酔い通せたら楽なのに

今日の彼の飲みっぷりは荒れていた。いつもと違う姿に、少しの不安と心配と、 好奇心が疼く。

小春はこっそりと横目で神楽屋を見つめながら、すぐに何かあったのだと悟った 。

小春が神楽屋の荒れた姿を見るのは、初めてだった。

家族連れも目立つ居酒屋の中は、とにかくその盛況振りを現しているように騒がしく、活気があった。

仕事の後の飲み会が残業よりも苦手な酒に弱い小春は、いつもこの空気にうまく馴染めない。

それでも小春は毎回きちんと参加表明を繰り返していた。

小春の酒の弱さは同僚みんなが知っていることだが、小春は少しだけなら飲むというそろそろ厳しくなってきた決まり文句を掲げ、ただ一つの目的のために飲み会参加を希望していた。

それは、神楽屋がその場にいるからだ。



同僚達が次々と酔っていくのをいいことに、小春は烏龍茶のオーダーを続けながら、滅多にないはしゃぎっぷりで仲間達と浮かれ騒ぐ神楽屋を見つめていた。

神楽屋は滅多に、小春が見てきたかぎりではまったく、仕事をしている中で強い感情を出すことはなかった。

いつも仕事を一番に考え、仕事への情熱を感じさせる一面を見せながらも静かに微笑んでいることが多い神楽屋は、同期のなかでも一番仕事が出来ない小春にとって憧れの存在だった。いつしか仕事ぶりへの尊敬に、好意が顔を出していた。

神楽屋に素敵な恋人がいることは知っていたけれど。



気が付けば毎回烏龍茶が当たり前の小春しか、まともに意識を保っている人間がいないようだった。他の参加者はもうみんなグダグダだ。

まったく酒を飲まない小春と飲んでも加減をわきまえて飲んでいる神楽屋がいつもみんなの覚醒係として活躍していたが、今回は神楽屋にそれを期待できそうにない。

神楽屋は頬をうっすらと赤く染めて、ぼんやりとした目を虚空に向けていた。

なんだか考え事をしているように、小春には見えた。



「小春ちゃん」

話せる相手が誰もいなくなり、最後の一杯を飲み干したらみんなを起こそうと決め込んだ小春は、突然横から聞き慣れた声で聞き慣れない呼び名で呼ばれ心底驚いた。好意からくるときめきと、普段の神楽屋からは想像も出来ないその呼び方への驚きだ。

いつも神楽屋は、小春のことを名字で「桜庭さん」と呼んでいた。けして名前で呼ばれることはなかった。

まるでそれは、恋人だけに与えられた特等席みたいに。

「小春ちゃん、俺の話聞いてくれない?」

名前を呼ばれた驚きに小春が反応を返せないうちに、神楽屋は小春の傍に寄ってきて力なく腰を下ろした。足取りはしっかりしているようだが覇気がなく、ぐったりしているようだ。

「俺、彼女に振られちゃった」

小春が何を言おうと、神楽屋は話す気でいるようだった。

小春は無言で続きを促した。

嬉しくなってもいいはずなのに、その話の切り出しを喜ぶことはできなかった。

その見ず知らずの彼女は、神楽屋自身を変えてしまうほど大きい存在だったのだろうから。

「彼女を幸せにしたくて、幸せにするために沢山仕事をしてきた。でもいつからかな。いつから俺は仕事しか見えていなかったんだろう?いつから彼女よりも仕事を取っちゃったんだろう?仕事は楽しかったのにな。俺、どこで間違ったんだろうな・・・」

語尾はどんどんと弱々しくなった。

それはいつしか、浅い寝息に変わっていった。



小春はやっぱり何も言えずに、それに言ってもきっと眠りのなかにいる神楽屋には届かないと思いながら、すぐ隣で首をがくっと下げて眠っている神楽屋をただ見ていた。目が離せなくなっていた。



神楽屋の閉じられた瞳が潤んで見えて、

小春も無性に泣きたくなった。

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