十八、密の暴走
べちゃりと粘着質な音がした。
密は、自分の頬に震える手を伸ばす。
目の前で爆ぜた、安住の肉塊が付着していた。
「う、うあ、ああ」
密は自分の体が急激に冷えていくのを感じた。吐く息が白くなる。
ぴきり、と音がしたので視線を走らせると、地面が凍り始めていた。
「密、落ち着いて。力が暴走してるから抑えてよ」
安住に寄り添うギョクが制止の声をかけるが、密の耳には届いていなかった。
外はまだ騒がしい。子供たちの泣き声が混ざっている。どうやら、警察が見つけて保護してくれているようだ。
慌ただしい足音の一つが部屋に入ってきた。
「
「阿立君、ここは大丈夫・・・」
レストランで出会った警察官の友田だ。
阿立は弱々しく首を振る。
友田は室内を見回し、血だらけで倒れる宇能と安住を確認して、驚愕に目を見開いた。
「すぐに救護班を呼んでくるから待っていて」
踵を返す友田の足元が凍って滑った。
打ち所が悪かったのか、友田は呻いたまま動けないでいた。
凍る範囲はゆっくりと部屋の外へも広がっていく。
密は壁も床も天井も凍った室内に既視感を覚えた。
「明里ちゃんの時と同じだ。ねえ、安住も死んじゃうの?」
涙が勝手に溢れてくる。
泣いたら抱きしめてくれた明里はもういないし、おにぎりを分けてくれる安住もいない。密が大切にしたかった存在は無くなってしまった。
なのに、明里と一緒に閉じ込められていた子供たちは、今まさに助かろうとしているのだ。
「こんな世界なら、僕はいらないや」
いっそ、全部壊してしまおうか。
優しい明里や安住が死んで、その他が生きているような不条理を、密は到底許せそうになかった。
「だめだよ、密」
「タマがいる強いお姉ちゃんに、僕たち弱者の気持ちなんて理解できるはずがない」
言葉にしてから、密は芳香への憎しみを自覚した。
強くて自由に生きてきた芳香には分かるまい。生きるためにひたすら藻掻くしかなかった、惨めな存在がいることなんて。
密は口元を歪めた。
それが不格好な自嘲だということに、芳香は数秒後に気づいた。
「辛いよ、お姉ちゃん」
密は哀しくなるくらい諦観に満ちた表情で呟いた。
地響きがする。それに続いて数多の悲鳴が部屋の外から聞こえた。
「何をしたの?」
「何もかも凍らしてるんだよ。大丈夫、凍ってしまえばあとは僕が砕いてあげるから」
芳香は素早くタマの名を呟いた。
派手な音を立てて、壁に穴が開く。
舞い上がった粉塵が収まると、ぽっかりと丸く空いた穴の向こうに、白い獣の姿が確認できた。
「弱い小僧が癇癪を起こしたか。タマの前では身の程を弁えろ」
タマが一たび咆哮を上げると、空気が激しく振動して密を吹き飛ばした。
壁に打ち付けられた密が呻く。
「おいタマ、止めろ! 密!」
ギョクの声に反応して密は身を起こした。
安住の傍から離れないギョクの姿に小首をかしげる。
「ギョクはさ、安住が死んだのに誰のことも憎まないでいられる? 僕は無理。この世の全てを憎むよ。だから止めないで。僕の気持ちが理解できるでしょ」
ギョクの前足の中で、徐々に温もりを失っていく安住。
安住と宇能の頭を吹き飛ばした人間が誰か、ギョクはすでに察している。
「理解はできるけど、賛同はできない。だって、安住は密をここから救おうとしていたんだ。その思いを無駄にしたらきっと悲しむだろ。だから僕は密を止めるよ。・・・こんなことは止めて山へ帰ろう、密」
ギョクの吐く息が白い。
だらだらと口の端から垂れ落ちる涎は、地面に付くと瞬く間に凍った。
「ごめんね、ギョク」
密は人差し指を天井に向けた。
小さな指先に、パキリと音を立てながら氷の粒が形成されていく。
ギョクは再度の説得を試みるが、密は首を振るばかりだ。
「頼むから止まってよ。もう宇能は死んで、リモコンを取り戻せたんだ。この復讐に意味は無い」
「僕にはあるよ」
小部屋の外で、悲鳴が続く。
氷漬けの空間で体が冷え、思考が鈍っていく。その中でギョクは判断した。
「密がその気なら、僕は死ぬ気で止めてやる」
ギョクは安住の頬をちろりと舐めてから、ギロリと大きな目で密を射抜いた。
素早い動きで移動し、密の細い両腕を自分の前足で地面に押さえつける。それから唸るような声で言った。
「タマは手出ししないで」
「ほう、このタマに指図するつもりか」
「するよ」
ギョクの即答にタマは鼻で笑う。
「タマは芳香に呼ばれてきたのだがな」
穴の外で優雅に揺蕩うタマが、芳香に顔を向ける。
芳香は目を閉じて考えた。
今、部屋の外はパニックだ。いきなり周囲が凍り出して、身動きを取るのに苦労していることだろう。人間ともども凍らす気でいるらしいことも伺える。それを止める為には、密にこの力を止めてもらうしかない。もしくは密本体を消すか。しかし後者は取りたくない選択だ。
それなら、タマに止めてもらうのが確実だ。少し乱暴にはなるが、タマの強さに密は叶わない。降伏させればいい。
芳香はギョクに向かって言った。
「タマなら密を止められる。ギョク、ここはタマに任せよう」
ギョクは苛立たし気に大きな舌打ちをした。
「うるさいな。どうせタマは面倒になったら、すぐに木霊だろうと人間だろうと消してしまうんだ。そんな奴に任せられるかよ」
密はギョクの真下で、必死に前足を押し返そうと藻掻くがびくともしない。
ギョクは密の頬の上にぼたぼたと涎を落としながら喚いた。
「頼むから、もう止めてよ。こんなに不毛なことってないじゃんかよ」
それでも密は首を振り続ける。頬にへばり付いた涎を辿るようにして涙が伝った。
密の鼓動が早くなる。
ドクドクドクと、激しくなっていく。体中が熱いのに吐く息は白かった。
内側から激しく内臓を叩かれているような感覚だ。
その違和感にいち早く気づいたのは芳香だった。
「密の力が暴走してる。ギョク、一旦退いて!」
しかしギョクの反応は数秒遅かった。
地面から何本もの氷柱が突き出ると、その一つがギョクの前足に刺さった。
「くそ!」
慌てて密から距離を取ったギョクは、密の動向を伺う。
「密、お前どうしたんだよ」
密は立ち上がっているが、その姿はどこか不気味であった。
両腕をだらんと下げ、首の据わっていない赤子のようにその頭はぐわんと揺れている。
「意識がないみたいだな」
タマはそう言うと、前足をくいと動かした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます