八、安住とギョク

 安住は普段、地下にある簡素な部屋に籠って生きている。

 高校には通っていない。勉強は時折していたが、割り算がどうしてもできず、最近は手を付けていない。周囲の大人には聞けないでいる。彼らは、木霊の研究のことで常に手一杯だ。

 安住はしばらく帰らない自室を見渡し、無意味に忘れ物がないか何度もチェックする。


「大丈夫そうだな」

 

 お気に入りのネイビーのパーカーを深く被りなおす。

 先ほど与えられたリュックサックには、安住が好きな雑誌を一先ず放り込んだ。

 自室にある私物は、この一冊しかないのだ。


「安住君のことはこちらで常に監視しているから、無茶なことはしないように。暴走するようならすぐに止めるからね」

 

 気配無く現れた宇能が、安住に釘をさす。


「分かってる。俺は密を捕まえて戻ってくる」

「できるだけ早く頼むよ」

 

 安住は地上へ向かうため、長い地下道を上がった。

 数名の研究員たちとすれ違ったが、特に挨拶もないまま通り過ぎる。

 久しぶりに長い距離を歩くので、すぐに疲れてきたが、安住の目は喜色を隠しきれていなかった。

 どんどんと胸を打つ鼓動が早まる。

 前方に出口が見えた時には、考えるよりも先に駆け出していた。

 安住の足裏に、ふにゃりとした雑草の柔らかな感触が伝わる。


「外だ!」

 

 視界いっぱいに広がる夜空を見上げ、肺いっぱいに空気を吸い込む。

 冷えた風が安住の頬を撫でた。木々が自由に揺れている。虫や鳥の鳴き声が聞こえる。

 これが外の世界だと実感すると、何故だが涙が溢れてきた。


「くそ、こんな事で泣いてたら強くなれない。早く密を探しに行かないと。―――ギョク」


 安住の声に反応して、足元で密生している雑草から、煙のように細かな光の粒子が舞い上がる。ぎらぎらと輝きながら、それは瞬く間に鋭い牙を持つ獣へと姿を変えた。


「お互い、なかなかしぶとく生きてるね」

 

 その獣は、幼子のような声で言葉を発した。

 闇夜に溶けてしまいそうな漆黒の毛から、爛々とぎらついている濃緑の目がぎょろりと覗く。口から飛び出した牙の先からは、だらりと涎が流れ落ちた。

 安住は自分にかからないように、一歩退く。


「俺は任務を与えられた。密を捕獲したい」

「はいはい、密の匂いを辿ってみるよ。・・・・・・嗅ぎなれない匂いが多いな。密の他にも逃げたやつがいるのかな」

 

 安住はバツが悪そうに頭を掻く。


「俺も宇能に聞いてみたけど、防犯カメラが全て壊れていたみたいで、詳しくは分からない」

 

 ギョクは目をぱちくりと動かし、だらだらと涎を垂れ流した。


「へえ! 全部壊されるまで気づかなかったなんて、人間って無能だね」

 

 地下の監視カメラはダムの管制室で管理されているのだが、木在の来訪で手薄になり、気づくのが遅れたと宇能が言っていた。

 安住は悔し気に唇を嚙む。


「俺がもっと早く部屋に戻ってきていればよかったのに。くそ、くそ!」

 

 癇癪を起こし、近くにあった木に何度も拳を打ち付ける。あっという間に血が滲んでくるが、痛みは大したものではない。

 ギョクは呆れた眼差しで安住を見つめる。


「ほら、痛いことしないの。さっさと密を探しに行くんでしょ。背中に乗りなよ、安住」

 

 一しきり暴れた安住は、憑き物が落ちたように静まり返ると、ギョクの背中へ軽やかに飛び乗った。



 清山ダム周辺にある地下道の奥に、閉じ込められている子供たちがいる。

 案の定、芳香たちの発言をまともに取り合ってくれる大人たちはいなかった。


「どうしよう、このままだと子供たちが危ないのに」

 

 清山から逃げ果せた芳香たちは、その足で警察に出向いたが、相手にされないまま時間だけが過ぎていった。

 芳香の腕に収まる密は警察を嫌い、証言を言ってもらおうにも、無言を貫いて話にならない。


「できれば、密君だけでも保護して貰いたいんだけどな」

 

 日曜日の朝から雑木林に集まった芳香たちは、平行線を辿る現状に、成す術無く肩を落としているところだった。


「今日は天木さんのご両親が帰ってくるんでしょ? 密君のことを言わないわけにはいかないよね。・・・僕が預かればいいんだけど、この状態じゃ難しいし」

 

 密はべったりと芳香に張り付き、離れようとしない。

 気は進まないが、両親に事の成り行きを説明する他ない。


「私の両親は木霊の会にべったりで、木在さんのことをすごく信頼してるの。多分、言っても私のことをすぐに信用してくれるとは思えない」

 

 密と両親を会わせるのが不安でならない。

 木在のところから連れ出したとなれば、すぐに返せと言われる可能性もある。


「あのさ、ちょっといいかい?」

 

 押し黙る二人に、女竹が口を挟む。

 綺麗な指先が密へ向く。


「あんた達、分かっていないようだから言うけどね、その子は木霊だよ」

 

 芳香と信人は、あんぐりと口を開けた。


「全く気づかなかった」

「え、嘘だろ」

 

 密は首を傾げて二人を見上げる。


「僕は木霊だよ?」

 

 衝撃の事実に固まった芳香だが、我に返るなり女竹に掴みかかる勢いで迫る。


「じゃあ、地下にいた子たちも木霊なの?」

「いや、あの子たちは人間だよ」

 

 芳香は分かりやすく落胆した。

 木霊なら、タマの協力があれば何とか助け出せるかもしれないが、生身の子供ともなれば、そう簡単にはいかないだろう。


「木霊なら、欠片に分解して、森に放せばいいと思ったんだけどな」

 

 地下牢に閉じ込められた、虚ろな目の子供たちが芳香の脳裏に過る。

 どうしたものかと、一同に重たい空気が流れた。


「ねえ、僕はお腹が空いたよ。町に行きたいな」

 

 芳香の膝の上で、うずうずと密が身じろぎした。

 腕時計を見れば、すでに十二時を過ぎていた。


「そうだね。腹ごしらえしてから、もう一度考えようか」

「やったあ! 僕はオムライスか、ハンバーグか、ラーメンか、コーラが食べたい!」

 

 本来、木霊の食事は森林の清らかな空気で済むのだが、時たま人の食事を好む木霊もいる。


「密君は人間の食べ物が好きなんだね。何が一番好き?」

「食べたことないから分からないけど、オムライスが一番好きかも。ねえ、早く行こうよ」

 

 密に手を取られた芳香はたたらを踏む。

 早く早く、と急かす密はどこからどう見ても人の子にしか見えない。


「阿立君、駅前の方に行こうかと思うんだけどどうかな」

 

 先へ急ごうとする密を咎めながら、何とか振り返る。


「うん、そうしよう。僕もお腹減った」

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