十四、選ばれない存在

「面白い現象だけど、このままだと何も調べられないね」

 

 宇能はそう言い残して簡易実験室を後にした。

 部屋の中央にあるパイプベッドの上で、光り輝く木霊の欠片を纏った芳香が昏々と眠っている。


「密、少し休め」

 

 清山の地下に戻ってきた時には、日は沈み始めていた。

 今が何時なのか分からないが、密は帰ってきてからずっと芳香の傍を離れようとしない。

 安住はいたたまれない気持ちで密に声をかけた。


「安住のせいだ」

 

 弱々しく幼い、恨みの籠った声だ。


「ごめん。でも、ギョクがタマと会って戦わないわけないから、距離を取らないと危ないだろ」

「そのせいで宇能に捕まった。安住のばか」

 

 返す言葉もない。

 安住が口をつぐむと、密はひくりと喉を震わせて静かに泣き始めた。


「ここにいたらお姉ちゃんも死んじゃうよ」

 

 木霊の欠片が芳香を守っていなければ、すぐにでも手術室に運ばれる勢いだった。宇能は芳香の頭にも爆弾を仕込むつもりなのだ。


「結局、俺たちは宇能に従うしかないんだ」

 

 明里が殺された時と同じだ。

 受け入れて、生きるしかない。諦めることには慣れている。

 そんな安住の思考を読んだかのように、密は言い返してきた。


「でも、安住は僕を助けようとしてくれた。僕、それは嬉しかったんだよ。諦めないで何とかしようよ、安住。お姉ちゃんはまだ生きてる。まだ、助けることができるんだよ」

 

 何も知らずに眠り続けている天木芳香の寝顔は、ひどく間抜けなものだった。

 思わず嘲笑が漏れる。

 安住は天木芳香が嫌いだ。そのことに変わりはない。でも、天木芳香を助けることで密を救えるのなら、それは悪くないと思った。

 自分にできるだろうか。

 自問しても、答えはやってみなければ分からない。

 安住は、久しぶりに地下から外に出た時のことを思い出した。

 空も空気も、外の世界の全てが安住の目にはきらきらと輝いて見えた。あの瞬間、安住は確かに幸せだった。


「確実に助けられるか分からない。それでもいいか?」

 

 密の小さな体が、安住の腕の中に飛び込んできた。


「どんな作戦でいく?」

「まずは宇能の部屋にあるリモコンを回収する。あれがあると厄介だ」

「うん、分かった!」

 

 失敗すれば殺される危険性がある。それでも密の顔は喜色に溢れていた。

 安住は覚悟を固める。

 今まで身を委ねてきた環境に反旗を翻す為に。


「くそ、今さら足掻くことになるなんてな」

 

 安住は心底悔しそうに芳香を見やる。

 密を返して。

 あの時、そう言い切った芳香の凛とした声と眼差しに、思わず嘲笑が漏れてしまったのは、あまりに自分とかけ離れた存在だと実感したからだ。


「天木芳香がいるなら何とかなるかもしれない。そう思ってしまったんだから、仕方ないだろ」

 

 この時間、宇能は資料室に籠っている。

 安住は今が好機とばかりに部屋を飛び出していった。


「密は天木芳香を見てろ。頼んだぞ」

「うん、分かった」

 

 ひらりと手を振る。

 逸る気持ちを抑えて、何食わぬ顔で殺風景な地下道を歩く。時折研究員とすれ違うが、特に反応を示されることはない。

 窮屈で息苦しいと思いながら歩くことしかなかったこの道が、今は風通しの良い日向のように思えてならない。

 口角は自然と上がる。だから、見つからないように両手で覆った。


「宇能の言いなりでいるのは、もう終わりだ」


 何年も前のことで朧気だが、風が気持ちよく通り抜けていく、清々しい晴れ間のことだったと思う。

 木在邸の中庭で、少女が白い獣と戯れているのを、安住はぼうっと見ていた。

 フリルがたくさんついた、異国のお姫様のようなワンピースを着ている。裕福な家庭の子だろうことはすぐに分かった。

 朝からずっと庭の掃き掃除をしていた安住は、薄汚れた自分の恰好が惨めに思えて唇を噛んだ。


「どうした、安住」

「木在さん」

 

 両親を亡くした安住の面倒を見てくれている、村長の木在が声をかけてくれた。

 安住はどう答えていいか分からず、視線をちらりと芳香の方へ向けた。

 木在はすぐに察してくれた。


「あの子は天木芳香ちゃんで、一緒にいるのがタマ。いやあ、あんなに強い木霊を持つことができるなんて、芳香ちゃんは本当に大した子だよ」

 

 木在が羨望の眼差しで見つめる先で、芳香は無邪気にタマとじゃれついている。


「芳香ちゃんが生まれた時、木霊がざわついてね。誰が芳香ちゃんの木霊になるか揉めていたよ。あの日は一日中、山がうるさかった」

「ふうん」

 

 すごい子なんだな。

 安住が最初に抱いた感想は、その程度だった。

 天木芳香が木在邸を訪れてから数日経った日、安住は村の外れで芳香を見つけた。


「あれ、大きさが違う?」

 

 芳香の隣をてくてくと歩いているタマは、木在邸で見た時よりも一回り大きく思えた。

 休日ということで外に出ていたが、特にすることもない。

 タマが気になった安住は、気まぐれに芳香の後をついていくことにした。


「メルヘンな場所だな」

 

 芳香が立ち止まったのは、シロツメクサが茂っている丘だった。

 ちょうど良い岩陰があったので、安住は何となく身を隠して芳香たちを観察する。

 芳香は嬉しそうにシロツメクサを編み始め、タマは蝶々を追っていた。

 気の抜けるほど穏やかな光景だと思った。


「つまんねえな」

 

 安住は踵を返そうとする。


「ねえ!」

 

 そこに、幼子のよく通る声が響いた。

 その子は芳香に駆け寄っていくと、勢いを殺さないまま芳香に抱き着いた。


「ねえ、僕は君に降りたいんだけどどうかな?」

 

 降りたいということは、木霊なのか。

 安住はよく目を凝らしてみたが、人間の子にしか見えない。

 そのうち蝶々を追っていたタマが子供の木霊に気づき、芳香を背に庇った。


「残念だろうが、芳香が降ろしたのはタマだ。よって貴様の出る幕は無い。とっとと失せろ小僧」

 

 牙を剥き出しにして威嚇するタマは、発光したかと思うと次の瞬間には巨大化していた。

 三メートルはあるだろう巨体を前にして、子供の木霊は尻餅をつく。

 足がすくんで立ち上がれないのか、ぶるぶると体を震わせているのが遠目にも分かった。


「だめだよ、タマ。いい子にしなさい」

 

 芳香の丸みのある柔らかな声に触発されるかのように、タマはするすると萎んでいった。


「うむ、芳香の頼みなら致し方ないか」

 

 小型犬ほどになったタマが、ちょこんと芳香の膝に乗る。


「いい子だね、タマ」

 

 芳香に頭を撫でられて満足気なタマを、悔し気に睨みつける子供の木霊に向かって、芳香は優しく諭すように言った。


「君に素敵な宿主が現れるように、お祈りしておくからね」

 

 じゃあね、ばいばい。

 そう言って、シロツメクサの花冠を片手に、芳香は丘を去っていった。

 安住は、未練がましく芳香の背中を見つめ続ける木霊を、可哀そうだと思った。

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