三十、初めての罪

 芳香は生まれながらにして木霊に愛されている。

 だから、芳香は清山で大切に育てられてきた。

 芳香の為なら、清山村の大人たちは自分の子供を喜んで木在へ差し出すほどに。


「木霊が人に降りたいと思う時ってね、守ってあげたいとか、もっと知りたいとか、一緒に遊びたいとか、そう木霊が思った時に、その人の前に姿を現すんだって。その中でも守りたいという感情は、木霊の強さに比例するの。例えば今の状況みたいに」

 

 芳香は一歩、また一歩と後ろへ下がる。

 その分、あっちゃんはしっかりと距離を詰めてくる。


「私たちは、あんたに良い木霊を降ろす為に利用されてんの。私は私から幸せを奪ったあんたを本気で憎んでる。けど、この感情すら利用されてんのよ」

 

 笑えるね、と言う目は全く笑っていなかった。


「村の連中は子供を集めて、みんなに木霊を降ろそうとした。子供はそれに耐えられなくて何人も死んでいった。私は運が良かった方。形は象れないけど、木霊の欠片がくっついてくれたから。でもそれも時間の問題。私より優秀な子がいたら捨てられる。全部あんたの為に実験が繰り返されてる。いずれちゃんと木霊を降ろせる子が現れたら、あんたに復讐しに来るだろうね。それであんたを殺そうとしたら、木霊に愛されてるあんたを守るために、強い木霊が降りるでしょ? はい、ちゃんちゃん、清山村の思惑通りになりましたってね」

 

 嘲笑を浮かべたあっちゃんは、ぶんぶんと首を振り乱す。


「絶対に阻止してやる。ここであんたを殺して、全部終わりにしてやるの! 必死で実験施設を抜け出してきたんだよ、あんたを殺す為にさ」

 

 あっちゃんが振りかぶったナイフは、芳香の腹部に深々と刺さった。


「死ね! 死ね! 死ね!」

 

 あっちゃんの狂ったような叫び声が響き渡る。

 芳香は地面に倒れ込み、痛みに顔を歪めた。

 周囲に血だまりが広がっていく。


「助けて」

 

 今にも消え入るような芳香の声に、少年に押さえつけられていた獣が反応を示した。

 絞められている首を身じろいで解こうとする。


「諦めろ、お前もここで殺す」

 

 獣はそれでも力いっぱい抵抗する。


「絶対、に、助けて、やる、からな」

 

 喉の奥から絞り出した声は、音となって周囲の木霊の欠片に届いた。


「早くその木霊を殺してよ!」

「分かってる!」

 

 少年は獣の腹や顔を何度も蹴りつける。

 その間に、木霊の欠片がぞろぞろと、獣を励ますかのように群がってきた。


「うわ!」

 

 ついに少年の下から抜け出した獣は、そのままさらけ出されている首に嚙みついた。

 血が噴き出し、後ろへ倒れる。


「嫌だ、こっちにこないでよ!」

 

 あっちゃんがナイフを振り回しながら逃げ惑うが、小石に躓いた拍子に、手元からナイフが離れた。


「死にたくない! 嫌だ!」

 

 火事場の馬鹿力とでも言うように、あっちゃんは獣に掴みかかって押し倒した。そのまま、何度も腹を殴りつける。


「どうして邪魔するの。私は普通の生活に戻りたいだけなのに。どうして、あいつの為に生きなきゃいけないの」

 

 咽び泣くあっちゃんの下で、獣は抵抗できずにいた。

 まだまだ力が安定していないようだ。それでも、このまま芳香を放っておいたら死んでしまう。

 痛みに堪え続ける獣は、視界に入ってきた姿にはっと目を見開いた。


「木霊を傷つけないで」

 

 あっちゃんの背後に、血塗れの芳香が立っていた。

 片手で腹部を抑えながら、もう片方の手にナイフを握っている。

 そして、それを大きく振りかぶった。


「ぎゃあああ!」

 

 あっちゃんの劈くような悲鳴が山に轟く。

 その項には、しっかりとナイフが刺さっていた。


「ああ、殺しちゃった」

 

 芳香は腰を抜かしてしゃがみこんだ。

 そのまま呆然と白目を剥くあっちゃんを見つめる。


「私のせいだ」

 

 獣はすぐさま芳香に駆け寄る。


「違う。オマエはワタシを助けてくれただけだ」

 

 芳香は力なく首を振った。


「人殺しは絶対にしちゃだめだって、あなたも覚えていてね」

「・・・ふん」

 

 芳香はこと切れたあっちゃんの両目に手を添える。 


「とても優しかったの。それなのに、私のせいで変になったんでしょ」

 

 清山村は、芳香の為に子供たちを使っているとあっちゃんが言っていた。

 まだ幼い芳香に全てを理解できはしないが、それでも良くないことだと分かる。  

 何人も子供たちが死んだと言っていた。

 最近村で見かけなくなった友達が数人いる。もしかしたら、芳香のせいで殺されてしまったのかもしれないと思うと辛かった。

 がさり、と近くの草むらが揺れた。

 獣が覗き込むと、さっき襲ってきた残りの三人が震えて身を寄せ合っていた。


「お願いしますどうか殺さないでください。ごめんなさい」

 

 呪文のように何度も繰り返す少年たちを一瞥して芳香を振り返るが、こちらに見向きもしていなかった。


「この場から速やかに去れ」

 

 少年たちはどたばたと立ち去っていった。

 芳香はずっとあっちゃんから目を離さずにいる。


「どうしたものか」

 

 おろおろと獣が困り果てていると、人型の木霊が現れた。


「芳香!」

「・・・白」

 

 白は目の前の惨状を見て、呆然と立ち尽くす。


「白、ごめんなさい。人を殺しちゃったの」

 

 ごほ、と吐血した芳香は、あまりの腹部の痛みに涙をこぼした。


「酷い怪我ね。すぐに治すわ。・・・全部、きれいに治してあげるからね」

 

 美しい旋律は、すぐに芳香を癒してくれた。

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