七、きれいな木霊

 安住あずみは、破壊された壁の大穴を見つめた。

 大きな音がしてすぐに駆け込んできたが、すでに密はいなかった。

 苛立ちで震える手を握り込む。


「くそ、くそ!」

 

 地面に散乱している瓦礫を、手あたり次第に投げる。


「安住君、ちょっと落ち着こうか」

 

 冷めたような宇能の声に、安住は素直に頷いた。

 自分を落ち着かせるように、パーカーのフードを被りなおし、荒い呼吸を抑える。


「落ち着け、俺は強い。弱い密にこんな事できるはずない。それなら、誰がやった?」

 

 安住が知る強い人間は、いつだってあの子だけだ。


「天木芳香」

 

 記憶の片隅に存在する、炎を背に立つ煤だらけの少女。

 安住より強い存在は、その子の他にはいない。

 宇能がスマートフォンを操作しつつ、横目で安住を見やる。


「監視カメラを確認すれば、すぐに特定できる。密の捕獲は安住君に任せるよ、いいね?」

「ああ」

 

 安住に新たな任務が与えられた。


 タマが降り立ったのは、ダム施設からそれ程離れていない山中だった。

 芳香たちに纏わりつくように、木霊の欠片たちがきらきらと輝いている。


「むかし、村で見た景色と同じだ」

 

 信人が感慨深げに見入っていると、タマが鬱陶しそうに胴を揺らした。


「芳香以外はさっさと降りろ。さもなくばその首を噛み切ってやる」

「こら、タマ」

 

 芳香の叱責に小さくきゃん、と喉を鳴らしたタマは、しぶしぶ口を閉じて大人しくなる。

 不機嫌そうに揺れる尻尾を、密が追いかけて遊びだした。

 じりじりと芳香の背後に回った信人が、恐々と尋ねる。


「ねえ、これは何?」

「この子はタマ。私の木霊だよ」

「天木さんの、木霊?」

 

 白銀の柔らかな毛に覆われた、巨大な狼のような風貌の獣を見上げる。ふいに、大きな深緑の目が信人を見た。

 あまりの迫力に信人は後退る。

 タマがしゃがれた声で言った。


「タマは芳香に降りて名前を貰った。つまり、タマは芳香のものになったのだ。また逆も然りだがな」

「簡単に言うと、契約みたいなものを交わしたんだよ」

 

 芳香はそう付け加えて、そうっとこの場を立ち去ろうとする女性の背に声をかけた。


「さっき言ってたよね。阿立君が惜しいなら、あなたが阿立君に降りればいいんだよ」

 

 踏み出した一歩を止めて、女性が悲痛な面持ちで振り返る。


「降りるのは簡単だろうさ。だけど私は昔、坊やに降りようとして諦めた。木霊の私がいない方が、坊やを守れるって気づいたんだ」

 

 木在という危ない男から信人を守るために。

 木在が、木霊を降ろした人間に興味があることは知っている。彼は、木霊への執着で塗り固められたような人間なのだ。

 だから信人に木霊が降りなければ、木在の興味は向かない。


「木霊の欠片として、坊やを時折見かけるぐらいで満足できたらよかったのにねえ。最後に、欲が出た」

「欲?」

 

 女性は気持ちばかり小さく頷くと、信人に顔を向けた。


「坊や、よく顔を見せて」

 

 女性が手を伸ばすと、信人は引き寄せられるように近づいていく。

 ふわりと、女性に両頬を包まれた。

 昔見た時と寸分狂わない、女性の美しい微笑みを向けられる。


「最初はただ、村へ戻ろうとする坊やを引き留めたかっただけ。欠片の姿では、危ないから行かないでと、それすらも言えなかったけどさ」


 信人の頬に触れる手の温かさが、ふいに無くなる。

 女性の輪郭が、だんだん朧気になっていく。


「坊やとまた話せて嬉しかったよ。でも、もうここまでだ。あの地下牢の子供たちを見て、それでも坊やと一緒にいたいなんて、私には言えないよ。私は坊やを守り切れるほど、強くはないからね。だから、ここでさよならだ」


