十七、安住の後悔とギョクの笑顔
芳香は一先ず、リモコンを回収する二人を待つことにした。
密は、安住と呼ばれる少年に懐いている様子で、どうやら敵ではないらしいことが伺える。
その間、木霊の欠片に包まれた宇能をどうするか考えを巡らしていた。
「阿立君が誰か連れてきてくれてるとは思うけど、合流するまでどうしよう」
いっその事タマを呼んで持たせようか。盛大に嫌がるだろうけれど。
悩んでいると、ぼたぼたと涎を垂れ流している黒い獣の鼻先が芳香の腕を突いた。
「そいつは僕が運ぶよ」
「それはありがたいけど」
ちらりと密の方へ視線を送ると、隣にいる安住とばっちり目が合った。
「ギョクは一応、俺の木霊だ。敵じゃない」
「そっか」
このギョクという木霊も、安住と一緒に密を攫ったやつだと警戒していたが、どうやら事情があるらしい。
今は密といる彼らを信じるしかないと腹をくくるが、木霊に捕獲されている彼は本当に敵なのかと少しばかり気になった。
顔に出ていたのか、安住が言い切る。
「宇能は敵で間違いない。この清山の地下を管理している中心人物だ」
芳香の頭に、瞬時に地下牢に閉じ込められた子供たちが浮かんだ。
冷たい地面に横たわる、弱々しい子供たち。あの子たちを早く救わねばならない。芳香は、逸る心を堅い拳を握ってやり過ごした。
「足音が聞こえる」
ギョクの耳がピコピコ動いた。
程なくして、複数の慌ただしい足音が聞こえてくる。
「天木さん、いる⁉」
足音に混ざる、知っている声。
間違いない、これは信人の声だ。
「阿立君、こっちだよ!」
芳香が叫ぶと、ドアを蹴破る勢いで信人が部屋に入ってきた。
信人はぐるりと部屋を見渡してから、へなへなと膝から崩れ落ちた。
「みんな無事だよね? あー、間に合ってよかった」
芳香が信人に駆け寄ると、痛いくらいに腕を掴まれた。
「警察の人たちが動いてくれたんだ」
耳を澄まさずとも、喧騒が聞こえる。恐らく、警察たちがこの施設の関係者と揉めているのだろう。大勢の気配が、扉一枚隔てた向こう側で行き来している。
「良かった、これで地下の子供たちを助けることができるんだね」
「うん、そうだよ。本当に良かった」
芳香はこの事実を嚙みしめるように、熱くなった目を閉じた。
しかし、ぴんと張り詰めた空気を察してすぐに目を開く。
外の喧騒が一際大きく聞こえるほど、この部屋は静まり返った。
ガサゴソとリモコンを回収していたはずの密と安住が、その手を止めたからだ。
密は呆然と様子で芳香に言った。
「おかしいんだ。何度見返しても、安住のリモコンがない」
安住は静かに目を閉じ、ギョクの目は瞬く間に血走った。口の端から涎を飛ばしながら、前足で木霊の欠片に包まれた宇能を蹴飛ばす。
壁に勢いよくぶつかった。ギョクは構わず前足を宇能に振り下ろす。
「おい、安住のリモコンはどこだ。さっさと答えろ」
宇能の顔は見えないので、意識があるかどうかすら分からない。
ギョクは何度も前足を宇能へ振り下ろした。
重たい音が何度も小部屋に響く。
数分と経たない内に、ギョクの一方的な暴力を受けた宇能が噎せ返りながらしゃべり出した。
「嫌だなあ、もう終わりか。・・・残念だけど、リモコンは近くにはないから諦めなさい。いやあ、本当に残念だ。木霊が降りない僕たちでも、木霊を服従させることができるシステムを作り出せたと思っていたのにね」
「何を言ってるの?」
口を挟んだ芳香に、宇能は懇切丁寧に教えた。
「安住とギョクの頭に爆弾チップを埋め込み、双方を人質にして僕に服従させる。服従を拒絶すれば頭が吹き飛ぶ。木霊と人間の信頼関係を利用した良いシステムだと思ったんだけど、まさかこんな形で破綻するとはね」
この男が言っていることを理解したくない。
芳香の頭は理解を拒絶するが、宇能の声は芳香に届く。
「僕の心残りは、あの天木芳香とタマを服従させることができなかったことかな。いや、それだけじゃないか。木霊に関する研究を多岐に渡り続けてきた自負がある。僕はもっともっと木霊を理解したかったけどもうできない。研究にこれ以上の時間を割くことができない。それが何より残念だ」
ぶちん、と太いゴムが切れたような音が宇能から聞こえた。
それに続くように、宇能を覆っていた木霊の欠片が、はららはと流れ落ちていく。それに赤黒い液体が混じっていることに気づいた芳香は、愕然と立ち尽くすしかなかった。
「こいつの頭にも爆弾があったのか」
それは恐らく、安住が発した言葉だった。
木霊の欠片がきれいに消え去ったから見える。
宇能の頭部は、原型を留めていなかった。
密は息を乱しながら安住に縋りつく。
「早く爆弾取らなきゃ。ねえお姉ちゃん、安住の爆弾取ってよ!」
密が泣きわめくが、芳香は何もできないでいた。
芳香の背に手を置いた信人が口早に言う。
「人を呼んでくるよ。もしも彼の頭に爆弾が埋め込まれているなら、早く処置してもらうべきだ」
芳香が頷くのと、バチンと大きな音を立てて何かが弾けたのはほぼ同時だった。
その弾けたものが何か、芳香と信人はすぐに察した。
「安住!」
ギョクが涎を垂れ流しながら駆け寄った先にある血だまり。
その中に横たわる安住の頭部は、一部が欠けていた。
ギョクは安住の口元に耳を寄せる。まだかすかに息がある。
「ギョク、ごめん」
今にも消え入りそうな声だ。安住の手がギョクに伸びる。
ギョクの柔らかな毛に触れた安住は、少しだけ頬を緩めた。
「俺はお前に、ずっと笑っていてほしかったんだ。ずっと、それだけがほしかったのに」
天木芳香に選ばれなかった可哀そうな木霊。
天木芳香ではない人間に降りた可哀そうな木霊。
可哀そうだと思ったから、可哀そうじゃないようにしたいと思った。安住がこの手で、誰よりもこの木霊を笑わせたいと願ったのだ。
「俺は間違えた。タマよりもお前が強くなれば、笑ってくれるかもしれない。宇能に従えば、その強さを手に入れられるかもしれない。・・・ばかでごめん。笑わせられなくてごめんな、ギョク」
安住の後悔は一筋の涙となり、青白い頬を流れ落ちた。
ギョクが鼻先で安住の頬を小突く。
「本当にばかだよ、安住はさ。ばかすぎて笑っちゃった」
安住の口角がゆっくり上がる。
そっと目を閉じた安住の瞼の外側で、ギョクも不格好に笑ってみせた。
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