二十八、足りない思い出
「そいつらは、あんたを傷つけた奴らだ」
だから、白の癒しによって消されているんだ。
安助はそう言いおいて、徐に簡易ベッドの下から臙脂色のアルバムを取り出した。
中にはぎっしりと写真が納まっている。
「私がいるね」
スイカを持って同じ年頃の少女と映っている写真を見つけた。他にも、いくつか芳香が映っている写真があった。
清山村は小さい。だから子供たちの年齢は関係なく一括りにされて遊ぶことが常だ。写真の中には年上の少年に肩車をしてもらっているものもあった。
ページをめくる手が止まらない。
「どれも楽しそう。あ、お兄ちゃんもいる!」
目の前にある不機嫌そうな顔とは打って変わって、写真の安助は溌溂とした笑顔を浮かべていた。
「ここに写っている奴らを、あんたは残らず壊したんだ」
覚えていないか?
そう問われても、芳香の記憶に彼らの顔は無かった。
「まあ、そんな簡単にいくわけないか」
安助は自嘲したきり、また黙り込んでしまった。
何となく沈黙を破った方が良い気がして、芳香は口を開いた。
「お兄ちゃんは、私に思い出してほしいの?」
「・・・どうせこの会話も白に消されてしまう。それなら、ここであんたに全部ぶちまけたいって思っている」
安助の目から、ふいに涙がこぼれた。
反射的に指先を伸ばした芳香は、朗らかに笑った。
「それでお兄ちゃんが泣き止むならいいよ」
「でも、そんなことしたら」
もごもごと中々言い出さない安助を真正面から見つめる。
「ほら、言って」
芳香に頬をぎゅっと挟まれた安助がしぶしぶ口を開きかけたその時、軋んだ音を立ててドアが開いた。
「また勝手に家を抜け出したわね、芳香」
そこには頬を膨らました白が立っていた。
「白、どうしてここにいるの?」
「木霊の会から連絡が来たの。それより安助、これはどう言うつもりなわけかな?」
白が当たり前のように安助と呼んだ。
恐らく芳香が忘れているだけで、写真に映っていたように、一緒に過ごした時期があるのだろう。
咎められた安助はというと、どこか投げやりな態度で白に向き直った。
「こっちは親を殺されたんだ」
「殺されたから何? 芳香にそれを伝えてどうしたかったのよ。無駄にこの子を傷つけないで」
「・・・傷つけてるのはどっちだよ」
安助が力なく笑う。
どうしてか、芳香はその先を聞きたくないと思った。
ついさっきは本心から安助がぶちまけたいものを全て聞こうと思っていたが、本能が拒絶しているかのように体が震える。
「まるで初めて人を殺してしまったような顔してるこいつを見て、俺たちが傷つかないとでも思っているのかよ」
芳香は安助の言葉を理解するよりも先に白に縋った。
駆け寄ってきた芳香を優しく包み込んだ白は、まるで甘い汁を零すかのように耳元で囁く。
「芳香は人殺しなんかじゃないわ。誰も殺していない。大丈夫よ、ちゃんと私の歌を聞きなさいね。そうよ可愛い芳香が人を殺すはずないじゃない。吉乃の大事な娘よ。そんなことあっていいはずがないわ。全部消せば無いのと同じ。何も心配しないでいいわ。私に身を任せなさい」
白の歌声が頭の中に霧のように広がってく。
それでいい。芳香は今までと同じように白の癒しを受け入れる。
白の歌声の片隅で、安助の声が聞こえた気がした。
「そうやってまた忘れるのかよ」
きっと気のせいだ、と心の中で芳香は呟いた。
※
白を噛んだせいで口元が真っ赤に染まったタマと、人間を殺した時のタマの姿が被って見える。
「私もタマも、とっくの昔に人殺しだったね」
乾いた笑いが漏れる。
白の癒しを拒絶した反動からか、過去に癒されたはずの記憶達が洪水のように雪崩れ込んでくるようだ。
頭を押さえてしゃがみこんだ芳香に駆け寄った白は、勢いを殺さず思い切り抱きしめた。
「芳香は人殺しなんかじゃないわ。私が癒せば、過去なんて無くなるもの。芳香、私の癒しを許容しなさい、今すぐに」
必死の形相で白が歌い出そうとするのを芳香が止めた。
「私はもう、癒しを受け入れないよ」
「どうしてよ!」
白の悲痛な叫びが轟く。
芳香の脳裏に、力なく笑う安助の顔が浮かぶ。そうして記憶の洪水から浮かび上がってきたのは、芳香が初めて人を殺した日のことだった。
「そうだった。私が初めて人を殺した日は、あの時じゃなかったね」
安助の父親を殺した日よりもずっと前に、芳香はこの手で人を殺していた。
真っすぐに芳香を見つめる木在と目が合う。
「私もあなたと同罪だった。こんな私が木在さんを責めるなんて、お門違いだよね」
白の腕を振りほどき、ふらりと木在に歩み寄る。
木在はただその光景を見ていることしかできなかった。
「それでも、私はあなたを許せない。この気持ちは変わらないよ。だから、ちゃんと罪を償ってね。もちろん、私も私の罪を償うからさ」
そうして天木芳香は、湧き上がる木在への殺意を力尽くで自分の内に押し込めた。
誰もが黙り込み、静寂が支配する。
風に騒めく木々の音すらも、この場にいる誰にも聞こえなかった。
芳香には人を殺した過去があった。それも一度ではない。
白の癒しを拒絶した反動からか、虫食いのような歪な記憶が余すことなく綺麗に整えられていく。その中で、芳香は自分が背負う罪の重さが途方もないものだと理解した。
「私って、本当に最低だ」
カタカタと震える芳香を背に乗せたタマは、白と木在を一瞥した。
「タマは芳香のしたいようにさせる。芳香がこんなに辛くても癒しを要らないというのなら、タマはそれを尊重する」
白は小さく頷いた。
「分かったわ。それに、私たちがタマに逆らえるはずないもの」
皮肉気に笑う白の横で、まるで独白のように木在はほろりと言葉を零した。
「・・・あの村にいた誰もが、木霊に愛される天木芳香に憧れた。憧れは妬みを生む。彼女を追い詰めたのは、紛れもなく我々だよ」
深々と頭を下げた木在を興味なさげに眺めたタマは、飽きたとでもいうかのように尻尾を向けて空へ飛び立った。
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