十一、安住の襲来
おいしくて幸せなのに、胸が痛くて目が霞む。
目元を擦ると、芳香に優しく止められた。
「目が痛いなら洗った方がいいよ。擦るとばい菌が入っちゃうからね」
「もう平気だよ」
芳香を見上げようとしたら、窓ガラス越しに見知った人間と目が合った。
「・・・安住」
密がその名を呼ぶのと、店の窓ガラスが吹っ飛んだのはほぼ同時だった。
咄嗟にテーブルの下へ身を隠す。
客が少ないとは言え、突然の事態に店内はパニックに陥った。店内だけではなく、道行く人々が立ち止まり、慌てふためき混乱している。
叫び声も相まって、喧騒は収まる気配がない。
そんな中で、店内に散らばる割れたガラスを踏みながら、悠然と芳香の前まで歩いてきた安住は、迷うことなく芳香にしがみ付いている密の腕を掴み上げた。
「帰るぞ」
「帰らない」
密の拒絶に舌打ちした安住は、ぎろりと血走る目を芳香に向けた。
「天木芳香だな。お前が密をあそこから連れ出したのか?」
地を這うような声と、憎しみに満ちたその顔を見て、今にも殺されそうだと芳香は思った。
それでも、なけなしの気力を振り絞って頷いた。
「そうだよ」
安住はふっと鼻で笑った。心底、芳香のことを馬鹿にしたような表情だった。
「余計なことを。俺たちのことを何も知らないくせに、勝手なことをするなよ。密、死にたくないなら今すぐ帰るぞ」
安住がもう一度密に向き直ると、その違和感に顔を顰めた。
「お前は」
安住の言葉を遮るように、密はどこまでも諦観に満ちた顔で言った。
「オムライスを食べたんだ。すごくおいしかったよ。だからもう、帰らなくていいや」
時限爆弾は脳内にある。きっと安住が密を連れ帰らなかったら、直に爆発するだろう。
安住は歯を食いしばり、密の頬を思い切り殴った。
口内に広がる血の味に顔を顰めていると、安住が力任せに密を担いだ。
「密を連れて帰ることは決定事項だ」
たとえ生きることに疲れた密が死を望んだとしても、安住は到底納得できなかった。
明里を失ったのは安住も同じだ。それでも生きたいと願うのは、生物の本能だろう。
「簡単に死を選ぶなよ。俺たちはまだ生きてるんだから」
安住は割れた窓から外へ飛び出た。
「密!」
芳香が必死で手を伸ばす。
「僕にオムライスを食べさせてくれてありがとう。ばいばい」
密は小さな眉尻を下げて、安住の肩口へ顔を埋めた。
突如、安住の周囲に突風が巻き起こった。
土埃が舞い上がる。息が苦しい程の風圧に、人々は顔を覆ってしゃがみ込んだ。
風圧は店内にまで及び、割れたガラスが芳香たちを襲った。
つきりと痛んだ芳香の頬から、ぷっくりと血が浮かんだ。
「絶対に、連れ戻さないと」
突風が収まると、すでに安住と密の姿は消えていた。
女竹の腕の中に納まっていた信人が、不安そうに周囲を見渡す。
店内がめちゃくちゃだ。未だに店の前の通り道も混乱している。
「さっきのは何だ? 天木さんのことを知っていたようだけど、あんな危ない人間に関わるのは、僕たちだけじゃ無謀だよ」
信人の弱音は十分に理解できる。
それでも芳香はここで引くわけにはいかなかった。
「でも、地下室で密が私に言ったの。助けて、って」
「だとしても、僕たちだけでどうこう出来る相手じゃない。やっぱり木霊の会に助けを求めるしかないと思う」
警察は門前払いだったから役に立たない。
木霊のことを知っている大人で、尚且つ信頼できる人物。
信人は、遠い記憶を呼び起こす。
「そう言えば、母さんは村を逃げ出した後も、たまに木霊の会の関係者と電話してたんだ。それで天木さんのことも知れたわけだし。一度、このことを話してみよう。何か力になってくれるかもしれない」
芳香が素直に頷いてくれたので安心した。けれど、すぐに信人の顔は強張った。
「分かった。じゃあ、それは阿立君に任せるね。私は先に密の元へ行くよ」
「どうしてそうなるの!」
危険だと分かっている場所に、芳香を一人で行かせるわけにはいかない。信人は必死に説得してみるが、芳香には全く響かなかった。
芳香の眼差しは強く、固い意志がありありと浮かんでいた。
