二十七、安助の小部屋にて
白の癒しが完全に施されなかった芳香は、それでも家の中では忘れたふりをした。そうすれば、母と白は分かりやすいくらいに安堵した表情を浮かべていた。
「でも、どうして忘れずに済んだのかな」
すっかり夜の帳が降りた縁側で、悶々と考え込んでいた芳香に答えを示したのはタマだった。
今は子猫ほどの大きさになって、芳香の膝で寛いでいる。
「白の専門は外傷だからな。大きすぎる精神的なダメージには効かない場合がある。まあ、大抵は白の歌に身を任せていれば癒せるのだがな」
タマはちらりと芳香を見上げる。
「大丈夫か?」
「私は平気だよ。でもお兄ちゃんが心配だし、死体がどうなったかも気になってる」
「では皆が寝静まった夜中に見に行くか。タマの背中に乗るがいい」
「え、いいの⁉」
タマは得意げに頷いた。
「タマは芳香の木霊だから特別だ」
芳香は小さなタマを抱き上げる。
「ありがとう、タマ!」
「ふん」
柔らかいタマの毛を撫でると、嬉しそうに目を細めた。
芳香は満天の星空を見上げる。そこに溶け込むようにしていくつもの木霊の欠片が輝いていた。
その美しく輝く夜空も、夜が濃くなるにつれてなりを潜める。
「しー、絶対に音を立てたら駄目だよ」
布団から這い出た芳香は、抜き足差し足で真っ暗な廊下を進む。古びた木の床は、時折軋んだ。そのたびに芳香の肩が大げさなくらいびくりと上下する。
やっとのことで玄関にたどり着くと、そわそわと辺りを見渡してみた。何の気配も感じない。芳香は再び息を潜めて、そっと扉を開けた。
「いくぞ、芳香」
目の前には先回りしたタマがいた。優に二メートルはありそうな巨体である。
「ちょっと、ばれちゃうよ!」
「騒ぐな。タマが小さいと、芳香を背中に乗せれないだろう」
ほれ、と芳香に背中を向けて座り込んだタマに促される。
家の者たちに気づかれてしまう前に飛び乗った。
静まり返った村を走り抜ける。夜の散歩は楽しかった。
村と山を隔てる擁壁まであっという間に辿り着くと、タマは巨体を宙に浮かせた。
「あの場所だったな」
周囲の木々よりも高く飛び上がり、真っ暗な山々を見下ろしたタマは、ぴたりと視線を止めた。
「芳香、タマの毛をしっかり掴んでおけ」
「うん、分かった」
視界がぶれたと思ったら、次の瞬間凄まじい勢いで急降下した。
タマは地面に降り立つ寸前でぴたりと勢いを殺し、ふわりと足を地につけた。芳香は恐る恐るそこから飛び降りて周囲を見渡してみる。どこまでも暗闇だ。
「・・・死体は無いようだ」
「そっか」
母がなんとかしてくれたのかもしれない。そう思い、死体を確認するのは諦めたその時。
「こんなところで何をしている」
姿が見えないが、近くで安助の声がした。
「ごめんね、暗くて何も見えないの。そこにいるの?」
「もう一度言う。ここで何をしている?」
怒気を孕んだ冷たい声だ。芳香は思わず身震いした。
「その、気になって。お兄ちゃんの事も、死んじゃった人の事も」
暗闇から突如現れた手が、芳香の肩を力強く掴む。
痛くて小さく呻いたが、力が弱まる事は無かった。
「・・・まだ白に癒してもらっていないのか?」
声がすぐ傍から聞こえてくる。この腕は安助のもので間違いない。
「お兄ちゃんは白の事を知っているの?」
「こっちへ来い」
安助に引っ張られるままに進む。真っ暗闇で平衡感覚が狂ってしまいそうだ。
しばらく歩くと、ふいに安助の歩みが止まった。芳香は勢いよく背中に鼻をぶつけてしまった。
「痛いよ」
「中に入れ」
背中を押されてたたらを踏む。背後で扉の閉まる音がした。
途端に、視界が明るくなった。
パチ、と天井にある蛍光灯が光ってくれたのだ。
「ここはどこ?」
見たところ、何の変哲もない木造の小さな部屋だった。
「俺の部屋だ。そこ、座れ」
「あ、はい」
円形のラグに腰を下ろした。
そわそわと辺りを見渡すと、小さな簡易ベッドがあるだけの部屋のようだった。
ベッドの上には芳香についてきたタマがいる。欠片の姿になってもなお、どこか偉そうな雰囲気を纏っているように思えて、芳香は思わずくすりと笑った。
「・・・それで、さっきの質問はどうなんだ」
「もしかして、白の癒しの事? それなら本当に偶然忘れなかっただけだよ。多分、もう少しってところで目が覚めた」
「そうか」
安助はベッドを背もたれにして、そのまま何か思案し始めた。芳香が声をかけても、まるで聞こえていないようだ。
死体は確認できなかったが、安助は心配いらないようだし、もう帰ろうかなと考えていると、やっと安助が口を開いた。
「俺さ、今まであんたのことが嫌いだった。でも、今日で大嫌いになった」
「それは私が人殺しになったから?」
「いや、あんたが俺の父親を目の前で殺したからだ」
芳香は言葉を失った。
昼間に見た、安助を足蹴にしていたあの男が父親だと言うのだろうか。
「木霊の会に連絡して父さんの遺体を回収した。その時さ、あいつらは言ったんだ。やっぱり天木家はすごいって。まだまだ生贄が必要だって」
ぎり、と安助が歯を食いしばって芳香を睨みつける。
「こんなこと言っても、都合よく白に癒してもらっていたあんたには分からないだろうけど」
安助の言う通り、何のことだか芳香には分からなかった。
安助の怒気は増すばかりだ。芳香は狼狽えながらも、記憶のあちこちを探ってみる。そんな芳香を睨みつけている安助の目は、どこか悲し気にも見えた。
「あんたはさ、周りにいた友達の顔を覚えているか?」
いきなり話しが変わったが、芳香は素直に思い返してみた。
明るくて、優しくて、愛嬌のある芳香は、村中の子供たちと仲が良かった。砂場で山を作ったり、ブランコを二人で漕いだり。いつも芳香の周りには人がいた。
楽しい記憶は確かにある。なのに、どうして誰の顔も思い出せないのだろうか。
「えっと、何でだろう。少し前にね、引っ越してきた子とも仲良くなったの。猫を一緒に見つけた子もいた。また明日ねって約束したのに。どうして、思い出せないのかな」
頭を抱えて困惑する。
忘れている。それが白の癒しのせいなら、どうして芳香の友達の顔を忘れさせたのだろうか。
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