#12 すべてを捧げてみたい、一度だけ……

 その夜、王宮で開かれる晩餐会で、メイベルはお披露目のダンスをしなければならなかった。そのためにここ1か月ほどロンドンでダンスの講師が雇われていたのだが、大量の仕事のためにろくに練習の時間を取ることができず、けっきょくメイベルは動画を見ながら想像上の相手との練習を余儀なくされていた。

 それでも、見かねたジュディスの助けもあって、どうにかかたちだけは取り繕うことができるまでにはなっていた。

 生まれてはじめて舞踏会用のドレスに身を包んだメイベルは、おずおずと部屋を出て、待ち構えていたロランドの前に立った。

 ロランドがまたしても目を見開いた。

「すごくきれいだ、メイベル」

「ありがとう」

 ロランドのやさしい言葉と視線が、メイベルの胸に染みこんでいく。

「さあ、行こう」

 ロランドにエスコートされて舞踏室に入ったとたん、部屋じゅうの視線が集まった。メイベルはその場に固まったが、無情にも音楽がすぐにはじまった。

「だいじょうぶだ。さあ、踊ろう」

 ロランドが耳もとにそうささやきかけると同時に、すっとなめらかに動きはじめた。メイベルも、ぎこちないながらも合わせてステップを踏みはじめた。

 最初こそどぎまぎしていたメイベルだが、ロランドのやさしいリードのおかげか、いつしか彼とのダンスに夢中になっていた。

 こんな人に愛されたら、どんなにすてきだろう……。

 そう思わずにいられなかった。

「メイベル」

 耳もとに息を吹きかけられるように呼びかけられ、メイベルのからだがぞくりと反応した。そっと顔を上げ、ロランドの目を見つめ返す。そこには、疑いようもない、ほんものの熱情が浮かんでいた。

「きみを、離したくない……」

「え?」

 どういう意味?

 そのとき音楽が終わり、ロランドがうやうやしく一礼した。メイベルも軽くひざを折って応じた。

 いやだ、わたしったら、つい夢中になってしまって。でも、いまの言葉はいったい……。

「失礼」

 横から声がして、いきなりロランドとメイベルのあいだに男が割りこんできた。

「マーク・クレアと申します。一曲お相手願えませんか?」

 ロランドがむっとした。

「彼女はぼくと踊っているんだ」

 男がロランドをふり返った。

「王太子さまの麗しきフィアンセと、ぜひ一曲踊らせてください」

 ロランドは一瞬なにかいいかけたが、あきらめたように小さくため息をもらした。

「一曲だけだぞ」

 そういって一歩あとずさった。

「では」

 つぎの音楽がはじまると、マークが有無をいわさぬ強引さでメイベルの手を取り、フロアのまんなかに進みでた。

 メイベルもあきらめてマークに合わせて踊りはじめた。

 しかしマークはロランドとはちがい、メイベルのからだを荒々しくふりまわしはじめた。

 ちょっと!? 乱暴じゃない?

 さらにマークは、軽快な音楽に合わせてメイベルをくるくるとまわしはじめた。そのスピードがどんどん上がっていく。メイベルは恐怖すら感じはじめた。

 もうやめて、といいたくて顔を上げると、マークが口もとを意地悪くにやりとゆがめていた。

 え?

 そう思った瞬間だった。

 踊りながらすぐわきをすり抜けようとしていたアグネスの次女イーディスが、メイベルのドレスの裾を思いきり踏みつけた。

 ビリビリッ!!

 大きな音が響きわたると同時に、マークがいきなり手を離した。

 勢いあまってフロアにぶざまに転がったメイベルは、自分の姿に目を疑った。

 ドレスが引きちぎれ、太腿があらわになっている!!

「きゃあっ!」

「おおっ!」

「なんと!」

 さまざまな叫び声が上がった。メイベルは茫然自失の状態で転がったままだ。

 そのとき、メイベルの太腿にジャケットがさっとかけられた。気がつくとメイベルはロランドに抱き上げられ、あっというまに舞踏室をあとにしていた。


     * * * * *


「もう、最悪……」

 メイベルは三流紙をばさりとベッドに落とした。太腿も露わに床に転がる自身の姿が一面を飾っている。

「どうしてこんなことに?」

 今回ばかりはさすがのメイベルもすぐには立ち直れそうになかった。

 あれはアグネスの差し金にちがいない。わたしに恥をかかせ、ロランドから引き離そうという作戦なんだわ。

 でも、ばかみたい。だって、わたしとロランドのあいだには、ほんとうはなにもないのだから……。

 しかしそう思うと、悲しい気分になった。

 それにゆうべ、ダンスを踊っている最中にロランドの口から出た、あの言葉の意味は?

 ほんのかすかな期待が胸に広がりかけたそのとき、ドアをノックする音がした。

「はい?」

 メイベルは愚かな妄想を中断させてくれたノックに感謝した。

 ドアが開き、驚いたことにアグネスが入ってきた。

「おはよう」

 アグネスは澄まし顔でそういうと、メイベルに目もくれずにまっすぐ窓際に進んだ。

「お、おはようございます」

「ゆうべはとんだ恥をさらしましたね。お気の毒なこと」

「……」

 あなたの差し金でしょう、と責めるべきかどうか迷ったあと、メイベルは黙っていることにした。

 アグネスが窓際からゆっくりとふり返った。

「わたくしね、あることを知ってしまったの。あなたのこと」

「わたしのこと、ですか?」

「ええ」

 アグネスの口もとがゆがんだ。

「あなた、というか、あなたのお姉さまのこと」

 メイベルの顔から血の気が引いていった。

 なぜ? どうして? この人は、いったいなにをしようというの?

