四、帰郷
雑木林の中に入ると、時間が止まったかのように静かだ。
時折、風に吹かれた木々が小さく騒めく音は、心地よく耳に入る。
放りっぱなしの丸太に並んで腰かけた二人は、小休止とでも言うように、どちらともなくしばし黄昏た。
だから、唐突に口を開いた芳香に、信人の体が反射的にぴくりと動いた。
「とても言いずらいんだけどね、村はもう無いんだ。ダムになったの」
申し訳なさそうに眉を下げる芳香に、そんなことかと信人が息を吐いた。
「うん、知ってるよ。でもかつて村があったことは確かだし、清山村が無くなっても、山は残ってる。きっと、あの地へ戻れば会える気がするんだよ」
信人の脳裏を過ったのは、木在の家で見た視界いっぱいに広がる竹藪と、着物姿の美しい人だ。
そっと目を閉じる。
「まずは僕があの村の出身だということを、ここで証明させてほしいんだ。それで、できれば天木さんの力を借りたいと思ってる」
そう言い終えるなり、細く息を吸ってから、信人は右手を空へ翳した。
まるで、雨のようだと芳香は思った。
二人の頭上から、緑色に光る粒子が優しく降り注いできた。それを芳香が手のひらで受け止めると、途端に光が爆ぜて消えていく。
「清山村には、この光の粒がいつも至る所にあった」
「うん、そうだね」
綺麗な花が咲いている場所や、小川の近くで、子供たちをからかうように自由気ままに飛び回っていた。
信人の言葉に嘘は無いであろう事は、すでに彼の態度からも伝わっている。あとは、芳香がどうするかだ。
信人は、ただ助けてくれた木霊に会いたいだけだと言った。それだけなら、危険は少ないのかもしれない。村があった場所へ行き、帰ってくるだけだ。
悩んだのは束の間だった。
「いいよ、一緒に村があった場所へ行ってみよう」
芳香の了承を聞いて、信人が分かりやすく目を輝かせたものだから、つい笑ってしまった。
「じゃあ今週の土曜日に行こう!」
喜色が隠せていない信人が、光の粒子の中ではしゃぐ。
木々がより一層騒めいているように感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
村があった場所へ行くことを決めてから数日、信人は分かりやすく上機嫌な状態が続いていた。
そして金曜日、信人が入念に明日の予定を確認していた。
「必ず運動靴ね。あと、山を登るから、日中が暑いからって薄着はだめだよ。それと」
「非常食と懐中電灯は阿立君が持ってきてくれるんだよね。もう三回は聞いてるよ」
「そうだっけ」
まだ続きそうな信人を制して、芳香が席を立つ。
放課後、この教室には二人以外に誰もいなかった。
ふと会話が途切れたことで、静寂が訪れる。
うきうきと目を輝かせている信人を見るのは楽しかったが、少しうるさく感じていた。こうして落ち着いた信人を見るのは、久しぶりな気がする。
「ほら、そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
日が落ちた途端に肌寒くなってきた。
信人と別れた芳香は、足早に家路を急ぐ。
「そろそろ拗ねちゃう頃合いだもんね」
自室に入るなりタマを呼ぶ。
緑色に光る粒子が、窓から流れ込んでくる。信人が見せてくれたそれと同じだ。
粒子は集結して、あっという間にタマを象った。
寒いので、すぐに窓を閉じる芳香の背に、拗ねた声が届く。
「芳香は酷い奴だ。タマを長い間呼ぼうとしなかったのだから」
時すでに遅しとはこのことだ。
いじけたタマは大型犬ほどの大きさに留まり、芳香のベッドを占拠していた。
「ごめんね、忘れていたわけじゃないんだよ」
「どうだかな。友達ができて楽しそうにしているではないか」
タマは芳香を見ようとせず、無意味に布団を掘ろうとしている。
「友達とは呼べないよ。村に戻るのを手伝ってほしいと頼まれただけ」
「山道は険しい。タマが必要になればすぐに呼べばいい。芳香だけ助けてやろう」
タマは信人のことが気に入らないらしい。
苦笑を漏らす芳香の視界の隅で、きらりと何かが光った。
窓の外だ。
「何だろう?」
