十九、密の暴走・続

 凍った部屋を突風が吹き抜ける。

 密の小さい体は難なく持ち上がり、壁に空いた穴に吸い込まれるように移動した。

 外で待ち構えていたタマが迎える。犬歯を剥き出しにしてにたりと笑った。


「このままだと芳香が凍えてしまうではないか。力を抑えろ、小僧」

 

 密は無反応で空中に揺蕩う。

 その間にも、密の足元が乾いた音を立てながら、瞬く間に凍っていく。

 ついには浮遊しているタマの足元も凍った。空中にできた薄氷の床に足を着ける。


「芳香よ、タマは密に無視されているようだ。面倒くさい」

「放り投げようとしないでね、タマ」

「分かった」

 

 タマは穴の淵に立っている芳香に頷いて見せる。しかし、ひどく面倒くさそうな顔を隠すことはせず密に向き直る。


「タマに任せられるかよ。密を止めるのは僕だ」

 

 ギョクが穴から飛び出てきた。薄氷の床に着地する。先ほど氷柱に貫かれた前足の痛みに顔を歪めた。


「足手まといは下がれ」

「うるさいな。そっちこそ下がれば」


 白と黒の獣が並んだ。

 密が手を空へ翳すと、一瞬にして頭上に数多の氷柱が形成されていく。

 このまま鋭い先端が降り注げば、真下に居る密までもが無事ではいられないだろう。

 空を覆うように、氷柱の数は増えていく一方だ。


「これはやばいな」

 

 ギョクの目玉がぎろりと動き、薄氷越しに地上を見下ろす。

 警察に連れられて、ボロボロの布切れを纏った子供たちが頼りない足取りで歩いている。見覚えのある研究員の姿もあった。警察に腕を引っ張られながらも、抵抗している気配はない。


「氷柱を消さないと、みんな死んじゃうよ」

 

 ギョクは短く息を吐き出すと、真正面から密に飛び掛かった。

 多少力任せでも、何とか密を正気に戻して氷柱を消させる。ギョクはその一心で動いた。


「密!」

 

 密を下敷きにして、体重をかける。

 ギョクの前足から血が噴き出たが、気にしていられない。


「なあ、密ってば! さっさと戻って来いよ!」

 

 密の顔が痛みで歪んだ。

 ギョクは必死に呼びかけ続ける。

 それを嘲笑うかのように、氷柱の範囲は広がっていく手を緩めない。


「甘っちょろい奴だな、ギョクよ。殺しはしないから後はタマに任せろ」

 

 タマが密の上からギョクを払う。


「密よ、目を覚ますがいい」

 

 タマは肺いっぱいに息を吸い込んだ。それに引きずられるようにして、眼下の山から木霊の欠片が浮かび上がる。

 先ほど芳香を包んでいた量の比ではない。

 山のあちこちから姿を現したそれは、まるで山自体が輝いているかのように思えるほどに増えていく。


「きれいだ」

 

 誰が言ったか定かではなかったが、この瞬間、誰もがそう感じていた。

 木霊の欠片は密の周囲に集まっていく。


「目が覚めたか?」

 

 タマの問いかけに、ぴくりと密の無表情が動いた。

 何度か瞬きを繰り返した密は、自身の体に纏わりつく木霊の欠片に驚き目を見開く。


「これ、すごく温かい。明里ちゃんの腕の中にいるみたいだ」

 

 表情を緩めた密は、タマの深緑の目に射抜かれる。


「聞け。このまま氷柱を落としたら、大勢の人間が死ぬ。どうしたい?」

 

 密は地上に目を向けた。

 蟻の行列みたいだ。ぞろぞろと歩いて、踏んだらあっけなく潰れそうだ。

 密の目から、涙が零れ落ちた。


「殺したいよ。もう、それしか思えないんだ」

 

 密は意識して氷柱をさらに鋭利に変形させる。


「そうか。芳香の望みだから、タマはそれを阻止するぞ」

 

 密は頭上に数十、数百と増やした氷柱を見上げる。

 氷柱を落とせば、密が立っている薄氷を難なく貫き、逃げる彼らもただでは済まないだろう。

 密は覚悟を決め、氷柱を落とした。


「許せなくてごめんね」

 

 重量のある氷柱が降り注ぐ。

 山を覆うほどの木霊の欠片は絶えず輝く。

 穴の淵に立っている芳香は、その光景に目を奪われていた。

 空も地上も、まるで宝石のように輝いて綺麗だ。氷柱の何本かは薄氷を貫き、地上へと近づく。タマ達も、このままだといつ氷柱に刺されるか分からない。

 目の前の光景が、芳香にはスローモーションのように見えていた。


「殺しはしないぞ」

 

 タマは降り注ぐ氷柱の中を悠然と進み、密の額にこつんと鼻先を引っ付けた。


「もう、象らなくていい」

 

 しゃがれているが、柔らかな声でタマはそう言った。

 途端に、密の体が発光する。


「・・・残念、氷柱が消えちゃった」

 

 地上から湧き上がる悲鳴はすぐに消えた。

 氷柱は人々を貫く直前で霧散したのだ。


「ああ、もう終わりか」

 

 密は砂のように形が崩れていく手のひらを見ながら、哀し気に呟いた。


「芳香よ、タマは止めたぞ」

 

 タマが褒めてと言わんばかりに尻尾を振り、穴に目をやる。密も釣られて目を向けると、芳香に明里の姿が重なって見えた。


「一緒に山へ帰ろう」

 

 明里がそう言って優しく笑うものだから、甘えたな密は必死に両腕を明里へ伸ばした。その両腕もさらさらと砂のように細かい欠片へとなっていく。


「うん、一緒に帰ろうね」

 

 密の笑みは半分消えていたが、それでも幸せそうな顔だったことは、ギョクがしっかりと見ていた。

 穴の淵に舞い戻ったタマとギョクは、部屋中を覆っていた氷がきれいに無くなっていることを確認すると、安住に寄り添う芳香の元へ駆け寄った。


「タマ、密を止めてくれてありがとう。あと、消さずにいてくれたことも」

「礼を言われるのは気色悪い」

 

 人型を象ることを強制的に止めさせ、木霊の欠片へと戻す。

 木霊を分解することで、感情も思い出も全て分散される。言わば、木霊にとっての救済措置のようなものだ。

 辛い思いも、幸せな思い出も。それが幸福かどうかは欠片となった木霊にしか分からない。

 けれど、とギョクは先ほどの幸せそうな密の顔を思い出す。

 恐らくそんな些末な心配など、密にとっては無用なのだろうと思った。

 

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