二、記憶
先ほど柔らかな笑みを浮かべていた人間とは別人のような、温度を一切感じない表情を目の前にして、思わず後退る。
「天木さんはさ、かなり無防備だよね。僕のことをちゃんと知らないのに、こうやって人気のない場所に連れて行ってさ。もしも僕が天木さんに危害を加える人間だったらどうするの」
信人が苛立たし気に詰め寄ってくる。
彼の突然の豹変に言葉が出ない芳香は、戸惑うことしかできないでいる。
「そうやって黙りこくっている間に、悪い奴らなら君を誘拐なり殺害なりできるんだよ。どうしてそんな危機感が欠如しているんだろうね」
信人の足元で、また小枝の折れる音がした。
「えっと、阿立君が悪い奴なら、私にそんな忠告はして来ないよね。どうして今、こうして忠告してくれたの?」
こうして信人に問いながら、現状に戸惑いながら、心の片隅では彼の返答をなんとなく予想できていた。
「僕は天木さんが清山村の出だということを知っているんだ。母が木霊の会の人間だったからね」
ああ、やっぱり。
学校で芳香に話しかけてきたことも、人気のない場所に来たことも、全てに納得がいった。
落胆に近いかもしれない。
芳香に関わってくるのは、子供のころからずっと木霊の会の関係者ばかりだったから。
「そっか。それで、用件は何かな?」
思いのほか冷たい口調になってしまった。
「天木さんに伝えたいことが山ほどあるんだ。まず、母が木霊の会の人間だったのは過去の話しだよ。僕がまだ幼かったころ、あの村を逃げ出したんだ」
「逃げ出した?」
逃げ出すような出来事なんて、あんな小さく平凡な村に起こりえるだろうか。
二人の顔が陰る。烏が二度鳴いた。
日が沈みそうだ。
信人が空を仰ぎ見て、そして真っすぐ視線を芳香に戻した。
「今日はここまでにしよう。明日、またここに来ようね」
二人で入り口に向かう。
雑木林を抜けると、街灯がないと心細い暗さになっていた。
「天木さんはもっと警戒した方がいい。木霊の会の人たち全てが善人とは限らない。そして、僕のことは木霊の会とは関係ない、ただの友達だと思って。本当は今まで通り、何も知らないでいるのが、きっと一番安全なんだろうけれど」
自虐的な笑みを浮かべる信人に、思わず声をかけてしまった。
「たとえそれが一番安全だとしても、伝えなきゃと思ったんでしょ? それに私も阿立君の話を聞きたいと思ったよ。だから、また明日ね」
暗がりの中、信人が力強く頷いたのが分かった。
信人と別れ、家に着くなりすぐに私室へ向かった。
今日は両親の帰りが遅い。ラッキーだ。
「タマ、おいで」
勢いよく開け放った窓から、緑色の光の粒子が流れ込んでくる。
光は集結し、瞬く間に獣を象った。
その大きさは、昨夜の三分の一ほどだった。
ぐう、と地響きのような唸り声を上げて、タマが芳香の頬に頭をこすりつけた。
「雑木林での会話は聞いていた。確かにあいつは昔、村で見たことがあるが、それが何だ。何故今頃になって芳香に関わってきたか分からない」
芳香の髪を甘噛みして、心底不機嫌そうに尻尾を振り回す。
宥めようと撫でてみても、なかなか機嫌は上を向かないようだ。
タマは芳香以外の人間が好きではないから、タマも気に入っている雑木林へ信人を連れて行ったことに、腹を立てているのかもしれない。
「阿立君のお母さん、村から逃げたって言ってた。昔、村で何かあったのかな?」
「分からん」
振り回した尻尾が芳香の頬を掠める。
「他にも気になることを言ってたでしょ。ほら、木霊の会を警戒した方が良いって」
ぎろりと、タマの綺麗な緑色の目が芳香を射抜いた。
「木霊の会が芳香に危害を加える事は無いか、常に見張っている。現状、何も問題はない」
だが、と。
タマはそう言いおいて、芳香の顔ぎりぎりまで鼻先を近づけ、にいっと笑った。むき出しの牙が鋭く光る。
「芳香に危害を加える人間がいたなら、タマは迷うことなくすぐさまこの牙で敵の首を噛み切ってやろう」
好戦的な目が芳香を捉えた。
古い校舎だが、掃除は行き届いていた。
裏庭には石造りの小さな池や花壇がある。先生に許可を取れば、生徒は自由に使用していいらしい。
頻繁に利用されているそうで、池では小魚が泳ぎ、花壇には淡い色の花々が咲き誇っていた。
午前中に雨が降っていたせいか、昼休みなのに芳香と信人以外の姿は見えない。
裏庭の隅にあるベンチに腰掛けた芳香に、信人は深々と頭を下げた。
「昨日はいきなり色々言って本当にごめん。やっと天木さんに会えたことで、焦っていたんだ」
信人が朝からずっと教室でそわそわしていたことを芳香は知っていた。
お昼休み、裏庭で弁当を食べることにした芳香を、ここまで追いかけてきたことも。
「ここ、人気はないけど、学校で話しづらいようなら雑木林でしてもいいよ?」
放課後にしよっか? と、ちょっとした意地悪のつもりで言ってみる。
「ごめん、待てないから今話す。でも放課後も時間が欲しい。見てほしいものがあるんだ」
少し長くなるんだけどさ。
