二十、白い木霊が降りた先
ざわりと木々が揺れ、風が頬を撫でる。
芳香はいつもの雑木林へ赴き、無造作に転がっている岩に腰掛けていた。
清山ダム付近で起きた、カルト集団による児童誘拐殺人事件として、施設関係者は軒並み逮捕された。
世間を騒がせた事件となったが、凄惨な事件はすぐに更新されていく非情な世界だ。話題は二月も経てば移ろっていく。
「タマ、おいで」
緑に発光する木霊の欠片は、芳香を歓迎するように木々から降ってきた。
木霊の欠片は集結し、瞬く間に白い獣を象った。
「まずはタマの毛並みを整えるがいい」
しゃがれた声は楽し気に弾んでいる。
芳香はタマの頭を膝に乗せ、柔らから毛に手を埋めた。
「安住君の遺体は見つかってないんだって」
「当たり前だ。ギョクが咥えて行ったからな」
あの日、氷が消え去った後、隠されていた地下は徹底的に捜査された。
芳香たちが警察に発見される直前に、ギョクは安住を加えて穴から去っていったのを覚えている。
信人は爆弾のリモコンについて、表面上冷静を装い説明した。その後の慌ただしさは異様だった。まずは直ちに子供たちの頭が調べられることになった。これで、子供たちを助けるという当初の目的は果たせた。
だから、ここからは物語でいう所の蛇足となる。
「行こうか、タマ」
タマの背に飛び乗った芳香は、爛々とした目で彼方にいるはずの木在を見据えた。
※
ぼとり、と涎と共に安住が落ちたのは、柔らかな枯草の上だった。
ギョクはすっかり冷たくなった安住の傍らで丸くなる。
安住の頬に、小さな木霊の欠片がくっついているのを見て、ギョクは笑みを浮かべた。
「だめだよ、密。僕が安住の木霊なんだから」
鼻先で突くと、木霊の欠片は風に揺られてふわりと舞い上がった。
木々が騒めき、一陣の風が吹く。
「もう、いいかな」
ギョクはそう言うや否や、静かに獣の姿を脱ぎ捨てた。
毛先から発光していく。それは木霊の欠片となり、ふわりと空へ舞い上がっていく。そして最後に残ったのは、安住と出会ったころの、小柄な少年の姿だった。
「強くなりたいんだ」
そう言った昔の自分を思い出す。
安住の思いを受け止めて、ギョクはタマのように強くあろうとした。
獣は象りにくい。それでも無理に象り続けた。
体は重いし、体力の消耗は激しいし、唾一つ飲み込むことすら億劫になるほど、獣の姿は辛かった。
それでも、タマのように強くあれば、安住の満足そうな顔を見ることができたから、ギョクはそれが嬉しかったのだ。
「ねえ安住、僕はもっと強くなってみせるよ!」
かつてのギョクに向かって、安住は嬉しそうに相好を崩した。
「ああ。俺たちはこれからも一緒に強くなるんだ」
薄暗い小部屋で、それでも力を求めて寄り添いあった。
辛いけど幸せだったあの日々は、もう戻ってくることがない。
ギョクはくうんと子犬のように鼻を鳴らす。
「安住がいないなら、もういいや」
ギョクはそっと目を閉じた。
枯草から煙が出始める。火の回りは早かった。
ギョクと安住を弔うかのように、木霊の欠片は彼らの周囲をゆらゆらと舞った。
※
「いじけないでよ、木在」
「いじけるさ。なんで俺の木霊にならねえわけ?」
木在は分かりやすく機嫌を損ねていた。
小学校でもずっと不機嫌でいた木在は、一日中同級生から怖がられる事となった。
それもこれも、隣にいる木霊のせいである。
白髪のおかっぱ頭の小さな少女は、苦笑して木在の頭を小突く。
「私は誰にも降りないの。そう決めてるって言ってるでしょ」
「こんなに仲良しなのに?」
「仲良しでも」
ふと木在は気づいた。少女が着ている赤い着物は、泥で汚れていた。
木在が問うと、どうやら近所の悪ガキに泥団子を投げられたらしい。
「はあ? そんなの俺が仕返ししてやるよ。どんな奴だ?」
手首を鳴らす木在をジト目で見上げた少女は、それはもう深くため息を吐いた。
「あのねえ、そうやってすぐに暴力に訴えるのやめなさいよ。向こうはあんたよりももっと子供だったし、珍しい白髪だったから興味持たれて追いかけられただけよ。私を止める為に泥団子を投げてきた事にはいらっとしたけど、本人が許してるんだから、その話はもう終わりよ」
木在は低く唸り、迷った末に木霊の意見を受け入れた。
「分かったよ」
「いいこね。さあ、今日も遊びましょう!」
最近、放課後はこの木霊と遊んでいた。
木在よりも冷静で、優しくて、少し口うるさい。木在はこの木霊を降ろしたいと常々考えている。
だから、二度や三度振られたくらいで諦めるという選択肢はないのだ。
「なあ、俺に降りたらいつでも遊んでやれるぜ?」
「・・・ガキごときが安い台詞吐かないでくれる?」
白い頭の少女は、さっさといつもの遊び場に駆けていく。
木在はその背を追いかけた。
日が落ちるまで遊ぶ。毎日繰り返しても、飽きる事なんてなかった。
だから、正に青天の霹靂だったのだ。
「坊ちゃんが遊んでいた木霊なら、天木さん家に降りたんじゃないかな」
庭師から聞いた話しに、木在の思考は止まった。
あの木霊は誰にも降りないと決めていたはずだ。だから庭師は嘘を言っている。
そう思ったが、嫌な予感にいてもたってもいられず、いつもの遊び場に駆けて行った。
「ごめんね、木在」
会って早々の木霊の発言に、庭師の話しが本当だったことを悟る。
気づけば、木在は木霊の手首を捻りあげ、近くの木の幹に押し付けていた。
木霊の顔が苦痛に歪む。
「嘘つき」
木在はさらに力を込めると、痛みに耐え切れず、木霊が盛大に泣き出した。
「うわ、そんな泣くなよ」
「だって痛いいぃ!」
えーんと赤子のようにしゃくり上げる木霊を前にして、木在はようやく平静を取り戻した。そっと手を離す。木霊の手首には真っ赤な跡が残っていた。気まずくなった木在は視線を落とした。
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