三、逃走

 女性はあっという間に男たちに捕らわれた。

 現代ではあまり見かけない淡い青色の着物姿の女性は、動きにくいのか、逃げるそぶりすらない。

 すぐに助けないと、彼女も信人のように痛い目にあってしまうかもしれない。

 いてもたってもいられなくなった信人は、首根っこを掴まれたまま体をひねり、木在の股間を思い切り蹴り上げた。


「この小僧め!」

 

 木在は痛みで蹲る。

 身動きが取れるようになった信人は、すぐに女性の元へ駆け寄った。


「お姉さん、逃げて!」

 

 信人の存在に気づいた男たちのうち二人が、信人も捕えようとする。

 こうなったら強行突破だ。信人は、自分が非力だと自覚しながらも、覚悟を決めて男たちに突進した。


「あらあら、ずいぶん勇敢な子だね。偉い偉い」

 

 この場に似つかわしくない、からからと軽やかな笑い声をあげる女性に、信人の足が止まった。

 男たちに捕らわれたはずの女性は、笑い声と同じく軽やかな身のこなしで、あっという間に男たちを地面に転がした。

 倒れた男たちに、竹藪の奥の方から伸びてくる蔓が次々と絡まる。締め上げられているのか、男たちは苦しそうに顔を歪めていた。


「さあ、行くよ。坊やのお母さんがお待ちかねだ」

 

 信人の手を握る女性が、美しく笑う。


「あの、あなたは誰?」

「私は坊やの木霊だよ」

 

 木在も言っていた。

 木霊とは何だろうか。

 訳が分からず首を傾げる信人の頭を、女性はそうっと撫でた。


「何も教えられていないんだねえ。じゃあ私が少しだけ教えてあげるさ」

 

 竹藪の奥へ奥へと進んでいく。

 このまま何処へ連れていかれるのか分からなかったが、温かな女性の手を離すことはできなかった。

 女性は歩きながら教えてくれた。


「木霊はね、人に宿るんだ。簡単に言うとね、この人と仲良くなれそうだなって思う人の前に姿を現すんだよ。ふふふ、簡単な言葉に置き換えると、えらく陳腐に聞こえちまうねえ」

 

 竹藪の奥へ進むにつれ、地面に苔が生えた箇所が目立ってきた。

 踏みしめると、柔らかな感触が足裏に広がる。


「お姉さんは、僕と友達になりたいから現れたの?」

 

 信人の問いに、女性は目を真ん丸に見開いた。そして、盛大に笑う。


「うん、そうだよ」

 

 答えてくれたものの、腹を抱えてまだ笑い続ける女性に、信人は困った顔を向ける。


「僕は何かおかしい事を言ったの?」

 

 女性は目尻に浮かぶ涙を綺麗な指先で払うと、信人の頬にそっと手を添えてほほ笑んだ。


「いいや、とても嬉しいことを言ってくれたんだよ。ありがとうね」

 

 女性がやっと立ち止まった。

 耳を澄ますと、国道が近いのか車の行き交う音がする。

 外部の気配を感じ取って、信人の気が緩んだ。

 すると突然、四方八方から蔓が信人に向かって伸びてきた。

 男たちを締め付けていた蔓と同じだ。信人が驚いて声を上げると、女性は安心させるように信人の頭に手を置いた。


「私が動かしているのさ。さあ、少し怖い思いをするけど許してね」

 

 そう言い終えるなり、何本もの蔓が容赦なく信人の胴や手足に絡みついていく。

 信人の体が蔦に持ち上げられると、竹藪に隠れて見えなかった国道を視認できた。

 十メートル以上は下にある道路を、おもちゃみたいに小さく見える車が走っている。

 嫌な予感がした。


「じゃあね、坊や。元気でやりなよ」

 

 女性を振り向く余裕もなく、信人は蔦に引きずられるように勢いよく絶壁を降下していく。


「うああ!」

「信人!」

 

 自分の叫び声に紛れて、必死で自分を呼ぶ母の声が耳に届いた。

 信人はその時、ひどく安心したことを覚えている。


「母さんが崖下で待っていてくれたんだ。僕の木霊にそうするように言われたんだって」

 

 ひと段落ついた信人が、芳香の顔色をうかがう。

 芳香は驚愕して言葉が出なかった。

 二人の間に沈黙が走る。

 芳香は三回、大きく深呼吸した。ここの空気は山が近いからおいしく感じる。


「木在さんは、木霊の会の会長さんだよね」


考えを整理するように、芳香がぽつりと呟いた。


「うん、そうだよ」

「木在さんは、阿立君に何をしたかったのかな」

 