そう言いおいて信人が語り始めたのは、信人と母が村から逃げ出すきっかけとなった出来事についてだった。
昔ながらの瓦屋根が立ち並ぶ、素朴な村に信人は生まれた。
両親はこの村で生まれ育ったので顔なじみが多く、信人は周りの大人たちによく可愛がられていた。
五歳前後のときだったと記憶しているのだが、散歩の途中でいつもお菓子を分けてくれる、老齢だが恰幅の良い男と、母の会話が耳に残っている。
「信人は期待できる。生粋の清山の血が流れているからな。そろそろ木霊を降ろそう」
木霊を降すとは、なんだろう。
疑問に思った信人がちらりと母を見ると、血の気の引いた真っ青な顔をしていた。
「母さん、大丈夫?」
母は信人の言葉が聞こえていないのか無反応だった。怯えた目で男に問いかける。
「信人のことも、消すんですか?」
あまりにも物騒な言葉が、母の口から飛び出たことに驚いた。
「消すだなんて、そんなことしないさ」
男が、武骨な手で信人の頭を撫でまわす。
「恐がらなくていいよ、信人。きっと素敵な木霊を手に入れることができるさ」
いつもの散歩を終えて、遊んで、食べて、寝る。
そんな日常は、この日で終焉を迎えた。
「さあ、準備をしようか」
男の号令と共に、わらわらと村人たちが集まってくる。
隣の家の柳瀬さん、犬の小太朗を飼っている遠山さん。他にも、母と仲が良い鈴見さんや初瀬さんもいた。
みんな、喜ばしそうな顔で信人を見下ろしてくる。
「楽しみだなあ。どんな木霊か教えてね」
「俺たちは木霊が降りなかったから、滅多にお目にかかれないんだ。わくわくするよ」
それでは信人、こちらにおいで。
先ほどの男が、信人の手を取る。
「
木在は小さく抵抗する信人の小さな手をしっかり掴んで、穏やか表情で母を見つめた。
信人は木在の顔を下から見上げていた。口元だけ、妙に歪んでいたように思えた。
「木霊の会にとって、子供はみんな大切な被験者だよ」
母は、その場に崩れ落ちるようにしてしゃがみこんだ。鈴見さんが辛そうな顔をして母の背を撫でる。そう言えば、彼女の娘さんは一年ほど前にこの村から姿を消している。
本当に、消されるのかもしれない。
信人は恐怖で動けなかったし、母にかける言葉も出てこなかった。ただ、震えのせいで歯がカチカチと鳴りやまなかった。うるさい。ひどく耳障りだ。
「木霊を宿した子供たちは消えるんじゃない。ここから旅立ち、新たな高みへと歩いて行っているんだ」
信人は木在に手を引っ張られ、黒光りする車に押し込まれた。
車窓越しに、母が絶望的な顔で信人を見ていた。
信人が連れてこられたのは、木在の住むお屋敷だった。
臙脂色の瓦屋根が目立つ、村一番の大きさを誇る建物だ。
「信人、安心しなさい。村の子供たちや、素質のある子はみんな通る道なんだ。さあ、こちらへ」
通されたのは殺風景な客間だった。
中央にある座布団に腰を下ろすと、程なくして木在がやってきた。
客間の障子が開け放たれ、鬱蒼と生い茂る竹藪が信人の視界いっぱいに映る。
青々とした景色に釘付けになっている信人を良いことに、木在は懐から小刀を取り出して信人の首筋に当てた。
突然の冷たく固い感触に、信人の体がすくみ上る。
「聞こえているか、木霊たちよ」
木在が、竹藪に向かって唸るように言葉を発した。
「私は容赦しないと知っているだろう。さあ、助けるんだ」
木在が、握っている小刀に力を込めた。
「痛い!」
鋭い痛みが首筋に走る。生暖かい感触が信人の首筋を伝った。
血だ。
衣服に零れ落ち、赤茶色のシミが広がるのを呆然と見る。
ぞわり、と周囲の空気が動くのを感じた。
信人がふと顔を上げると、竹藪に紛れるようにして女性がいた。
「またあなたですか。懲りない人ですね」
呆れを含んだ、それでも澄んだ綺麗な声が信人の耳に届いた。
濡れ羽色の毛先を弄びながら、悠然と佇むその人は、信人が知っている人間の中で確実に一番美しかった。
「さあ、早いところ逃げましょうか。坊や、こちらへ来なさい」
自分に刃物を振りかざした木在を信用なんてできない。信人は迷うことなく女性に手を伸ばす。竹藪から信人を手招く女性に、木在が声をかけた。
「この子は助けるのか。前の子は助けなかっただろう。その違いは何だ?」
女性の元へ駆け寄ろうとした信人の首根っこを掴む。
首が締まり、ヒキガエルのような声が出た。
「まだそんな下らないことを調べているのね。何も教える気はないわ。さあ、その子を離しなさい」
「拒否する。君が黙秘するのなら、こちら側で調べるのみだ。そして、君も捕獲しよう。自我を持った木霊のサンプルは貴重だからな」
激しい足音と共に、客間にスーツ姿の男たちが乗り込んできた。
「あの木霊を確保しろ」
木在の号令に男たちは女性に飛び掛かる。
信人は身動きが取れないまま、その光景を見ることしかできなかった。
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