木霊を宿す少女

滝祥子

一、芳香とタマ

 まだ五歳にも満たなかったころ、ダム建設の為に住んでいた村が水底へ沈んだ。

 当時の記憶は朧気ながらあるが、幼かったこともあり故郷に対して特に深い思い入れはない。

 ただ、小さな村に住んでいた数少ない村人達の繋がりはなかなか深いようで、現在に至るまで途切れることはなかった。


「それじゃあ芳香ちゃん、おばちゃんはそろそろお暇するわね」

 

 余所行きの小奇麗な恰好をしたマダムは、小さく手を振って天木芳香あまきよしかの住む家を後にした。

 ファミリー向け分譲マンションの一階、角部屋。

 村を出てここに住み始めてから、もう十年以上が経つ。

 芳香はこの春で晴れて高校生になる。


「あ、冷蔵庫に入れなきゃ」

 

 マダムがくれた、お取り寄せで大人気のプリンが入った小箱を持ち上げると、はらりと何かが宙を舞った。

 木霊の会一同より、芳香ちゃんへ

 可愛い絵柄のメッセージカードにはそう書かれていた。


「懲りない人たちだなあ」

 

 木霊の会とは、村人たちの総称だ。未だなお無くなった故郷との繋がりが途切れない要因はこの会にある。

 芳香は木霊の会が苦手だった。


「もう無くなった村なのに、まだ縋りついてるなんてバカみたい」

 

 記憶が朧気な村が嫌いなわけでも、木霊の会が嫌いなわけでもないが、今は無き村をただ懐かしんでは語らうだけの、無意味な行いが一ミリも理解できずにいるのだ。

 無いものを嘆き続けるなんて不毛なこと、芳香は絶対にしたくない。


「洗濯物終わらせちゃおっと」

 

 今日の秋空はからりとして心地よい。

 お気に入りの柔軟剤の匂いを思い出して、ほんの少し芳香の頬が緩んだ。

 


 激しく燃え上がる炎が次々と木々を焼いて行く。

 生まれ育った森は、瞬く間に真っ赤に染まった。


「苦しいよ、助けて、誰か」

 

 手足が痺れてろくに動かせない少年は、煙に咽かえりながら、地べたを這いずり逃げる。

 少しでも炎のない場所へ。

 森の奥にある大きな湖まで何とか逃げ切らなければ。

 もう少し、もう少しでたどり着くことができる。

 それなのに、もうほんの少しも体を動かせなくなってしまった。

 悔しくて苦しくて涙が零れ落ちる。


「頼むから、この涙で火を消してよ、ねえ」

 

 このまま死にたくなかった。焼け死ぬなんてきっと痛いし怖いに決まっている。

 けれどもう、どうしようもない。

 体が重い。火の手は目前に迫ってくる。

 嫌だけど、絶対に嫌だけど死を覚悟するしかなかった。


「生きるよ!」

 

 突然、叫び声と共に強い力で引き起こされた。

 ふと見え上げた先には、自分と同じように全身煤だらけの少女がいた。


「生きるんだから!」

 

 怖いくらい力強い目をしたその少女は、背後で燃え盛る炎を従えているかの如く、不敵に笑ってみせた。



「またあの夢か」

 

 燃え盛る炎の中、今にも息絶えそうな少年を救おうとする自分。

 昔は時たましか見なかったのに、最近は毎夜のようにこの夢にうなされるようになった。

 時刻は深夜三時だ。

 明日は入学式だからと早めに就寝してみたが、結局目を覚ましてしまった。


「もう眠れないや」

 

 芳香はパジャマの上から厚手のセーターを羽織ると、寝室にいる両親を起こさないように忍び足で外へ抜け出した。

 マンションから少し離れたところに、人があまり寄り付かない雑木林がある。

 芳香にとって、一番落ち着くことができる場所だ。


「出ておいで、タマ」

 

 芳香の小さな声に反応して、木々がざわりと大きく揺れた。

 ざわり、ざわり。

 揺れるたびに木々が光の粒子を撒いていく。

 緑色の光を放つその粒は、やがて一つに集結し、だんだんと大きくなり、ついには獣を象った。まるで狼のような風貌であるが、大きさは芳香の三倍ほどはある。


「芳香よ、久しぶりに呼んでくれたのだな」

 

 しゃがれた、老齢の男性のような声だ。


「三日しか経ってないよ」

 

 つやつやした白銀の毛並みの触り心地は最高に良い。

 頭を撫でてやると、タマは透き通った緑色の目を細めた。


「今日は芳香の大切な日だ。しっかり休んでおかないと辛くなるぞ」

 

 芳香はおもむろにタマの背中によじ登る。


「そうなんだけどさ、また夢にうなされちゃったの。もう眠れないや」

 