「その顔色からすると、思いあたるふしがあるようね。そう、あなたのお姉さまがはたらいた詐欺の件よ」

 そこでふうっとわざとらしくため息をつく。

「まったく、平民というのはほんとうに恐ろしいものね。犯罪者を身内に抱えながら、わがラフレス王室の一員になろうとするなんて。とんでもないことだわ」

 アグネスは視線をベッドの上の新聞に移した。

「あら? ほんとうに、メディアというのは残酷なものよねぇ。まあでも、これくらいのことなら、人に笑われておしまいかもしれないけれど」

 メイベルはアグネスがいわんとしていることに気づき、口を開いた。

「姉の件を、メディアに暴露するおつもりですか?」

「さあ、どうしようかしら」

 アグネスが胸の前で腕を組み、天井を仰いだ。

「そうなったら、ご両親もさぞかし肩身の狭い思いをされることでしょうね」

 メイベルは胸にナイフをぐさりと突き立てられた気分だった。あのことがメディアに知られ、両親のもとにまた大勢の記者たちが押しかけたら、もう両親はあそこで暮らしていけない。いえ、イギリスのどこであれ、暮らしていけなくなるだろう。

「お願いです。わたしはどうなってもかまいません。でも、両親を苦しめることだけはしないでください!」

 メイベルはついすがるような声を出していた。

 アグネスが満足げな顔をした。

「あらそう? それでは、イギリスに戻ったあと、ロランドとの婚約を解消してちょうだい。そうすれば、この件は黙っていてあげましょう」

 なるほど、この人はどうあってもわたしとロランドを結婚させたくないのね。

 メイベルはアグネスにくるりと背を向けた。

 そもそも、偽の婚約だというのに。ばかみたい……。

 そう思いながらも、なぜか胸が苦しくなってくる。

 それでもメイベルはアグネスに向き直り、意を決したようにいった。

「わかりました。ロランドとの婚約は解消するとお約束します。ですから――」

「そう、ならいいの。よかった。あなたには感謝してもらいたいわ。けっきょく、身内の恥をさらさずにすんだのですからね」

 アグネスはほほほと声高らかに笑いながら部屋から出ていった。

 残されたメイベルは、なぜ涙がぽろぽろとこぼれ落ちるのかわからないまま、しばらくドアを見つめていた。


     * * * * *


 その日一日、気分は沈んだままだった。ロランドは公務に追われて朝からずっと外出しており、メイベルは食欲もわかないことからディナーの席を辞退することにした。

 夜になってもなかなか寝つけなかった。しばらくベッドで寝返りを打っていたものの、やがてあきらめて起き上がり、本でも読もうと荷物に手をのばした。

 そのとき、扉をノックする小さな音が聞こえた。

「メイベル?」

 ロランドの声だ。

 メイベルはネグリジェの上にローブをまとい、扉を開けた。

 ロランドが心配そうな顔をして立っていた。

「ディナーの席に顔を出さなかったと聞いたから、気分でも悪いのかと思って」

 メイベルはロランドを部屋に招き入れた。

「すまなかった」

 ロランドがいった。

「え?」

「ゆうべのことだ。きみを守れなくて、ほんとうに悪かった」

 メイベルの胸に温かいものがこみ上げてくる。

「あなたがあやまることじゃないわ」

「今回のことでは、きみを利用したうえに、結果的に恥をかかせることになって、ほんとうに申しわけないと思っている」

「もういいの」

 メイベルは顔を背けた。目が潤んでくる。やはり自分は、利用されただけの偽の婚約者なのだ。

「でもきみに出会って、きみのことを知れば知るほど……」

 またしてもロランドにいきなり抱きすくめられ、メイベルはびくりとした。しかもここは寝室だ。

「ロランド?」

「きみのことが頭から離れなくなってしまった。きみは美しくて賢くて、すばらしい女性だ」

 気がつくと、ロランドの顔が間近に迫っていた。メイベルは魅入られたように目を閉じた。唇が唇でふさがれ、からだから力が抜けていく。

 唇をそっとこじあけられると、かろうじて残っていた理性のかけらがいっきに吹き飛んでいった。

 もう、なにも考えられない。意識すべてがロランドの口の動きに集中していた。

 舌先と舌先が触れ合った瞬間、全身に電気が走った。彼の舌が口のなかをさまよい、探り、求めてくる。

 ふと、メイベルはからだのわきに硬いものが押し当てられるのを感じた。硬くなった彼の熱い男の部分が、メイベルを求めている。

 メイベルは驚き、ためらい、狂喜した。

 一度だけ。

 ほんの一度だけ、求められるまま、彼にすべてを捧げてみたい。

 もはやロランドを愛している自分を否定することはできなかった。しかし偽の婚約は、あくまで偽でしかない。両親のことを考えれば、すぐにもすべてを終わらせなければ。

 でも、今夜は、今夜だけは……。

 メイベルはキスを返し、彼の首に両手を巻きつけると、からだを強く押しつけた。

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