 あたりに漂う、きらきらとした緑色の光たち。

 その光たちと共鳴するかのように、女性が発光しだす。

 信人は咄嗟に女性の袖を掴もうとしたが、するりと通り抜けてしまった。


「また、欠片になってしまうの?」

「弱っているのに、無理に人間を象っちまったから、欠片でいるのも難しいかもしれないねえ」

「じゃあ、消えてしまうの? 嫌だ、せっかくあなたに会えたのに!」


 狼狽える信人を抱きしめられないことに、女性は僅かな歯がゆさを覚える。

 けれど、終焉は目前まで来ていた。

 もう信人に触れることはできないが、こうして消える瞬間まで傍にいれることは、女性にとって何よりの幸せだった。


「なかなか、いい終わり方ができたよ」

 

 ドン、と地響きがした。


「ほざけ」

 

 しゃがれた声が辺りいっぱいに響いた。

 タマが前足を振り下ろす。

 再び地響きが起こると、木々から湧き出るように木霊の欠片が溢れてきた。


「何してるんだい」 

 

 戸惑う女性を他所に、木霊の欠片は次から次へと女性の中へ吸収されていく。それに応えるように、女性の発光は次第に収まっていった。


「人間を象る木霊は珍しい。だから特別にタマの力を与えてやった。有難く思うが良い」

 

 女性は呆気に取られて立ち尽くす。

 清山に来て、人間を象るだけの力は何とか取り戻せたが、それが限界だった。それなのに今、この事態はどういうことだ。

 女性の力は、明らかに増幅されていた。

 呼吸をするだけで分かる。自分が持つエネルギーの高まりを。


「こんな力、私には無いはずだよ」

「元はタマの力だから当然だろう。さあ、まどろっこしい事は嫌いだ。さっさとあいつに名を呼んでもらえ。あいつに降りれば、お前の存在が安定する」

 

 ぎろり、と深緑の目が信人を捉えた。


「お前の木霊の名を呼べ、小僧」

 

 急なことに戸惑い、おろおろと視線を泳がす信人。

 女性は信人に縋り、必死に首を振る。


「やめておくれ。坊やが木霊と関わるのなら、木在が放っておかないに決まっている。危ないことは止しなよ」

 

 信人は、地下牢の子供たちを見た時の衝撃を思い出した。

 木在は危ない男だ。彼と関わらないことが安全だと分かっている。

 それでも、やっと出会えた恩人とまた離れてしまうのは何より惜しかった。

 信人は覚悟を決めた。


「ごめん。例えこの選択が間違っていたとしても、僕は一緒にいたいよ。―――女竹めだけ

 

 一陣の風が舞う。

 信人の目には、あの日、木在の屋敷で見た美しい竹林と、そこに凛と佇む女性が映った。

 何となく、あの時の小さな信人も、嬉しそうに女竹の名を呼んだ気がした。


「ああもう、本当に坊やは身勝手な男だよ」

 

 信人にしっかりと抱きしめられた女竹は、嬉しそうに悪態をつく。信人は、自分の肩が濡れている事に、しばらく気づかないでいようと決めた。


「お兄ちゃんに木霊が降りたの?」

 

 密がこっそり芳香に尋ねる。


「うん、そうだよ。木霊に名前を与えたからね」

「ふうん、そっか。あ、暗くなってきた」

 

 静かに日が沈んでいく。

 ひどく長い一日だった。

 タマが芳香にすり寄り、ごろごろと喉を鳴らした。


「この辺りは懐かしい匂いがするが、あまり好きではない。早く家に帰ろう、芳香」

 

 芳香は疲労困憊な面々を見渡して、申し訳なさげにタマへ頭を下げた。


「ごめんね、タマ。家まで送って」

 

 タマは、それはもう長いため息をつき、しぶしぶ背中を向けてくれた。

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