今の信人がどう言葉を紡いでも解けないほどに。
「必ず助けを連れて僕も向かうよ」
しぶしぶ芳香の考えを受け入れると、彼女はにいっと口の端を釣り上げた。
「ありがと。待ってるね」
芳香ははらりと身を翻すと、あっという間に雑踏の中へ消えていった。
信人は芳香のことを、物静かで心根の優しい少女だな、と常々思っていた。
けれど、それだけではなかった。
「あんな顔、できたんだ」
どこまでも自信に溢れた、強気な笑顔。
あんな顔をされたら、こっちだってこのまま足を止めたままではいられないではないか。
「こうしちゃいられない。女竹、僕たちもやるべきことをやろう」
「そうだね、坊や」
病弱な母は、この地から離れた総合病院にいる。そこから清山の関係者に連絡を繋いでもらうことを考えると、それなりに時間がかかる。それに、信人が木霊の会と繋がるのを良しとせず、子供たちの救援を望んだとしても、拒絶される場合があるかもしれない。
信人はひたすら考え続ける。
「阿立、大丈夫⁉」
ふいに届いた、良く通る高い声に振り向くと、割れた窓ガラスの外に美原美里が立っていた。大きな目をさらに大きく見開いている。
程なくしてパトカーが二台停車した。
警察官がすぐさま車から転がり出て、店員に話を聞いている。怪我人の手当もしてくれるそうで、混乱は少し収まった。
信人に駆け寄ってきた美里が、おろおろと辺りを見渡す。
「駅前で買い物してたら、すっごい音と悲鳴が聞こえたから来てみたの。すぐに電話したんだけど、やっぱり一一〇番って最強だね。よかった、倒れてる人とかいなくて」
ほっと胸を撫でおろす美里だが、深刻な顔をして考え込んでいる信人に気づき、その頬を突く。
「どこか痛かったりするの?」
「いや、僕は大丈夫だ。ただ、天木さんが危ないんだ」
そこまで言って、信人は口をつぐんだ。
事情を知らない美里に、木霊の話しはできない。
「芳香ちゃんが危ないってどういう事?」
美里が距離を詰めてくる。
「さっきまで一緒にいたのに、ふらっといなくなったのさ。ねえ、坊や」
信人の背後に音もなくすうっと寄ってきた女竹は、妖艶な笑みで美里に会釈した。
美里の頬が瞬く間に赤くなる。
「おや、ずいぶん可愛い反応をする子なんだね」
くすりと笑う女竹を咎めて、信人は美里に向き直る。
「ごめん、僕も行かないと」
「え、どこに? 芳香ちゃんが急に消えたんでしょ? それって緊急ってことじゃん! とにかく警察に言おうよ。あそこにいるんだし」
美里の指差した方向には、聞き込みを続けている警察官がいる。
信人の腕を思いっきり引っ張った美里は、迷いのない足取りでそちらへ進んでいく。
「でも、警察に言ったところでどうにもならないよ」
清山で起きた事をあれだけ必死に言い募ったのに、警察は少しも動いてくれなかった。
だから信頼できそうな大人に、少しでも早く助けを求めなければならないのだ。
すでに芳香は、一人で危険な場所へと行ってしまった。
ここで、時間を食うわけにはいかない。
信人が美里の手を振りほどこうと力を込める。
「こんなに窓が割れて人が消えたんだよ? それってどう考えても大事件だよ!」
美里の言葉に、警察官が振り返る。
「人が消えた? それってどういうことか、教えてもらっていいでしょうか」
美里に背を押されて、信人は一歩前に出た。
短く息を吐く。
これはチャンスだとすぐさま理解した信人は、悲壮感たっぷりの顔を即座に作った。
「ううう、僕のせいで危ない男に連れ去られてしまったんです! きっと、今頃・・・ああ、考えたくない!」
その場に崩れ落ちてみせた信人の背を、年若い警察官の一人が優しく叩いてくれた。
女竹は口元を隠して笑い、美里はあまりに急な信人の変わりように口をぽかんと開けている。
「落ち着いてください。ゆっくりお話を聞きますので」
真摯に対応してくれる警察官に申し訳なく思いながらも、何とか清山へ誘導するべく口を開いた。
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