#14 ぼくはあきらめない、ぜったいに
ブーッ、ブーッ。
まただ。
メイベルは着信を知らせる携帯を見つめたものの、それに応じようとはしなかった。
口から出るのはため息ばかりだ。
ドアをノックする音がして、ジュディスが顔をひょっこりのぞかせた。
「メイベル? なにか食べたほうがいいんじゃない? きのうからなにも――」
ジュディスはしつこく震動をつづける携帯に気づくと、メイベルに問いかけるような目を向けた。
「出なくていいの?」
「いいの」
メイベルはつぶやくようにいった。
ジュディスがため息をもらして部屋に入りこみ、メイベルの隣に腰を下ろした。
「ねえ、メイベル。どうかしら……ロランドに、洗いざらい話してみたら? ご家族のことや、お姉さんのことや、それに……あなたの気持ちも」
「わたしの気持ち?」
メイベルは驚いて顔を上げた。
「ええ、そう、あなたの気持ち。本心を」
「どういう意味?」
「自分がいちばんよくわかっているでしょう?」
「え?」
「あなた、ロランドに本気で恋している。そうでしょう?」
メイベルは目を見開いた。
「いえ、だって、わたし、偽の婚約者だし……」
「偽の婚約者の役割と、あなたの本心は、べつものだわ」
「……そうね……」
これ以上気持ちをごまかしたところで、意味はない。メイベルは半ば投げやりになっていた。
「でも、いくらこちらが好きでも、あちらにしてみれば偽の婚約者でしかない。そもそも、意地悪な伯母さんへの当てつけに、わたしを利用したにすぎないのよ」
「たしかに最初はロランドもそのつもりだったのかもしれないけれど……」
「あれだけのプレイボーイだもの。それくらい平気でするわ」
「そうかしら?」
「そうに決まってる。それに考えてもみて、彼は王太子なのよ。次期国王になる人なのよ。わたしとどうこうなるはずないじゃないの!」
そういうと、メイベルはわっと泣き崩れた。
めったに涙を見せないメイベルがそこまで取り乱したことに、ジュディスはひどく動揺した。
「メイベル! メイベルったら! かわいそうに、ほんとうにロランドのことが好きなのね」
「それに……それに……ほんの少しでも可能性があったとしても、このまま婚約者でいつづけたら、あの意地の悪い伯母さんに姉のことを暴露されてしまう」
メイベルは嗚咽をもらした。
「メディアがどんなふうに書き立てるかと思うと、それをうちの両親が読んでどんな気持ちになるかと思うと……わたしにはとても耐えられない」
ジュディスがメイベルの肩に腕をまわすと、メイベルは彼女にがばっと抱きつき、さめざめと泣きはじめた。
ジュディスはメイベルを抱きしめながら、深いため息をもらした。
* * * * *
数日後、ジュディスの家の玄関ベルが鳴らされたかと思うと、激しくドアを叩く音がした。
「うるさいわね、だれ?」
ジュディスがわきの小窓からのぞいてみたところ、そこにはいら立たしげに立つロランドの姿があった。
ジュディスが玄関ドアを開けると、ロランドが強引に入りこんできた。
「ちょ、ちょっと!」
「メイベルは? いるんだろう? 入らせてもらう」
ロランドはずかずかと家の奥に突き進んだ。
いきなりアトリエに入りこんできたロランドを見て、メイベルは仰天した。
「ロランド!?」
「メイベル!」
ロランドはほんの数歩で目の前に来ると、メイベルを抱きすくめた。
「メイベル! 会いたかった!」
「ロランド?」
メイベルはどうしたものかわからず、ぼう然とするばかりだった。それでも、久しぶりに感じるロランドの温もりに、つい酔いしれそうになる。
ロランドがようやくからだを引き離した。
「メールの返事もないし、電話にも出ない。それでも戴冠式が終わるまでは国を離れられなかった。そのあいだぼくがどんな気持ちだったか、わかるか?」
メイベルはそっとロランドを押しやり、精いっぱい冷静な声でいった。
「手紙を残していったでしょ。あそこに書いたとおりよ。わたし、婚約者というのがこれほど大変だとは思わなかったの。さんざんふりまわされてしまった。でも、もう終わりにしたい。お金はお返しする。少し時間はかかるかもしれないけれど、必ず。だから、もう契約は解消して」
「じゃあ、あれはどういうことだったんだ? ぼくたち、激しく愛し合ったじゃないか!?」
「え!?」
ふたりして大声のした方向をふり返ると、ドアの前にジュディスが立っていた。
「あ、ご、ごめんなさい。心配になって、つい。もう行くわね」
ジュディスはくるりと背を向けた。
「いや、いてくれ。きみに証人になってもらいたい」
ロランドはジュディスを引き止め、メイベルに向き直った。
「きみのことは、もう偽の婚約者とは思っていない。ぼくは本気だ。きみと本気で結婚したいと思っている。きみを愛しているんだ!」
「ロランド!?」
本気なの? ほんとうに?
