二十二、芳香の怒りと癒しの歌声を持つ木霊
天木家とは木霊の会を通して付き合いがあったので、芳香の事は昔から知っていた。
だからこの子は、母親とは真逆の人間だなといつも思っていた。
こうして対峙した今、これまでで一番それを肌で感じた。
あの弱々しい吉乃とは真逆の、力強い目が木在を捉えて離さない。
ごくりと生唾を飲み込んだ音が、辺りに響き渡った気がした。
「・・・芳香ちゃんは、私をどうするつもりなんだい?」
木在の問いかけに応える代わりに、芳香は小さくその名を呼んだ。
「タマ」
ごう、とすごい風圧が木在を襲った。立っていられず、その場にしゃがみこむ。
風が収まり目を開けると、視界いっぱいに白い毛が映った。木在はゆっくりと顔を上げる。
「ああ、お前か」
しゃがれた声が上から降ってくる。
「・・・いつ見ても、やはり君がほしくなる」
恍惚とした表情を浮かべた木在に、タマは分かりやすく顔を顰めた。
「芳香よ、こいつ気持ち悪い」
「じゃあ、殺しちゃおっかな?」
「・・・芳香の発言とは思えないな」
タマがそろりと芳香を見やると、ひどく純粋な怒りを発していた。
ぞくり、とタマの毛が僅かに逆立つ。
「まあ、芳香が望むならタマが殺してやるが」
「そうして。だって、この人だけ生きてるのはおかしいじゃん」
目の前で死んだ安住や宇能だけじゃない。研究の目的で、一体どれだけの子供たちが犠牲になったのか。
事件が終結したあの日から、ずっと行き場のない怒りを抑え込んできた。
けれど、もう限界だ。
「誰も木在さんの尻尾を掴めていないみたい。すごいね、他人事の顔してこんな所に逃げるなんてさ。今日だってお母さんが呑気に、最近木霊の会に木在さんが顔出さないって言ってた。・・・清山村があった場所で、あんな事があったのに、みんなすっかり何も無かったような顔してる。・・・もうさ、そんなの覚えてる私が手を下すしかないじゃん。絶対、許せるはずないんだもの」
タマが動く。
口を大きく開けた。大きく鋭い牙が下からはよく見える、と木在は思った。
このまま、嚙みちぎられるのだろうか。抵抗をしようと一歩退いてみたが、あまりにも大きいタマの巨体からしたら、身じろぎ程度の物だろう。
まるで芳香の怒りに呼応するように、木霊の欠片が木々からふわりと舞い上がっていく。
とんでもない数だ。まだ昼過ぎだというのに、緑色っぽく光るそれは良く見えた。
「あの日の空みたいだな」
ふと笑みがこぼれる。
山火事の日、山の上一面に出現した木霊の欠片の絨毯。地上は燃え盛る炎に包まれていた。あの色彩のコントラストは、何年経っても木在の脳裏にこびりついて離れない。
心底綺麗だと思ったのだ。
木霊の力が強い清山に研究施設を作る為、村を焼き払ったことを、あの時ほど正しかったと思った事は終ぞなかった。
「何度見ても綺麗なものだな。この景色は」
空を覆いつくすほどの木霊の欠片を閉じ込めるように、そっと目を瞑った。
木霊のタマを前にして、逃げ果せられるとは思っていない。
だが、待てど痛みは襲ってこない。
「どういうことだ」
苛立ったタマの声がする。木在はタマの視線を追って、再び木霊の絨毯を見上げた。
すると、まるでそよ風のようにさらりとした歌声が耳に届いた。
日本語でも英語でもないその独特な言葉の響き覚えていたから、気づいたら口から零れ落ちていた。
「白なのか?」
歌声は止むことがない。
優しく儚い旋律に耳を傾けてしまう。それはタマと芳香も同じだった。
何分、何十分と時が経った気がする。
歌声が聞こえなくなったと思ったら、静かに木霊の絨毯に乗った白が降りてきた。
「久しぶりね」
昔と何も変わらない姿だった。
木在は小さく頷いて見せた。
白はくるりと芳香の方に振り向く。
「芳香が怒って家を出たって吉乃が言うから慌ててきてみれば。・・・まったくもう、何やってるのよ」
「邪魔しないで」
芳香が口調を強めて言うが、先ほどまでの怒りは感じられなかった。
「邪魔ってねえ。人殺しになるのを止めてやってその言い分はないんじゃないの」
「だって」
「だってじゃない。タマも止めなよ」
タマが尻尾を振り抗議する。
「・・・タマ、こっちに来て」
芳香に呼ばれたタマは、その身をするすると小さくして芳香の腕の中に飛び込んだ。
「私の歌声で癒されたでしょ? もうこんなマネしたら駄目だからね」
白が持つ癒しの歌声は、傷や病はもちろん感情も癒してくれる。芳香の怒りは小さくなっていた。それを不服に思っているのはタマだ。
芳香の腕の中で、そっと耳元に囁く。
「良いのか、芳香。このままでは芳香も他の連中と同じになる。あの辛い事件で感じた怒りをここに捨て置いて良いのか?」
タマの背を撫でていた手が止まる。
「嫌だよ」
「あいつの癒しは、こちら側が許容して完成するものだ」
芳香は迷った。
木在を殺すなら人殺しになる。それでも、ずっと貯めていた怒りをあっさり捨てるのは嫌だった。この怒りの中には、これまで木在の犠牲者になってきた者たちへの思いも込めている。
誰も罰しないなら、自分が罰するしかない。
芳香は混じりけの無い殺意を木在へ向けた。
「それなら、私は白の癒しを許容しないことにするよ」
タマはひくりと口角を釣り上げた。
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