窓枠に手をついて見渡すと、ガラス越しに、ビー玉くらいの大きさがある一粒の光が浮遊していた。
すぐさまタマが芳香の前へ出て、牙をむき出し威嚇する。低く唸るタマを意に介さず、光は動く様子がない。
「この光、すごく弱々しい」
芳香が良く見る光の粒子と比べると、大きくて弱々しい。それに、一応緑色に光っているのだが、かなり白っぽく見える。
気になった芳香は、窓を開けて光を部屋の中へ招いた。
「タマを象る時に、はぐれちゃったのかな?」
「これはタマの欠片ではない」
タマが鼻先で光を小突くと、光はふわりと舞って芳香の手のひらに収まった。
「明日、清山へ持っていくと良い。清山は木霊にとって、とても生きやすい環境だから、この木霊の欠片も元気になるだろう」
「うん、そうするよ」
芳香は悩み抜いた末、光を虫かごの中に入れた。気持ちばかりだが、家にあった切り花も入れる。
木霊は人工物が苦手だから、これは苦肉の策だ。
光は切り花に寄り添い、動きを止めた。
「お待たせ!」
新幹線の改札前で合流した信人は、家出でもして来たのかというほどの大荷物だった。
いい笑顔だが、額に浮かぶ汗が荷物の重さを物語っているようだ。
「阿立君、全ての荷物を抱えて山を登るのは無理だと思うよ」
芳香の言葉に、信人は項垂れた。
「薄々気づいてはいたんだ。・・・・・・駅のロッカーに預けるよ」
大きなバックパックを背負った信人が、三泊四日用のキャリーケースを二台転がす。一体そこまでして何を持ってきたのか気になるところだが、出発の時間が迫っているので先を急ぐことにした。
「阿立君、昨日はあまり眠れなかったでしょ。クマがすごいよ」
「嘘、そんなにひどいかな。まあ、今日が楽しみで眠れなかったことは確かだけど」
「今のうちに休んでおいた方がいいよ」
只今の時刻は六時過ぎだ。休日ということもあり、早朝でも家族連れがちらほらいる。
無事座席に着いた二人は、移動時間を睡眠に当てることにした。
ふと、目を覚ましたのは芳香が先だった。
到着時間に合わせてあるアラームはまだ鳴りそうにない。
「うわあ、綺麗」
車窓の外には、田園風景が広がっていた。
田植えのシーズンに備えて準備が始まっているらしく、すでに整地されてある所が多い。
「おはよう。本当だ、良い眺めだね」
寝ぼけ眼をこする信人が、時刻を確認する。
「けっこう眠れたよ。頭がすっきりした」
「よかったね」
新幹線を降り、目当ての清山へ向かう。
途中までは電車とバスを乗り継いでいく。移動の合間で食事と休憩を挟み、何とか山の麓にたどり着いた頃には、すでにお昼を過ぎていた。
「ここからが勝負どころだね」
信人の目は、期待に溢れている。そんな信人を見ていると、何とか木霊と再会させてあげたいと切に思う。
清山ダムの周辺は整備されており、人々が見学したり遊歩できるようになっている。だからまずはダムまで整った道を進み、そこからダムの手が届いていない山道に逸れる算段だ。
「ここに、昔住んでいたことがあるなんて思えないね」
ダム湖にはスムーズに辿り着くことができた。
人が米粒ほどに思えるような、壮大な景観に二人は目を見張る。
こんなに目の覚めるような美しい青色が、日本にあるとは思わなかった。
「早く会いたいな」
信人がほろりと零した思いに、何とか答えてあげたい。その為には、先を急ぐしかない。
意を決した芳香の視界の端に、見知った人がいた。
「阿立君、ちょっとこっちへ」
突然、芳香に引っ張られ、歩道からはずれた茂みに身を潜めることになった。
「見て、あの人」
「え?」
信人は目を凝らし、芳香の視線の先を追う。
ダム施設の入り口付近で作業員と話す、恰幅の良い男性を見つけた。
「あれは、木在だ!」
記憶よりも白髪が目立ち、皺も増えて確実に老いているが、見間違えるはずがない。
「ダム関係者に木在の名前は無かったはずだ。徹底的に調べたんだ。それなのにどうして」
動揺する信人とは裏腹に、芳香は何となく察しがついていた。
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