十二、再会した木霊

 犬のように息を乱しながら、芳香はがむしゃらに足を動かす。

 雑踏を走り抜けて向かう先は雑木林だ。駅前から十数分の距離がこんなに遠いと感じた事は無い。半ば倒れ込む形で雑木林に足を踏み入れた芳香は、息つく暇もなくタマを呼び出した。

 木々が揺れ、光の粒子が降り注ぐ。

 きらきらと光り輝くそれは瞬く間に集結し、鋭い牙を持つ巨大な白い獣を象った。


「最近タマはこき使われていると感じている。だが芳香だから特別に許してやろう」

「タマは優しいね」

 

 芳香は手慣れた様子でタマの背に飛び乗る。


「清山の方へ向かおう。密を助けなきゃ」

「気は進まないが、芳香の頼みなら仕方ない」

 

 ぐわん、と空気を揺らして空へ飛びあがったタマは、周囲を見渡してから深緑の目を細めた。

 遥か前方に、懐かしい姿を見つけたからだ。

 

 町が米粒ほどの大きさに見えてきたところで、急にこの高さが怖くなった。

 柔らかな黒い毛並みを小さな手で掴んだ密は、後ろにいる安住にもたれ掛かる。


「安住は怖くないの?」

「ああ、問題ない」

 

 ひどく静かな空中散歩だ。

 まだ日は高い位置にある。しかし町の喧騒がここまで届く事は無い。上昇中は耳元でごうごうと風が鳴っていたのだが今はそれもない。


「どうして逃げた?」

 

 いまさらどうしてだと安住が尋ねた。

 ギョクの毛を掴む密の手がぴくりと動いた。

 明里が死んでから、密には次々と新しい子供が与えられたが、その全てを拒絶していた。そうすると程なくして子供たちは弱って死んでいく。

 宇能は残念そうにしていたが、それは密に宿主を与えられなかったことに対してだ。死んだ子供たちに対しては何の感情もなかったように見える。

 そんな環境から逃げずにいたのは、ただたんに人間へ復讐するためだった。


「僕が新しい宿主を拒絶すれば子供が死んで、宇能が残念がる。・・・心底ざまあみろって思った。明里ちゃんが苦しんだ分、僕があいつらをもっともっと苦しめて殺してやるって」

 

 訥々と話す密の後ろで黙って耳を傾けている安住は、暗い影を落とす小さな背中にそっと手を添えることしかできなかった。


「これからもずっと復讐し続けようと思ってた。でもそこにお姉ちゃんが現れた。背中がね、明里ちゃんに少し似てるんだ。くっついてみたら、やっぱり人って温かいんだよね。そう思ったら、なんだか急に疲れちゃった」


 人肌を感じたのは本当に久しぶりだった。思い出した温もりとともに、密は自分がしてきたことが分からなくなった。

 まるで道に迷った子供のように、助けてほしいと密は願った。芳香はその願いを聞き入れてくれたのだ。


「そっか」


 安住はギョクに上昇するように指示を出した。

 ぐわんと体が持ち上がる。快晴の下、眺めは良好だ。

 さらに高さが増したことで、密は体を強張らせる。もはや目も開けていられない様子だ。


「俺は宇能に、密を連れ戻すと約束した。それを違えるわけにはいかない。・・・でも」

 

 背後に感じる気配が、どんどん濃くなっていく。

 急速に何かが近づいてきているということだ。

 安住が確信を持って振り返ると、純白の獣に跨った少女の、射抜くような視線と絡み合った。

 安住の口角が自然と上がる。

 天木芳香の力強いその目は、昔と何も変わっていない。無知だからこそ強くて傲慢な、人を苛立たせることに長けているところなんて特に。


「密を返して」


 何の揺るぎもない凛としたその声に、安住の口から思わず嘲笑が漏れ出た。慌てて手で覆ったが、にんまりと細められた目までは隠せない。

 安住の様子を訝しがりながらも、タマに乗った芳香は着実に距離を詰めてくる。


「密、おいで」

 

 安住が足を伸ばせば、タマを蹴り飛ばせる位置に静止した。

 両手を広げる芳香は、あまりにも無防備だった。


「ギョク、やれ」

 

 きゅいん、と金属音に似た音が響いた。

 次の瞬間、芳香は勢いよく吹き飛ばされた。


「お姉ちゃん!」

 

 密が懸命に小さな手を伸ばす。しかし、吹き飛ばされた芳香は気を失っているのか、まるで布切れのように無抵抗に落下していく。


「なんてことするの! 安住のバカ!」


 大声で喚く密の頭を小突く。


「あれ、見てろ」

 

 それは、密にとって不思議な光景だった。

 落ちていく芳香に向かって、きらきらと輝く木霊の欠片が次々と集まってくる。

 それはまるで天の川のように見えた。

 地上から湧き上がってきた木霊の欠片は、揺りかごのように優しく芳香を包み込んでいく。

 夢でも見てるかのような幻想的な光景だった。

 木霊の欠片に包まれた芳香は、まるでおくるみを着た赤子のように、穏やかな顔で空中を揺蕩う。


「あの子はタマたち木霊に愛された子だ。この程度の加護はあって当たり前だ」

 

 タマが愛し気に芳香を見たのは束の間だった。

 ぎろりと安住とギョクを順番に睨みつける。


「貴様らは、タマたちの大事なものを傷つけた。許しはせんぞ」

 

 タマが獣の咆哮をあげる。

 開戦の狼煙だと、ギョクはすぐに理解した。牙の隙間から、だらだらと涎が滴り落ちる。

 白い獣と、黒い獣が対峙する。


「ずいぶんと風貌が変わったな、ギョクよ」

「おかげさまで。こっちは中々ハードな生活を送ってるんだ。そろそろタマを倒せるくらいには強くなったかもね」

「戯け」

 

 タマが前足を振り下ろすと、周囲にとてつもない風圧がかかった。

 臓器を捻り潰されるかと思うような風圧の強さだ。安住の喉に胃液がせり上がってくる。


「それ、僕もできるよ」

 

 鋭い牙を剥き出しにして無邪気に笑うギョクは、タマと同じように前足を振り下ろした。

 ごうごうと風が鳴る。

 タマの毛が激しく乱れるが、体は微塵も動かなかった。


「まあ、タマが強いことは知ってるけど。でも、僕はもう負ける気がしないんだよね」

 

 やけに好戦的な口ぶりだ。

 けれど、タマにとってはどうでも良い。


「タマの強さこそが本物だ。ただの猿真似風情が調子に乗るなよ」

 

 はははは、とギョクは高笑いした。

 口の端々から涎が飛び散る。

 一しきり笑い終えたギョクは、冷めた目でタマを見やる。


「あー、うっぜー」


 心底苛立たしそうに吐き捨てたギョクは、形振り構わず一直線にタマへ突進した。

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