十五、山火事が起こった日

「おい、そこの木霊」

 

 安住がその木霊に声をかけたのは、去っていく芳香を見つめる、その小さな背中に同情したからだ。

 安住が木霊の前に立ちはだかると、侮蔑の籠った視線で迎えられた。


「あ?」

 

 木霊はやけに喧嘩腰である。

 いらっとしたが、安住は呼吸を整えることで何とか苛立ちを抑え込むことに成功した。


「くそ、せっかく声かけてやったのに、何だよその態度」

 

 しかし、小言まで抑え込むことはできなかった。

 気づいたときには、木霊に回し蹴りをされていた。


「いってえなクソガキ!」

「は? 怒りたいのはこっちの方なんですけど。どうして僕がいきなりガラの悪い男に絡まれた挙句に貶されないとダメなわけ? 君さ、常識って知ってる? それとも人間初心者?」

 

 木霊は五歳児の風貌に似つかわしくない冷めきった目で、安住の脛をげしげしと重点的に蹴ってくる。


「ああ? お前が天木芳香の木霊になれなくて凹んでそうだったから、親切に声かけてやったんだろうが」

「笑わせるなよ。どこに親切な要素があった? 無いっしょ」

「うぜえ。お前に話しかけてやったのが間違いだったわ」

 

 売り言葉に買い言葉とはこのことだ。

 安住と木霊の罵り合いは続き、挙句の果てに肉弾戦と相成った。

 お互い無我夢中で叩き合い、掴み合いの子供じみた喧嘩に興じた。

 シロツメクサを潰しながら、コロコロと緩やかな丘を転がり落ちる。

 気づいたときには日は傾き始めていたし、服は雑巾のようにボロボロになっていた。

 二人は横たわった状態で空を仰ぐ。


「あー、本当、しつこいなあ」

「お前の方こそ、しつこい。棒みたいな体のくせして、突っかかってくんなよ」

 

 安住がぜーはーと吐く荒い息はなかなか整わない。

 木霊がからからと笑い声をあげる。


「だっさ。息も絶え絶えじゃん」

「うぜえ」

 

 安住は体を起こす。

 全身、草と土まみれだ。軽く払うが洗濯しないことにはどうしようも無さそうだ。


「じゃ、俺はそろそろ帰る」

「あっそ。・・・まあ、良い暇つぶしになったよ。うざかったけど」

 

 ばいばい、と軽く手を振ってその日は別れた。

 それから頻繁にこの木霊と出会う事になる。

 どうやら安住は、木霊の体よい暇つぶし要員に認定されたらしい。

 それから一月経たないうちに、安住がこの木霊に名を与える出来事が起きた。

 

 その日、山火事が起こった。

 夜も更けたころ、木在邸の自室で眠りについていた安住は、パチパチと何かが弾ける音で目が覚めた。次に知覚したのはひどい焦げ臭さだ。

 慌てて口と鼻を手で覆い、中庭に飛び出す。


「火事だ!」

 

 中庭から見える立派な竹藪が激しく燃えていた。その追随を許さないかのように、清山村を取り囲む山々が轟々と燃えている。

 皆は無事だろうか。

 カンカンと寺の鐘が激しく打ち鳴らされる。

 続いてドタドタと聞こえてきた何人分もの足音に振り返ると、大人たちが慌てて外に飛び出していくところだった。


「おい、安住の坊! お前もさっさと逃げろ」

 

 庭師の男に声をかけられた安住は、痛いくらいの力で腕を引っ張られながら、村の中央にある避難所に向かうことになった。

 村人たちは焦燥と困惑にまみれながらも同じ方向に進んでいく。


「恐いよう。死んじゃうよう」

「大丈夫だって。村外に連絡はついてる。すぐ火消しが来るぞ」

 

 安住はぎゃんぎゃんと泣きわめく村の子を宥める。

 わしゃわしゃと頭を掻き交ぜてやると、少し落ち着いたようだった。

 避難所まであと少しだ。子供を抱きかかえようとした安住の肩に、勢いよく誰かがぶつかった。


「ごめんなさい!」

 

 天木芳香の声だった。

 避難所とは反対方向に進んでいく芳香の背中を見送る。


「そういや、あいつは大丈夫かな」

 

