十六、ギョクと名付ける

 湖の深さは胸の高さまであった。


「おい」

 

 抱いている木霊を揺さぶると反応があった。


「うるさいなあ」

「痛え!」

 

 木霊の拳が安住の頭に落ちた。

 安住の声を聞きつけて、芳香がバシャバシャと水をかき分けながらやってくる。


「目が覚めたんだね。良かった」

「天木芳香が助けてくれたの?」

「ううん、ここに居るみんなで助けたの」

 

 木霊は辺りを見渡す。湖の頭上には木霊の欠片がキラキラと浮遊していた。まるで満天の星空のようだ。そして芳香とタマ、最後に安住に視線を止めた。


「ふうん。ありがとう」

 

 木霊の小さな足が、照れ隠しするように水面を蹴った。

 轟々と燃え盛る清山に、程なくして雨がふ降り始めた。ゲリラ豪雨のような勢いだ。火の勢いが弱まったのを確認してから湖を出た。

 安住は腕に抱いた木霊に独白のようなものを漏らした。


「お前の様子が気になって来たけど、俺は助けてない。天木芳香とタマがお前と俺をここまで連れてきてくれた」

「へえ、僕の事気にしてくれたんだ」

 

 茶化すように喉の奥でくつくつと笑う木霊は、どこか楽しげだった。


「そりゃ、最近よくここで会ってたし。どうしてるだろうくらいは思うだろ」

 

 ゲリラ豪雨はまともに安住たちを直撃した。

 肌が痛い。

 安住は大粒の雨を隔てた向こうにいる芳香たちを確認する。芳香はすっぽりとタマに覆われていた。


「ふかふかで温かそうだねえ」

 

 木霊も見ていたらしい。


「いいなあ」

 

 ぽつりと漏れ出た木霊の本音に、安住はきゅっと胸が絞られるのを感じた。

 天木芳香という宿主を手に入れることが叶わない可哀そうな木霊にしてやれることなんて、抱きしめている腕にそっと力を籠めることぐらいだ。

 木霊はへらりと笑った。


「ねえ安住、僕は安住に降りることにするよ。だから名前がほしいんだけど」

 

 安住はぽかんと口を開けた。


「いいでしょ。早く、名前を呼んで」

 

 何度もせがまれた末、安住は折れることにした。

 この生意気だけど可哀そうな木霊の願いを、今この瞬間なら聞き入れることができるのだ。

 タマが雨を隔てた向こう側から、面白そうにこちらを見ている。

 安住とタマの視線が絡み合い、先に目を逸らしたのは安住だった。


「分かった。・・・じゃあ、お前は今からギョクだ」

 

 玉。まるでタマへ対抗するかのような名前だ。

 でも、それでいい。

 安住は子供ながらに決意したのだ。この可哀そうな木霊を、可哀そうじゃない木霊にする。天木芳香を手に入れたタマよりも、ずっと楽しく笑えるように。


「今から僕はギョクだ」

 

 そう言ってへへへ、と笑ったその顔を、またすぐ見ることができるように願った。


 

 複雑に入り組んだ地下道だが、宇能の部屋までの経路は頭に入っている。

 足取りに迷いはない。気持ちも吹っ切れた。


「今なら全部、救ってやれる」


 小部屋をいくつも通り過ぎていく。安住はそのうちの一つの小部屋に身を潜り込ませる。

 部屋の中には、もう一つの木製の扉があった。

 迷わずドアノブをひねると、そこは書斎だった。


「あそこだ」

 

 安住がこの部屋に呼ばれることは多々ある。

 壁一面の本棚の整理に駆り出されたり、要らない書類の処分を手伝うために出入りをした。

 だから、宇能がリモコンを操作するのを見かけることがあった。

 机の左側、一番下の引き出しにあるはずだ。


「何をしているんだい?」

 

 安住は伸ばしかけた手を止める。

 ここからだと机で隠れて相手の顔は見れないが、聞き親しんだ宇能の声を間違えるはずがない。

 安住は突破口を探すが、運よく見当るはずがなかった。

 大人しく立ち上がる。


「安住と僕は利害関係が一致しているから、こんな真似をされるとは思わなかったよ」

 

 宇能はそう言って白衣からリモコンを取り出した。

 宇能の傍に控えているギョクが吠える。


「安住、早く謝れよ」

 