 タマはふん、と鼻息で答えると、芳香を背に乗せたまま勢いよく飛び跳ねた。

 ぐわん、と重力に逆らい体が持ち上がる。

 芳香の住む十五階建てのマンションを瞬く間に追い越し、視界の下に頼りない光の海が確認できたところで、タマの跳躍は終わった。


「ホタルイカの群れみたいだねえ」

「おいしそうに見えてきたぞ」

 

 タマの舌なめずりに苦笑が漏れる。

 芳香はぎゅっとタマの首元に抱き着き、そこに顔をうずめた。


「タマのおかげで気分転換できたよ、ありがとう。ここ、気持ち良いね。私たちの他に誰もいないみたい」

「そうなれば間違いなく快適だな」

 

 数分間、空の散歩を楽しんだ後、タマは静かに下降し始めた。

 芳香の住むマンションの屋上に差し掛かった時、視線の先できらりと何かが発光した。


「あれ、見間違い? それとも誰かいるのかな」

「いや、気配も匂いも無い。だが確かに光った」

 

 タマは足音を立てずに屋上に降り立った。

 芳香を背に乗せたまま、給水塔など物陰を隈なく確認する。


「何もない。人ではないみたいだ。一先ずは安心か」

「うん。だけど光った原因はなんだろう。ちょっと気味悪いね」

「ああ。・・・・・・おや、空が白んできたぞ」

 

 二人は空を仰ぐ。

 芳香は夜明けの空が好きだ。

 きれいな空気が肺の奥まで染み渡り、体や思考をリセットしてくれるようで。

 タマの背中から飛び降り、ぐんと腕を伸ばす。深呼吸を繰り返し、ほう、と一息ついた。


「芳香、また近いうちに呼んでくれ」

「うん、またね」

 

 タマが光の粒子へと分解されていく。

 その粒子は近くの草木や雑木林に吸い込まれるように、風に乗って流れていった。



 使い込まれた木製の椅子と机のセットが二十組ほど並んだ教室に足を踏み入れた。

 ここ、清城高等学校一年三組が天木芳香の新天地となる。

 人見知りのため、友達作りはとうに諦めている。今は先ほど配布された校内の案内図を頭に叩き込み、一人でも行動できるように備える。移動教室をスムーズにこなせるかが肝だ。


「はい、これ」

 

 ふいに声が聞こえたかと思ったら、驚くほど白い手が芳香の視界に映った。


「時間割表だって」

 

 落ち着いた、風が凪ぐような心地よい声だと思った。

 顔を上げると、手の白さと違わない顔色の少年が薄っすらとほほ笑んでいた。


「ありがとう」

 

 芳香は差し出された時間割表を大人しく受け取る。

 少年は間髪入れずに会話を続ける。


「僕さ、中学までは関西の方に住んでいたんだよね。天木さんは昔からここに?」

「うん。そうだよ」

「じゃあさ、この辺りのこと教えてよ。引っ越してきたばかりで友達もいないし心細かったんだ」

 

 芳香が曖昧に頷くと、屈託のない笑顔を浮かべて言った。


「せっかくだし一緒に帰ろうね。僕は阿立信人あだちのぶと。のぶ君、もしくは信人と呼んで」 

 

 満足げな顔の信人に対し咄嗟に返事ができなかった芳香は、強制的にこの後の予定ができてしまった。

 思わず乾いた笑いが漏れる。

 阿立信人。彼は間違いなく芳香が苦手としているタイプど真ん中だ。

 

 

 入学式は午前中で終わる。

 教室から体育館に移動し、校長先生の話が終われば解散となった。


「早速なんだけど、天木さんが気に入っている場所に案内してほしいな。できれば人気がない静かな場所がいい」

 

 無い事は無いが、素直に了承していいか疑問だった。


「本当にそんなところでいいの? ここは田舎だけど、学生が遊ぶ場所ならいくつかあるよ」

「いいの。だって、天木さんもそういう場所好きでしょ? 教室でも一人静かに過ごしていたから、僕と似てるなあって思って声をかけてみたんだ。こう見えて人見知りだから、すっごく勇気出したんだよ」

「そうなんだ」

 

 人は見かけによらないな。

 幼いころからタマとばかり遊んでいた芳香は、友達と呼べる人が少ない。だから並んで歩いている今も、何を話せばいいのかわからず黙り込んでしまう。

 沈黙の中、二十分ほど歩いて辿り着いたのは、芳香の家の近くの雑木林だった。

 ここならもしもの時も、何とかなる。


「ここ、すごく空気が澄んでいる気がする! 気持ち良いところだね、気に入ったよ。連れてきてくれてありがとう」

 

 何の変哲もない雑木林を見渡して、信人は緩い笑みを浮かべた。

 入り口付近は落ち葉や伸びた枝があれば手入れされているが、中は手付かずで特に心地良さなどはないのだが。

 まあ、気に入ってくれたようで良かった。

 芳香がほっと息を吐いたタイミングで、ぽきり、と小枝が折れる音がした。

 その音に振り向くと、信人の冷たく鋭い視線が芳香に刺さった。

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