一瞬、メイベルの胸にいいようのない幸福感が押しよせた。
が、すぐにアグネスの言葉が脳裏に蘇った――「……ロランドとの婚約を解消してちょうだい。そうすれば、この件は黙っていてあげましょう」
そう、わたしは婚約を解消しなければならない。
「ロランド。ありがとう。うれしいわ」
メイベルは心を鬼にして醒めきった声を出した。
「でもね、わたしのほうは本気じゃないの。ごめんなさい。あのときのことは、いい思い出にする。だって、どこかの国の王太子とベッドをともにするなんて、めったにできる経験じゃないもの」
ロランドはめげなかった。
「いや、きみもぼくと同じ気持ちのはずだ。ぼくはそんなこともわからないほど鈍感な男ではない」
ロランドがメイベルの顔をのぞきこむようにいった。
「伯母になにかいわれたんじゃないのか?」
メイベルは一瞬はっとしたが、すぐになんでもない顔を取り繕った。
「そんなことはないわ」
メイベルはロランドの手を取り、ドアのところまで引っ張っていった。そこに突っ立っていたジュディスの手も取り、ふたりを廊下に押しだした。
「だからもう帰って。お金はあとでお返しする。必ず。じゃあね」
メイベルはロランドの鼻先でドアをぴしゃりと閉めた。
ロランドはしばらくドアの前に突っ立っていたが、やがてジュディスをふり返った。
「教えてもらいたいことがある」
ジュディスはロランドの決意を感じると、こくんとうなずいた。
* * * * *
実家のキッチンで母親とともに夕食の準備をしていたメイベルは、無理に明るくふるまおうとしていた。
「やっぱりお母さんの料理がいちばんだわ。これからは、もっと頻繁に帰ってくるわね」
しかし母の目は節穴ではなかった。
「メイベル、なにかあったの? きょうのあなた、なんだか変よ」
メイベルはロランドとのことを両親には話していなかった。話さずとも、いずれメディアが婚約解消を報じればわかることだ。
しかしどうやら母親の目はごまかせないらしい。
「あのね、お母さん――」
そのとき、玄関ベルが鳴った。
「あら? だれかしら」
母が手にしていた包丁をまな板に置き、玄関に向かった。
しばらくすると、玄関から悲鳴らしきものが聞こえてきた。メイベルは父親と一緒にあわてて駆けつけた。
「お母さん、どうしたの!?」
玄関に出てみると、なんとそこにはロランドが姉のフィリーと一緒に立っていた。
「姉さん!」
「フィリー!」
フィリーがわっと泣いて両親に抱きついた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
両親は姉の頭をなで、ひたすら名前を呼びかけながら、強く抱きしめた。
メイベルはわけがわからなかった。
なぜ姉さんが? それに、どうしてロランドがここにいるの?
