十、オムライスの約束・続
明里は、ぼうっとした頭で辺りを見渡す。
どうやら、実験室と呼ばれている殺風景な小部屋のパイプベッドに寝かされていたようだ。薄いマットレスのせいか体の節々が軋む。
密は部屋の片隅で縮こまっていた。
「今日はどんな実験なんだろうね」
密に話しかけてみると、途端に泣き出してしまった。
「どうして逃げてくれないの」
明里は困った顔を浮かべる。
泣き止んでほしくて、小枝のような腕を伸ばしてみても、密には届かなかった。
だからせめて言葉を残そうと口を開く。
「オムライス、作ってあげられなくてごめんね。私がいなくなったら、密は山へ帰って。お願い、約束してね」
「明里ちゃんは約束を守ってくれないのに、なんで僕だけ守らないとだめなの」
密がそう咎めると、辛いはずなのにベッドからゆっくりと起き上がった明里は、威嚇してくる小さな木霊を抱きしめた。
密は明里の肩を次々と濡らしていく。
「私はこの場所が大嫌い。でも、ここで密と出会わせてくれたことには感謝してる。密、私に降りてくれて本当にありがとう。密のことが大好きだよ。だから大好きな人には、もう何にも縛られずに生きてほしい」
「そろそろ時間だよ、明里」
ドアのノックとともに聞こえてきた宇能の声に、二人は振り返る。
さっと現れた研究員二人が明里の腕を掴み、密から引き剝がした。
「嫌だ! 明里ちゃんを連れて行かないで!」
密の悲痛な叫びは無視された。
何故、明里がこんな目に合わないとだめなのだ。口惜しさと遣る瀬無さがない交ぜになる。
諦観を浮かべた明里と目が合った。このままだと、明里を見るのはこれが最後になるかもしれない。
そんなの、絶対に嫌だと強く思った。
「許さない!」
密の叫び声と共に、空気が揺れた。
地下室はどの部屋も空調管理が行き届いている。
常時、適切な温度で管理されているにも関わらず、この部屋は急激に寒くなった。
密の周囲から、ぴきぴきと音を立て地面が凍り始める。
明里を含めた誰もが、白い息を吐き出していた。
明里以外、みんな邪魔だ。死んでしまえばいいと本気で思った。
密の思いは形になる。
鋭く尖った巨大な三本の氷柱が形成され、宇能と研究員たちに向かって天井から発射された。
「すごい力だ!」
宇能が喜色満面の笑みで腕を広げる。
氷柱は三人に突き刺さる直前で動きを止めた。
「ギョクの力がなかったら、今頃串刺しだったよ」
宇能の背後から、のそりと黒い獣が姿を現した。
それでも、密の殺意は止まらない。
もう一度、氷柱を形成する。
「だめだよ、密」
大好きな明里の声に、密は少しの反応を示した。
「これは明里ちゃんの為だよ」
明里は首を振る。
「密が誰かを傷つけるところを見たくないの」
次は密が首を振る番だ。
「明里ちゃんのお願いは聞きたいところだけど、今は彼らを殺す方を優先するよ」
「密!」
明里の声が耳から遠ざかる。どくどくと、自分の脈動を何よりも強く感じる。
目の前にいるギョクの強さは知っている。けれど、ここで引いたら明里は死ぬ。それなら殺すしかない。
密は標的をギョクに変えた。
さっきの比ではない、鋭利な氷柱を数えきれないほど形成する。
天井も壁も氷柱で埋め尽くされる。
宇能は愉快そうに辺りを見渡しては感嘆している。
「人工的に木霊を宿らす実験での初の成功例が、まさかこんな力を秘めているとは驚きだよ。でも、あまりにも宿主が弱いね。密には別の宿主を宛がおう。より強い力が出せるかもしれない」
密は最初、宇能が何を言っているのか理解できなかった。
「今日の実験で明里を使い潰そうと思っていたけど予定変更だ。すぐに明里を処分して、密へ新たな宿主を与えることにする。ねえ、密はこれを覚えているかい?」
宇能が白衣から取り出したのは、小型のリモコンだ。弱と強だけが書かれた、おもちゃのように見える簡素な作りのそれは、密を動揺させるには十分すぎるものだった。
「待って!」
密の動揺は分かりやすく力にも表れた。
氷柱が溶けだし、ぽたりぽたりと雨のように水滴が降る。
どうにかしてリモコンを奪おうと宇能へ襲い掛かるが、結界のようなものに跳ね返されて倒れ込んだ。
「もう止めて! 私のことはいいから、お願い密、山へ帰って」
密は意地になって首を振る。
宇能はスマートフォンでも弄るかのように、片手で強と書かれたボタンを押した。
「アアァアア!」
明里が獣のような叫び声をあげ、頭を押さえてその場に崩れ落ちた。
密は目の前で藻掻き苦しむ明里に耐えきれずに、両耳を手で塞ぐ。
けれど、どうしても目を閉じることはできなかった。次に目を開けた時、明里が消えているかもしれないと思ったのだ。
明里の目尻と口と鼻から、絶え間なく血が溢れ出る。体がぴくりと不規則に痙攣を繰り返す。
どれほど苦しく痛い思いをしているのだろうか。密はそれをただ見ていることしかできない。
「明里ちゃん、明里ちゃん」
密は地面を這って明里の傍へ行くが、見えない壁に阻まれて触れることはできない。
何度も名前を呼び続けていると、明里が視点の定まらない目で、密がいる場所に血だらけの顔を向けた。
「ばいばい、密」
ほとんど声になっていない吐息のような言葉を残して、明里は静かに目を閉じた。
溶け出した氷柱のように、密の涙も止まらない。
明里が研究員たちに運ばれて行ってしまうのを、脱力したまま見送った。
「ごめんよ、密。上手く起爆しなかったみたいで、明里を無駄に苦しませてしまったね。本来なら頭が吹っ飛ぶほどの威力はあるはずなんだけどなあ。まあ、掃除は簡単だから問題ないか」
宇能が密の目の前に膝をつき、まるで幼子を諭す母親のような面持ちで説き伏せる。
「明里だけじゃない、君たちみんながこうやって管理されているんだ。今回の暴挙は特別に許してあげる。でもこれからはちゃんといい子にできるね?」
密は力なく頷いた。
明里がいなくなった喪失感以上に、密の感情が動くことはない。
もう何もかも、心底どうでもよかった。
「さあ、一度部屋へ戻ろう。すぐに明里より良い子供を連れてきてあげるからね」
宇能に腕を持ち上げられる。
為されるがままの密は、宇能の傍らに控えたギョクが何か言いたげなことに気づいたが、気づかないふりをした。
部屋に戻った密は、上手に隠してある料理雑誌に手を伸ばした。
「・・・明里ちゃんの嘘つき」
雑誌が手から滑り落ちてしまった。
拾おうとしたが、手が悴んでどうにもならない。この地下牢は、これほど寒かっただろうか。
密の体の震えは止まらない。いつも抱きしめてくれる明里の腕が無いと、一人はこんなにも寒いのだと、この時初めて知った。
地面に落ちた雑誌は、オムライスのページを開いていた。
「明里ちゃんのオムライス、食べてみたかったなあ」
明里がしていたように、地面に横たわり目を閉じてみる。
このまま目を覚まさなければいいのにと本気で思った。それと同時に、胸の内に作られた氷柱のように冷たい何かを、どうにかしたいと思ったのも紛れもない事実だ。
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