二十五、殺した日

 それから数日後、芳香は再び家を飛び出すチャンスを得た。

 木霊の欠片に連れて行かれるようにして、村の外へ繋がる擁壁を越える。

 またあの少年に会えるかもしれない。

 浮つく心の赴くままに、山に向かって駆けだした。


「今日はいないのかなあ」

 

 しばらく山の中を歩き回ってみたが、少年に出くわさなかった。タイミングが悪かったのかもしれない。

 ずいぶん山奥まで来てしまった。

 残念だが、昼過ぎの空に陰りが出てしまわない内に帰ろうと踵を返したところで、どさりと大きな物音が聞こえた。


「・・・助けて」

 

 続いて聞こえた人のうめき声には聞き覚えがあった。


「あの時のお兄ちゃんだ!」

 

 怪我をしているのかもしれない。芳香はすぐに声がする方へ向かった。

 木々が密集している為、足場が不安定で歩きにくい。途中で足を挫いてしまったが、そんなことは気にしていられなかった。


「お兄ちゃん!」

 

 木々を搔き分けるようにして進んだ先に、やっと開けた場所が視認できた。そこに少年が蹲っている。


「・・・どうしてこんなところにいるんだ」

「抜け出してきたの。ねえ、辛そうだからもう喋らなくていいよ」


 胸元を握り締めて、苦しそうに呼吸を繰り返す少年の背を撫でる。


「ここに居たら駄目だ。早く帰れ」

「お兄ちゃんのことを置いていけないよ! 助けを呼ばなくちゃ」

「頼む、やめろ」

 

 芳香は木霊の欠片に助けを呼んで貰おうと考えたが、すぐさま少年に却下された。

 しかし、こんな状態の少年を放っておくことはできない。芳香が考えを巡らせていると、少年が身を起こした。

 まだ苦しそうな顔だが、少し落ち着いたらしい。


「・・・ここは危ない。とにかく今は隠れていろ。いいな、死ぬ気で隠れろよ」

 

 少年は芳香の手を取ると、近くにあった太い木の幹の下にしゃがませた。

 また手を繋ぐことができた。すごく汗ばんでいたが、やっぱり大きくて温かい。 

 芳香がふっと頬を緩ませると頭を小突かれた。


「声を出すな。徹底的に気配を消せ」

 

 少年はそう言いおいて、先ほどまでいた場所に戻っていった。

 どういう事だろうか。

 その疑問に答えが返ってきたのはすぐだった。


「また失敗か。いつになれば木霊を降ろせるんだ、安助やすけ

 

 冷徹な声とともに一人の男が現れた。

 気になった芳香は、息を止めてそろりと覗きこむ。

 白衣を着た、体格のいい長身の男がいる。


「すみません。降ろせませんでした」

 

 安助と呼ばれた少年がそう答えるなり、男は俯く彼の顔面を蹴飛ばした。

 倒れ込んだ安助の口や鼻は血で赤く染まっていた。

 ひ、と芳香の喉の奥が引き攣る。

 慌てて口を押えて身を縮こませる。芳香の存在に男は気づいていないようだ。


「安助を見込んでいたが、どうやら違ったようだな。・・・さて、どうするか」

 

 男は顎髭を撫でて、安助を舐めるように見る。


「すみません」

 

 男は、繰り返し謝る安助の胸部に足を乗せ体重をかける。

 安助は身じろぐが、その気力さえすぐに底をついた。

 このままだと、安助が死んでしまう。芳香は木霊に頼んだ。


「お願い、お兄ちゃんを助けて!」

 

 芳香の声に反応した木霊の欠片が、瞬く間に集結していく。そして象ったのは、美しい純白の獣だった。

 突如現れた、三メートルを遥かに超える巨体に、その場にいた誰もが驚愕に目を見開く。

 獣は迷うことなく男を獲物として視線で捕らえた。視線はそのままに、芳香に問いかける。


「助けてやるが、その代わりワタシの名を決めてくれ」

「え、今? えっと、じゃあ、タマ!」


 ふよふよと芳香の周囲を飛び回る木霊の欠片たちを思い出してそう名付けた。

 タマは満足そうに頷いた。


「タマはこの名を気に入ったぞ」

 

 大きな尻尾をぶんぶんと振り回し、それが倒れている安助の頬を撫でた。


「よし、助けてやろう」

 

 タマは大きく口を開けると、鋭い牙を剥き出しにして男を襲った。

 それは、あっという間だった。

 直立している男の頭部を噛み切ったのだ。

 鮮血が飛ぶ。それはべったりと安助の頬にもかかった。


「あ、うわ、何して」

 

 男は未だに安助を踏みつけている。しかし、その頭部だけが綺麗に無くなっていた。

 首の断面からは、どぼどぼと血が溢れ出して止まらない。

 安助が状況を飲み込めたのは、ついに男の体が倒れてからだった。


「あ、嘘だろ、ああ!」

 

 恐怖で体が震えて止まらない。

 そんな安助の目の前に、丸い何かがぼとりと落ちてきた。

 頭上からタマの声が聞こえる。


「芳香に感謝するが良い。お前を助ける為に、タマを降ろしたのだから」

 

 安助の顔は青白いほど血の気が引いていた。

 目の前に落ちてきたのは、男の頭部だった。見開かれた目が安助を見ている。


「どうして、こんなことを・・・」

 

 安助は恐怖でその場から動くことができなかった。

 タマは巨体をするすると小さくしていくと、芳香の元へ駆けていく。

 木の幹に座り込んだまま、痛々し気に泣いていた。タマは芳香の頬に流れる涙を舐めとった。


「嘘、どうして、タマ、ねえ、どうして殺したの? …人殺しは、絶対しちゃ駄目なのに」

 

 タマは小首を傾げた。


「芳香の頼みに答えただけだ」

 

 それよりもタマを撫でろ、と芳香の手に額を擦りつけてくる。

 芳香の手はタマを撫でた。柔らかくて気持ち良かった。


「どうしよう、殺しちゃった。どうすればいい?」

「喜べばいい。これであの少年は助かったのだから」

 

 木霊を使って人を殺した。

 その事実が、芳香に重くのしかかった。

 どうしよう。何も分からないから、泣くしかない。そんな芳香に手を差し伸べたのは安助だった。


「・・・帰ろう」

 

 言葉少なにそう言って、帰路につく。

 安助に引っ張られながら村へ向かった。すっかり日は落ちていて、薄暗い中で虫の声が良く響く。

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