「どういうこと?」
ロランドに問いかけた。
「聞いたんだ、ジュディスから。なにもかも。だから、お姉さんを見つけて連れてきた」
「もう5年になるのね」
フィリーがつぶやくようにいった。
「ほんとうに、ごめんなさい」
涙ながらの再会劇の興奮がおさまると、メイベルたち5人はリビングのソファに腰を落ち着けた。
「この5年間、どうしていたの?」
メイベルは姉にたずねた。
「あのあと、あんな男とはすぐに別れた。わたし、利用されていただけなのね。ほんとうに情けない……。そのあと、みんなどうしているかと思ってこっそり家に戻ってみたんだけれど、もう引っ越したあとで……」
「あそこにはいられなくなってしまったのよ。でも、ああ、あなたが戻ってくるとわかっていたら……」
母が涙ぐみながらいった。
「いえ、どのみち合わせる顔がなかったわ。みんなにあんな迷惑をかけたんだもの。罪悪感から、もう一生会えないと思っていたの。そうしたら、この人が」
フィリーがロランドに顔を向けた。
「突然現れて、家族がみんな心配していると教えてくれたの。いまでも変わらずわたしを愛してくれているって。だから、恥を忍んで戻ってきた」
「まあまあ」
母がロランドの手を握った。
「なんと感謝したらいいのか」
母がふたたび涙をぽろぽろ流しはじめた。
「いえ、そんな。ぼくは、メイベルが悲しむ姿を見たくなかっただけですから」
それを聞いてフィリーがにこりとした。
「婚約したんですってね、メイベル。おめでとう。すてきなフィアンセを見つけたわね。しかもラフレスの王太子ですって? 驚いちゃったわ。わたしとはちがって、あなたには男の人を見る目があるのね」
「……あ、ありがとう……」
とても、いまここで婚約を解消したなんていえない。みんなの幸福に水を差すようなまねはできない。
「フィリー、わたしたちもいけなかったのよ」
母がフィリーの手を握りしめた。
「あなたは昔から自由奔放な娘だった。なのにわたしとお父さんで、そんなあなたを型にはめようと必要以上に厳しく育ててしまった。それに反発したのよね? ごめんなさい」
「お母さん……」
フィリーが母を抱きしめた。ふたりの頬を涙が伝う。
「わたしからも礼をいわせてくれ」
父がロランドにいった。
「メイベルだけじゃなく、われわれも、フィリーも、幸せにしてくれた恩人だ」
「いえ、こちらこそ、メイベルのようなすばらしいお嬢さんとの結婚を許していただいて、感謝しています」
メイベルはロランドをきっとにらみつけたが、例の悩殺スマイルが返ってきただけだった。
「ちょっと、外で話さない?」
メイベルはロランドに声をかけ、先に立って庭に出た。
メイベルの母は園芸好きで、ベンチの上に白いバラ棚がかかっていた。
「きれいだ」
「ええ、母が育てたバラよ」
「いや、バラもきれいだが、きみも」
ロランドがまたしても抗いがたい笑みを浮かべた。
ついその笑みに見とれたメイベルだが、はっと気を引き締め、ベンチに腰を下ろした。
「あなたもすわって」
ロランドが腰を下ろすと、メイベルは彼に向き直った。
「今回のことは、ほんとうにありがとう。姉に会えて、両親はすごくよろこんでいるわ」
「よかった」
「それで、わたしたちの偽の婚約だけれど――」
「解消に同意するよ」
ロランドがきっぱりといった。
「あ……そ、そう……」
みずから申しでたことのはずなのに、メイベルは心にぐさりとナイフを突き立てられたような気がした。
どうして? そう望んでいたのはわたし自身でしょ?
「わ、わかってくれて、うれしいわ。ありがとう」
「偽の婚約は解消する。それで、最初からやり直したい」
「え?」
「最初から、ほんものの恋人同士として」
「ロランド……」
メイベルの胸によろこびが押しよせたが、やはり現実は無視できなかった。
「気持ちはほんとうにうれしいわ。でも一国の王妃になるなんて、やっぱりわたしには無理よ」
しかしロランドは引き下がらなかった。
「ぼくはあきらめない。ぜったいに」
そう宣言すると、彼はメイベルの頬に軽く口づけしてからすっと立ち上がり、去っていった。
あとに残されたメイベルの頬は、燃えるように熱かった。
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