第5話

 女と少女と少年は旅を続けていた。あの寒々しい月夜以来、襲撃者は1度も現れなかった。女も少女もあの夜のことを話したがらなかった。少年は余計なことは聞くまいと思っていた。彼は所詮雇われの身だからだ。しかし、彼女たちをただの雇用主と割り切るには、少年は長い時間をともに過ごしすぎていた。


「この前の男はなんで襲ってきたんだ?」


 少年の問いに少女はあの冷たい眼差しの男を思い出したらしく恐怖からその身を震えさせた。女は優しく少女を抱き寄せ、いたずらした子どもを責めるような目で少年を見つめた。


「あの男は私が始末した。もう襲われることはない」


 少年は女がわざと的を射ない返事をしたことを察した。おそらく触れられたくないのだ。少年は質問を変えた。


「あんたたちは本当にパラデの丘へ行きたいのか?」


 女は少女を支えてゆっくりと歩き始めていた。立ち止まったままの少年を振り返り、感情のうかがいしれない視線を寄越す。


「どういう意味だ?」


 少年はまだその場から動かなかった。


「本当は何かから逃げているんじゃないのか? あの男は…あんたたちは一体何者なんだ」


 男はつむじ風を巻き起こし、そして自在に操っていた。それはまるで魔法のようだった。魔法のようだとは思ったものの少年は実際に魔法を見たことはない。それは小さい頃に母親が読み聞かせてくれた絵本の中だけのものであるはずだった。そんな現実離れの能力を持つあの男は何者なのだろうか。そしてその男に追われていた女と少女もまた…。


 女はもう少年を振り返らなかった。


「パラデの丘はここから南東だな?」


「そうだけど」


 女は向かうべき方角をしかと見定め、そして胸元から取り出した皮袋を少年に投げてよこした。


「今まで世話になった。それは残りの謝礼だ」


 少年は重みのある革袋を手に何も言い返せないでいた。所詮自分は雇われの身。ついさっき踏み込んではいけない一線を越えたことを悟った。少年は自分でも驚くほど後悔していた。何も知ろうとしなければまだ一緒に旅を続けられたはずだった。それはつまり、まだ少女のそばにいられるはずだった。そう後悔するほどにいつの間にか少女の存在は少年にとってかけがえのないものとなっていた。


 それは少女にとっても同じだったようだ。女にしがみつくようにして歩を進めていた少女の足取りは次第に重くなり、そして止まった。足を止め、瞳を潤ませた少女は自然と込み上げてくる初めての感情に戸惑っているようだった。


 女が少女の耳元で囁いた。


「あの少年は我々の不安材料になるかもしれません」


 少女は首を振った。


「そんな人じゃない」


 女は少年をかばった少女を面白そうに見下ろした。そして優しい笑みを浮かべた。


「あの少年にとってもここで別れた方が良いかもしれません。ボレアースは始末しましたが別の追っ手が来ないとも限りませんし」


「…」


 少女は女の服をぎゅっと握った。少女の心は揺れているようだった。


「ちょっと待ってくれ!」


 声のした方へ女と少女が振り向くと少年が今にも泣き出しそうな顔で駆けてきた。少年は女に皮袋を突き返し頭を下げた。


「さっきはすまなかった。これからは余計なことは聞かない。だからオレも一緒に連れて行ってくれ」


 女は黙って少女を見下ろした。少女の瞳の奥に喜びの光が見て取れた。しかし、少女は自身の気持ちとはうらはらな言葉を口にした。


「私は何者でもない。ただの旅人。だけど、この前みたいに危ない目にあうことがこれからもあるかもしれない。私はキミをこれ以上巻き込みたくないの」


 少年は顔を上げ少女をまっすぐ見つめた。


「危険な旅ならなおさらだ。オレがエピを守る。ただ純粋に、笑って過ごせるようになるその日まで、オレがエピを守り続ける。オレがそうしたいんだ」


 少女の頬を涙が伝った。少年の言葉は少女の心を幸福で満たし、その有り余る幸福が喜びの涙として溢れ出たのである。


 こうして女と少女と少年はまた一緒に旅を続けることになった。青く澄んだ空を眺め、きらきら光る川の水面に見惚れ、草原に広がる色鮮やかな花々を見渡し、少女と少年はいつも仲睦まじく笑い合っていた。そして、その2人の背後ではいつだって女が優しい笑顔で少女を見守っていた。


 ◇◇◇


 一行はいよいよ旅の目的地、パラデの丘にたどり着いた。


「開けていい?」


「まだまだ」


 少年は目をつむる少女の手をとり、丘の頂上へ誘導していた。少女が唇を尖らせる。


「ねぇ、まだ?」


「もう少しだよ」


 そう言って 少年は足を止め、少女を少年の隣に立たせた。少女は頂上に来たことを察したが、口元に微笑を湛え、少年の合図を待っていた。絹のようなブロンドが風にそよいで美しい。少年は嬉しそうに口を開いた。


「開けていいよ!」


 少女はゆっくりとまぶたを開けた。そして、目の前の光景に思わずため息を漏らした。隣では少年が満足そうに胸を張っている。


 丘の上から見る光景はまるで1枚の壮大なモザイク画のようだった。少女たちが旅してきた街々が赤や青や黄に彩られ、森や草原の濃い緑、淡い緑と美しい景色を作り出している。世界が一望できると言うには小さな世界だったが少女たちの軌跡を一望できるそのモザイク画は、この旅が始まるまで神殿から出たことも無かった少女にとって正しく世界そのものだった。雲の隙間から射し込む天使の梯子が小さな世界を照らし、見る者に、そこに息づく生命の輝きを想起させないわけにはいかなかった。


