二十六、殺した日・続
村と外を隔てる擁壁まで戻ると、安助はそっと芳香の手を離した。
途端に心細くなった芳香は、ずっと顔を顰めたままでいる安助を縋るように見上げる。
「お兄ちゃん、私、どうしよう」
「家に帰って眠れ。そして今日のことは忘れて、二度と俺の前に姿を現さないでくれ」
安助はそう言い残すと、暗くなった山の中へ引き返していった。
冷たい物言いに、芳香の喉奥が熱くなった。ぐっと込み上げてくる涙を堪えた芳香は、大人しく家に向かう。
近くを浮遊しているいくつもの木霊の欠片が、まるで励ますかのように芳香の頭や頬にくっついてくるものだがら、ほんの少しだけ芳香の心は軽くなった気がした。
問題は、家に戻ってからだ。
村の中でも木在邸と並ぶほど大きな敷地を有し、立派な群青の瓦屋根が映えるこの場所が芳香の住まいである。
「はー。あのね、子供が一人で勝手にいなくなって、私たちがどれだけ心配したか分かっているの?」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいは誰でも言えるのよ。全く、反省しているのも今だけで、数日も経てばまた勝手にどこかへ行くでしょ。もう何百回も繰り返しているんだからそれくらいお見通しよ」
玄関に入ると、目の間に仁王立ちをしている白がいた。その顔は般若の形相である。
びし、と人差し指を額に突き付けられた芳香は、反動で数歩よろけた。
「もう、白の馬鹿力! 痛い!」
白に背を向けて走る。向かったのは母である吉乃の部屋だ。
「お母さん! 白が私のこと叩いたあ!」
「あらあら。叩くのは駄目ねえ。ほら、こちらにおいで」
「うん!」
勢いよく吉乃の胸に飛び込んだ。
柔らかで優しい匂いに、芳香の中で張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「・・・お母さん、ごめんね」
「もう勝手にいなくならないでね。あなたのお転婆なところは大好きだけど心配なの」
吉乃は小さな頭を撫でる。すると、芳香が嗚咽を堪えて泣き出してしまった。
「あのね、私ね、酷い事しちゃったの」
「酷い事ってなあに?」
あまりにも思いつめた顔をする芳香に、吉乃は何事かと焦る気持ちをぐっと堪えて尋ねた。
「・・・今日ね、木霊を降ろしたの。それでね、人を殺しちゃったんだ」
吉乃の撫でる手がぴたりと止まった。
「今、何を言ったの?」
「だから、人を殺しちゃったの」
「ううん、その前に言ったことよ」
吉乃の声は興奮気味だった。
そろりと顔を見上げると、喜色を隠しきれておらず、口角がいつもより高い位置にある。
「えっとね、木霊を降ろしたって言ったよ」
芳香がそう言うと、吉乃は痛いくらいの力で抱きしめてきた。
「やっぱり私の子ね。いつか木霊を降ろすとは思っていたけれど、こんなに早いなんてお母さん嬉しいわ」
吉乃は心底嬉しそうに微笑む。
その表情に違和感を持った芳香は、おそるおそるもう一度今日の出来事を伝えてみた。
「でも、人を殺しちゃったよ?」
「そうね、それはいけない事よ。もうそんな事をしては駄目。約束よ」
「うん、絶対しない」
どうしてだろうか。先ほどまで世界で一番心地良いと思っていた母の腕の中が、今は居心地が悪く思えて仕方なかった。
芳香は釈然としない気持ちでいたが、吉乃が発した言葉に確信を得た。
「人を殺せるほど強い木霊なんて、素晴らしいわね」
芳香とタマが犯した殺人を、木霊の力の指標くらいにしか思っていないような言い方だ。
芳香には、実の母の笑顔が醜く歪んでいるように見えてしまい身震いする。
「お母さん、死んじゃった人はどうしよう。まだ山の中にいるの」
「心配しなくていいわ。芳香は白に癒してもらいなさい。今日はとても辛い一日になってしまったでしょう。今は木霊を降ろせた喜びだけ抱えていればいいわ」
最近張り替えたばかりの襖が動いた。
「白、後はお願いね」
「任せて頂戴」
足音を立てずに部屋へ入ってきた白と入れ違うようにして、吉乃が出て行く。
「・・・可哀そうに。でも、もう大丈夫よ。私の歌に身を委ねていればいいだけよ」
「ねえ、死んだ人も白の歌で治せないの?」
「ごめんなさいね。死者に私の歌は届かないわ」
芳香は白にそっと抱きしめられ、耳の近くで歌を聞いた。体育の授業で怪我をした時や、何か哀しい事があるたびにこの歌を聴いているのに、異国の言葉のようなその歌詞を覚えることはできないでいた。
「いつもありがとう。・・・そう言えば、前はどんな時に歌ってもらったっけ?」
「何か怪我をしたんじゃない?」
「ううん、何かあって、私は泣いていた気がする」
「それってきっと辛い事よ。無理に思い出さなくていいんじゃない?」
「・・・確かに、そうだね」
芳香は大きく欠伸をした。
白の歌声は子守唄のようだ。芳香は訪れた睡魔に抗わず、そのまま深い眠りについた。
※
ふっと意識が浮上する。
完全に目覚めてしまう境目で、ぽっと浮かんだのは安助の辛そうな顔だった。連鎖するように、血だまりに落ちた男の首が浮かんでくる。
「・・・そうだ、死んだんだ!」
芳香は慌てて身を起こした。
はらりと落ちた毛布は、恐らく白が掛けてくれたものだろう。それをぎゅっと握り締めて、今にも叫び出したい衝動を抑え込んだ。
「きっと、いつもなら忘れてた」
いつも癒してもらった後、芳香はまるで何事もなかったかのように過ごしていた。それがおかしい事に気付かなかった。
「白は私の感情を癒す為に消してたのかな」
芳香が癒してもらうことになった原因が、まるで虫食いみたいに抜け落ちている。
これまで、芳香の心はそうやって守られてきたのだろうか。
芳香はすっかり暗くなった部屋の中で一人呟いた。
「どんな思い出でも、無くなるのは寂しいよ」
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