんな言葉が流行っている。
失恋した女の子が髪を切る行為を、リハビリ・ショートと呼ぶらしい。
ずっと、奏だけはすることがないと思いたかった。そう信じていたかった。
でも今は、それがすぐ目の前で奏が実行するときを待っている。
何をしても、いくら奏が智をずたずたに傷つけようとも、智に彼女が出来たこともまた事実だ。
智にとっての世界に強引に真実を塗りたくったように。
奏も奏の描く世界に真実を塗りたくらなければいけないような気がしたのだ。
智に押し付けたのだからだからあたしも。これって何ていうんだろう、「痛み分け」ってやつ?
ちょっと違うか。まあ、何でもいいや。
奏は小さな本棚の上に飾った文房具用の箱にハサミを立てて置いていたのを見つける。
ごく自然にそれを手に取り、ごく自然にそれを握る手を後ろ髪に持っていった。
智は何も言わず奏を見つめ続けている。いいよそのままそのまま。
もう片方の手で髪をぐっと掴みまとめ、ハサミを持つ手は両刄の間に毛先、いや肩先の長さになるよう、伸ばした髪の中心近くまで挟み込む。
狙いを定めた刄は、ためらうことなく望まれた長さの髪の毛を断ち切った。
いつかの昔、幼い智が好きだと言ってくれたことがある長い髪を。
市橋美希とは正反対な長い髪を。
ぱらぱらと毛髪を掴んだ手から切られた毛が床へと舞い始めた。
さくりと刄が何かを切り裂く音と、毛の海に包まれていく奏を見て智は我に返ったようだった。
「奏っ!」
智の焦ったような声を耳にし奏の手からハサミがからりと音を立てて落ちた。それでもまだ奏は笑い続けていた。
まだまだ笑い続けていたかった。とてもおかしな気分だった。
何かがいろいろ吹っ切れたようだ。そして振り切ってしまったようだ。
笑いすぎて酸素が足りなくなってきていることには気付いていた。
それでも笑い続けていたので、遂に限界がやってきた。
智のその声を聞いた奏は懐かしいものに巡り会ったような感情を自覚し、
全身の気が緩んで意識が視界が一気に白く染められていくのを止められなかった。
そのまま前のめりに倒れる。
身体が浮かんでいくような感覚と、首筋が外気に晒されてすうすうしていたのが最後の記憶だった。
視界に捉えたのは、自室の見慣れた天井と、夕焼けのオレンジだった。
もしかしたら、ついさっきのことだったのかもしれないし、日が一日かいくつか、経っているのかもしれない。
ベッドから起き上がる。部屋の扉が元通りになり、閉ざされている。
首筋がとてもすっきりしている。
目を動かし、床を見る。たくさん舞わせたはずの髪の毛が綺麗に取り除かれている。
目を動かし、部屋中を眺める。
智がいない。
ここにいたはずの智がいない。
「ともがいない」
呟いて大気に流した、言葉は奏の鼓膜を震わせて、
視界が涙で滲んできた。
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