「季節が変わると、花が咲いたり、紅葉したりして、また表情が変わってくるんだよ」


 言って少年は隣の少女を見やり、息をのんだ。慈しみの眼差しで世界を見下ろす少女の美しい横顔に女神を見出したのだ。少年はなんだか気恥ずかしくなり頭を掻いた。世界に慈愛の眼差しを降りそそいでいた少女は、はっと我に返り小首を傾げた。


「キミの家はどこにあるの?」


 少女にまっすぐ見つめられ、少年は少しどぎまぎしながらも西側の端っこにある小さな街を指差した。この時間なら父と母とまだ幼い妹が小さなテーブルにつき昼飯を食べているころだろうか。少年はしばらく会っていない家族に思いを馳せ、それから西側の空が赤味を帯びていることに気がついた。近頃は夕方だけでなく昼間もうっすらと空が赤い。そしてその人を不安にさせるような赤は日に日に世界を覆っていた。


 我が家を指し示したまま心ここにあらずで伸ばされた少年の手に少女はそっと自身の掌を下から重ね優しく握った。


「世界がこんなに美しいものだなんて今まで知らなかった」


 少年は少し面食らった。


「そうだろ…うん…きれいだ」


 少女は世界を見渡した。その瞳は世界が愛しくて愛しくてたまらないと叫んでいた。


「ここから見てるとこれまでの旅の思い出すね。あの草原でキミに花冠作ってもらったなとかあの森でキミと初めて会ったなとか」


「急になんだ? まるでもう―」


 お別れみたいじゃないか、と言おうとした少年の言葉を少女が遮った。少女はどこか遠くを見ていた。


「あの日、キミがボレアースから私を守ろうとしてくれてすごく嬉しかった。ううん、あの日だけじゃない。キミに出会った時から今までずっと。ずっとキミに救われてた」


「それは良かった」


 照れつつも困惑する少年に、少女はどこか寂しげに微笑んだ。


「キミに出会うまで私は世界のことなんてどうでも良かったの。滅んでしまうならしょうがないじゃない。なんで私がって思ってた。だけど、キミに出会って私の世界はキミになった」


「ごめん、それはどういう…?」


 少年の胸が早鐘を打ち始めた。隣の少女はもはや神々しく少年は息苦しささえ感じていた。


「私はキミを守りたい。キミやキミの大切な人が生きるこの世界を守りたい。そして私ならできる」


「ちょっと待て。待ってくれっ!」


 少年の制止も懇願も聞かず、少女は振り切るように少年の手を離し、離れた場所で2人を見ていたイリオスに駆け寄った。


「エピヴァテイス様、次はどこの絶景を見に行きますか? 星降る洞窟や輪廻の滝も美しいらしいですよ」


 目的の地にたどり着いた今、イリオスは次の目的地の候補を提案した。いつもの暖かい眼差しを向けるイリオスに少女は答える。


「神殿に戻ります」


 イリオスは思いがけない少女の返答に目を瞬いた。


「…宜しいのですか? それは…つまり…」


 言い淀むイリオスに少女は頷く。


「私の命で世界が崩壊から救われるのならば、この命、主様に捧げます」


「どういうことだよ!」


 顔面蒼白の少年が少女に追い付き、呆然と立ち尽くしていた。少女は、はっと振り返り、泣き笑いで声を絞り出した。


「世界の美しさを教えてくれてありがとう」


 少年は目を見開き、大事なものを奪われまいと少女に向かって手を伸ばした。だが、それは届かなかった。イリオスの手刀がそれよりも早く少年の意識を飛ばしたからだ。少年が次に目を覚ましたときには、すでに女と少女の姿はどこにも無かった。



 ◇◇◇


「この勝負、私の勝ちだったな」


 神殿の外で、イリオスは隣で腕を組み仁王立ちするボレアースに言った。ボレアースは、ふんと鼻を鳴らしそっぽを向いた。イリオスとボレアースの胸元には金色の美しい鳥の羽が飾られている。イリオスはボレアースの聞く気の無い態度に構わず話を続けた。


「人の心は厳罰では動かない。自分からそうしたいと思わせる、それが肝心なんだ」


 ボレアースは忌々しそうに舌打ちした。イリオスはいつもの優しい笑顔を浮かべ、神殿を逃げてきた日からこれまでのことを思い出していた。世界の滅亡を救うためだけに生まれてきた少女。世界のために祈る気のない少女に世界の美しさを見せて回ろうと思って始めた旅だったが、偶然現れた少年のおかげで思ったよりも早く少女の気持ちが動かされたのは運が良かった。おかげでボレアースとの勝負に勝ったのだ。


 イリオスは神殿の中で1人舞う少女に思いを馳せた。世界の救済を祈り、舞い続けて早3日。祈りはまだ創造主たる神に届かないのだろうか。


 そのときだった。神殿から空に向かって光が放たれ、瞬く間に空を覆った。少女の命と引き換えに祈りがようやく聞き入れられたのだ。光の眩さに思わず目を瞑ったイリオスがようやく目を開け見上げた空は、胸のすくようなただただ澄みきったきれいな青だった。

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北風と太陽と イツミキトテカ @itsumiki

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