 いや、聞かずとも分かる。

 それでも信人ははっきりと答えた。


「木霊についての研究に使いたかったんだろうね。そして、被験者がいると思う。少なくとも僕が幼かったころ、近所の子が数人ほど姿を消しているんだ」

 

 すぐに理解が追い付かない。

 もし、信人の言う通りならば、これはとんでもない事件ではないか。

 芳香は生唾を飲み込んだ。

 信人の真剣な、どこか冷たい印象を与える目が真っすぐと芳香を見た。


「僕はね、村から逃げ出した人間だ。だから今さら木霊の会をどうこうしようとは思わない。もう巻き込まれたくないからね」

 

 ただ、と。

 信人がそっと目を伏せる。


「僕を助けてくれた木霊の無事を知りたい。そして、あの時言えなかったお礼が言いたいんだ」

 

 だから手伝ってください。

 信人が再び、深く頭を下げた。

 芳香は、信人の肩にそっと手を乗せて尋ねる。


「ねえ、どうして私に頼むの?」

 

 幼いころ村から逃げ出した少年が、どこで芳香の存在を知ったのだろうか。純粋な疑問だった。


「母さんが話していたのを偶然聞いたんだ。木霊の会は、天木家の娘さんには手出しできないって。だから、村を逃げ出した僕でも、天木さんと一緒ならあの村に戻れると思ったんだ」

 

 何故、芳香には手出しできないのだろうか。

 分からないことだらけで、頭が混乱する。一体、どう対処すればいいか分からない。


「出会ったばかりの僕をすぐに信じることなんて難しいよね。でも、ひとつだけ君に証明できることがあるんだ」


 


 裏庭で昼食を終えた芳香は、一足先に教室へと戻る。

 自席に着くなり、つやつやした栗毛の女子が芳香に駆け寄ってきた。


「天木さん! あのね、昼食時間ここにいなかったから、さっき勝手に席借りちゃった。ごめんね」

 

 大きな目も相まって、お人形さんのように可愛い子だ。だめだ、生きる世界線が違うと察し後退る。


「いいよ、勝手に使って。わざわざ報告してくれてありがとう」

 

 芳香がそう答えると、女子がぱっと顔色を明るくさせた。


「私、美原美里みはらみりって言うの。芳香ちゃんって呼んでいい?」

「あ、はい」

 

 可愛く小首をかしげてくるものだから、緊張してつい敬語になってしまった。

 美里がくすりと笑う。


「ありがとう。じゃあ私のことは美里って呼んでね。よろしく!」

 

 手を差し出され、強制的に握手をされた。

 芳香のようなボッチ属性にも分け隔てなく接してくれる、かなりフレンドリーな子のようだ。

 先生が教室に入ってくるまで、美里が次から次へ話題を振ってくれたおかげで退屈することはなかった。

 そして下校時刻を迎えた今、なぜか美里と信人が真っ向から対立していた。


「せっかく芳香ちゃんと仲良くなれたんだもん。今日は私が芳香ちゃんと一緒に帰る!」

「は? 僕が先約だよ。約束すらしていない身分で何勝手なこと言ってるの。そういう自分本位なことばかり言ってると嫌われるよ」

 

 冷笑のお手本のような表情で毒を吐く信人に、美里が負けずに噛みつく。


「うるさいなー。女子にそんな態度ばっかりとるからモテないんだよ。あー、可哀そう!」

 

 美里に腕をがっちり掴まれている芳香は、この場から逃げることができない。

 けれど、早急にこの状況を打破しなければ、クラス中の視線を集めたままだ。

 芳香はおずおずと提案してみた。


「三人一緒に帰る?」

 

 二人の顔がみるみるうちに般若に変化してしまった。


「無理。却下。天木さん、先約の僕と早く帰ろう」

 

 芳香のリュックを問答無用で引っ張る信人。


「あり得ない! ねえ、駅前のカフェでお茶しようよ」

 

 渾身の力で芳香の腕に絡みつく美里。

 妥協案は通じないようだ。

 芳香は迷った末、信人に視線を定めた。


「・・・先約を優先したいな」

 

 信人がガッツポーズを決めている中、美里が膝から崩れ落ちる。芳香がたまらず肩を支えると、美里がうるうるとした瞳で見上げてきた。

 気づけば、芳香の口からぽろりと言葉が零れ落ちていた。


「あの、もしよければ別の日に一緒にカフェに行ってみたいです」

「絶対だよ! モンブラン食べよう!」

 

 ひし、と美里に手を握られた。芳香は深く頷いた。

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