七、きれいな木霊
大きな音がしてすぐに駆け込んできたが、すでに密はいなかった。
苛立ちで震える手を握り込む。
「くそ、くそ!」
地面に散乱している瓦礫を、手あたり次第に投げる。
「安住君、ちょっと落ち着こうか」
冷めたような宇能の声に、安住は素直に頷いた。
自分を落ち着かせるように、パーカーのフードを被りなおし、荒い呼吸を抑える。
「落ち着け、俺は強い。弱い密にこんな事できるはずない。それなら、誰がやった?」
安住が知る強い人間は、いつだってあの子だけだ。
「天木芳香」
記憶の片隅に存在する、炎を背に立つ煤だらけの少女。
安住より強い存在は、その子の他にはいない。
宇能がスマートフォンを操作しつつ、横目で安住を見やる。
「監視カメラを確認すれば、すぐに特定できる。密の捕獲は安住君に任せるよ、いいね?」
「ああ」
安住に新たな任務が与えられた。
※
タマが降り立ったのは、ダム施設からそれ程離れていない山中だった。
芳香たちに纏わりつくように、木霊の欠片たちがきらきらと輝いている。
「むかし、村で見た景色と同じだ」
信人が感慨深げに見入っていると、タマが鬱陶しそうに胴を揺らした。
「芳香以外はさっさと降りろ。さもなくばその首を噛み切ってやる」
「こら、タマ」
芳香の叱責に小さくきゃん、と喉を鳴らしたタマは、しぶしぶ口を閉じて大人しくなる。
不機嫌そうに揺れる尻尾を、密が追いかけて遊びだした。
じりじりと芳香の背後に回った信人が、恐々と尋ねる。
「ねえ、これは何?」
「この子はタマ。私の木霊だよ」
「天木さんの、木霊?」
白銀の柔らかな毛に覆われた、巨大な狼のような風貌の獣を見上げる。ふいに、大きな深緑の目が信人を見た。
あまりの迫力に信人は後退る。
タマがしゃがれた声で言った。
「タマは芳香に降りて名前を貰った。つまり、タマは芳香のものになったのだ。また逆も然りだがな」
「簡単に言うと、契約みたいなものを交わしたんだよ」
芳香はそう付け加えて、そうっとこの場を立ち去ろうとする女性の背に声をかけた。
「さっき言ってたよね。阿立君が惜しいなら、あなたが阿立君に降りればいいんだよ」
踏み出した一歩を止めて、女性が悲痛な面持ちで振り返る。
「降りるのは簡単だろうさ。だけど私は昔、坊やに降りようとして諦めた。木霊の私がいない方が、坊やを守れるって気づいたんだ」
木在という危ない男から信人を守るために。
木在が、木霊を降ろした人間に興味があることは知っている。彼は、木霊への執着で塗り固められたような人間なのだ。
だから信人に木霊が降りなければ、木在の興味は向かない。
「木霊の欠片として、坊やを時折見かけるぐらいで満足できたらよかったのにねえ。最後に、欲が出た」
「欲?」
女性は気持ちばかり小さく頷くと、信人に顔を向けた。
「坊や、よく顔を見せて」
女性が手を伸ばすと、信人は引き寄せられるように近づいていく。
ふわりと、女性に両頬を包まれた。
昔見た時と寸分狂わない、女性の美しい微笑みを向けられる。
「最初はただ、村へ戻ろうとする坊やを引き留めたかっただけ。欠片の姿では、危ないから行かないでと、それすらも言えなかったけどさ」
信人の頬に触れる手の温かさが、ふいに無くなる。
女性の輪郭が、だんだん朧気になっていく。
「坊やとまた話せて嬉しかったよ。でも、もうここまでだ。あの地下牢の子供たちを見て、それでも坊やと一緒にいたいなんて、私には言えないよ。私は坊やを守り切れるほど、強くはないからね。だから、ここでさよならだ」
あたりに漂う、きらきらとした緑色の光たち。
その光たちと共鳴するかのように、女性が発光しだす。
信人は咄嗟に女性の袖を掴もうとしたが、するりと通り抜けてしまった。
「また、欠片になってしまうの?」
「弱っているのに、無理に人間を象っちまったから、欠片でいるのも難しいかもしれないねえ」
「じゃあ、消えてしまうの? 嫌だ、せっかくあなたに会えたのに!」
狼狽える信人を抱きしめられないことに、女性は僅かな歯がゆさを覚える。
けれど、終焉は目前まで来ていた。
もう信人に触れることはできないが、こうして消える瞬間まで傍にいれることは、女性にとって何よりの幸せだった。
「なかなか、いい終わり方ができたよ」
ドン、と地響きがした。
「ほざけ」
しゃがれた声が辺りいっぱいに響いた。
タマが前足を振り下ろす。
再び地響きが起こると、木々から湧き出るように木霊の欠片が溢れてきた。
「何してるんだい」
戸惑う女性を他所に、木霊の欠片は次から次へと女性の中へ吸収されていく。それに応えるように、女性の発光は次第に収まっていった。
「人間を象る木霊は珍しい。だから特別にタマの力を与えてやった。有難く思うが良い」
女性は呆気に取られて立ち尽くす。
清山に来て、人間を象るだけの力は何とか取り戻せたが、それが限界だった。それなのに今、この事態はどういうことだ。
女性の力は、明らかに増幅されていた。
呼吸をするだけで分かる。自分が持つエネルギーの高まりを。
「こんな力、私には無いはずだよ」
「元はタマの力だから当然だろう。さあ、まどろっこしい事は嫌いだ。さっさとあいつに名を呼んでもらえ。あいつに降りれば、お前の存在が安定する」
ぎろり、と深緑の目が信人を捉えた。
「お前の木霊の名を呼べ、小僧」
急なことに戸惑い、おろおろと視線を泳がす信人。
女性は信人に縋り、必死に首を振る。
「やめておくれ。坊やが木霊と関わるのなら、木在が放っておかないに決まっている。危ないことは止しなよ」
信人は、地下牢の子供たちを見た時の衝撃を思い出した。
木在は危ない男だ。彼と関わらないことが安全だと分かっている。
それでも、やっと出会えた恩人とまた離れてしまうのは何より惜しかった。
信人は覚悟を決めた。
「ごめん。例えこの選択が間違っていたとしても、僕は一緒にいたいよ。―――
一陣の風が舞う。
信人の目には、あの日、木在の屋敷で見た美しい竹林と、そこに凛と佇む女性が映った。
何となく、あの時の小さな信人も、嬉しそうに女竹の名を呼んだ気がした。
「ああもう、本当に坊やは身勝手な男だよ」
信人にしっかりと抱きしめられた女竹は、嬉しそうに悪態をつく。信人は、自分の肩が濡れている事に、しばらく気づかないでいようと決めた。
「お兄ちゃんに木霊が降りたの?」
密がこっそり芳香に尋ねる。
「うん、そうだよ。木霊に名前を与えたからね」
「ふうん、そっか。あ、暗くなってきた」
静かに日が沈んでいく。
ひどく長い一日だった。
タマが芳香にすり寄り、ごろごろと喉を鳴らした。
「この辺りは懐かしい匂いがするが、あまり好きではない。早く家に帰ろう、芳香」
芳香は疲労困憊な面々を見渡して、申し訳なさげにタマへ頭を下げた。
「ごめんね、タマ。家まで送って」
タマは、それはもう長いため息をつき、しぶしぶ背中を向けてくれた。
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