 安住が首を振ると、ギョクはオロオロと狼狽えだした。だらだらと零れ落ちる涎をそのままに、クウンと情けなく鳴く。

 宇能は喉の奥でくふりと笑った。


「このリモコンは君じゃなく、密と繋がっているものだよ」

 

 安住は細く長い息を吐いた。

 この状況で、安住は誰も助けることができない。

 ここまでだ。だが、それならせめて宇能から密のリモコンを奪いたい。


「密は関係ない」

「あるさ。密に感化されたから、君は無謀な行動を取ったんだろう」

 

 安住は唇を噛む。

 宇能は手元のリモコンを弄びながら安住の反応を楽しんでいる様子だ。


「すごく残念だよ。大切な被験者に裏切られるなんてね」

 

 犬歯を剥き出しにして薄気味悪い笑みを浮かべる宇能が、リモコンのボタンに手を伸ばす。

 安住がそれを阻止しようと襲い掛かるよりも先に、宇能の背後から綺麗な回し蹴りを決めた芳香の方が早かった。

 宇能が吹っ飛び、地面に勢いよく頭を打ち付ける。


「みんな、この人を捕まえててね」

 

 よろめきながらも着地を決めた芳香の声に反応して、木霊の欠片は宇能の全身を覆った。

 呆気にとられた安住を見つけた芳香が、腕を引っ張ってくる。


「友達がね、助けに来てくれたの。だからもう大丈夫だよ」

 

 誇らしげな顔を浮かべる芳香は、つい数十分前の出来事を回顧した。

 

 木霊の欠片に守られながら気を失っていた芳香は、頬に感じる柔らかな感触に気が付いて目を覚ました。

 天井の次に視界に入ったのは、泣き腫らした目の密だった。


「私、気絶してた?」

「うん」

「ごめんね」

 

 木霊の欠片がさらさらと砂のように芳香から流れ落ちていく。


「ここは清山の地下?」

「そうだよ。今、安住が大変なんだ。手伝いに行こう」

「ちょっと待って。状況が全く掴めないんだけど」

「安住が宇能にばれたら大変なことになるの! だから早くリモコンを回収するってこと!」

「・・・分かったよ」

 

 密の必死の形相に、状況を把握するのは後回しにすることにした。

 芳香に助けられる人がいるなら、まずはそれが最優先だ。


「場所は分かる?」

「うん。連れて行くね」

 

 出入口に向かったところで、にょろりと伸びる蔓の先端と鉢合わせした。


「女竹の蔓だ! 阿立君たちが来てくれたんだよ!」

 

 芳香が蔓の先端に触れると、頷くような動きを見せた。


「これで地下の子供たちもみんな、きっと助けられるよ」

 

 密はうずうずと身を震わせると、勢いよく駆け出した。

 芳香もその後に続く。

 そこから宇能の部屋まではスムーズに移動できた。

 どうやら、女竹の蔓で監視カメラを破壊してくれていたらしい。誰にも気づかれることはなかった。

 時折人がいたが、抜け道を熟知している密のおかげで助かった。

 そして現在に至る。

 カランと音を立てて沈黙を守るリモコンを手に取った芳香が、密を振り返る。


「リモコンってこのこと?」

「そうだよ。それを全部回収するんだ」

 

 強と弱が書かれただけの簡素なリモコンだ。

 芳香がボタンに触れようとすると、安住の鋭い声が飛んできた。


「触るな。それ、強にしたら密が死ぬ」

 

 芳香はすぐに安住にそのリモコンを手渡した。

 そこで、重要なことに気づく。


「・・・あなたは密を攫った人だ」

 

 敵なのだろうか。

 どうしよう、リモコンを渡してしまった。背中に冷や汗が伝う。

 困惑する芳香の脇を通り抜けて、密が安住へ抱き着いた。


「安住、無事でよかった」

「おう。他のリモコンは引き出しの中にある」

「分かった!」

 

 密はすぐさま引き出しを開けた。

 何十個ものリモコンが無造作にしまってある。

 リモコンの裏に貼ってあるラベルには名前が書かれていた。

 密は、黙々と集めたリモコンを手近にあった宇能の鞄の中へ放り込んでいく。

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