 脳裏に過ったのは、生意気な木霊だった。

 安住には木霊が宿っていない。なので木霊の詳しい事情は分からないが、山の力を糧としている彼らは無事なのだろうか。

 ドクンと胸が大きく跳ねた。


「ばあさん、この子を頼む!」

「あんた、どこ行くんだい?」

 

 安住は近くにいた女性に子供を預けると、返事もせずに駆け出した。

 木霊は人より強い。だからこそ人は木霊の力を求めてしまう。

 木在はよくそう言っていたから、安住が心配するほどのことではないと思う。けれど、こんなに大きな火事だ。もしかしたら、木霊たちに影響があるのかもしれない。

 安住が進む方角に芳香の姿が見えた。

 燃え盛る山の中へ駆けていく。


「あいつ無謀すぎるだろ!」

 

 火の回りが早い。燃え尽きた木々は次々に倒れていく。

 安住は、近くでちょろちょろと流れる小川に入り全身を濡らした。

 びり、と服の一部を破って口元を覆う。

 ひどい煙で目が痛み、視界が不明瞭だ。しかし、ここは最近よく来ている丘へ続く道だから慣れている。何とかなるだろう。

 小さくなっていく芳香の背中を追った。

 その背中の先に、地面に横たわる見慣れた木霊がいた。


「あれは!」

 

 安住が駆け寄るよりも先に、芳香の声が辺りに響く方が先だった。


「生きるよ!」

 

 芳香の手が迷いなく子供の木霊に伸ばされた。


「生きるんだから!」

 

 芳香の力強い声に触発されたかのように、子供の木霊は小さな手を伸ばす。芳香はそれを引っ張りあげて抱きしめた。

 ぐったりしている様子だ。無事だろうか、と気になるが安住は二の足を踏む。

 あの木霊が手を伸ばした先は芳香で、安住ではなかった。当たり前だ。先に木霊を助けようと手を伸ばしたのは芳香だったのだから。

 分かっているのに、目の前の光景に安住は確かな不快感を覚えた。


「タマ、助けて」

「うむ。ここからなら湖が近い」

 

 安住の目の前で、火を纏った木が倒れた。

 芳香がこちらを向いた。

 視線が真っすぐ絡まりあう。その目は驚きに見開かれた。


「こんなところで何してるの⁉ ほら、一緒に逃げるよ! タマ、早く!」

「分かっておる」

 

 タマが夜空を見上げると、木霊の欠片が雨のように降り注いできた。

 発光した緑色の粒子は、タマの元へ集結していく。木霊の欠片に背を押されるようにして、安住は歩を進めた。

 タマへ歩み寄ると、ふわりと体が持ち上がる感覚があった。

 安住は足元を見てみる。

 光る絨毯だ、と思った。

 まるで風に遊ばれている掛布団のように、ゆらりと揺れては上昇していく。


「これ、全部木霊の欠片なのか」

「うん、そうだよ」

 

 清山村を覆えてしまえるくらいのだだっ広い光る絨毯に、思わず感嘆の息を漏らす。

 安住の呟きに頷いた芳香は、得意げに笑った。

 芳香の隣にしゃがみ込んだ安住は、芳香の膝で意識を失っている木霊の口元に手を翳してみる。僅かに呼吸があったことに胸を撫でおろした。


「君の木霊なの?」

「いや、違う」

「そっか」


 月夜に照らされ、芳香の顔が明るく見えた。その頬は煤だらけだ。


「さっき川で濡らした。拭けよ」


 ずぶ濡れにした服はすっかり乾いてしまったが、裾を破いて芳香の頬に押し付ける。


「ありがと」

 

 よく見ると、頬だけでなく全身汚れてしまっている。

 もちろん同じ場所にいた安住もだ。


「みんな真っ黒だね」

 

 けらけらと笑っている芳香を見ているうちに、湖に到着した。相変わらず火事が収まる気配はないが、水の中なら幾分か安心できるだろう。

 芳香とタマが勢いよく水面に飛び込んだ。

 後を追うようにして、まだ意識の戻らない木霊を横抱きにした安住も湖へ入った。

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