#10 偽の婚約は、もうここまでにしたいの
王宮の書斎で携帯メールを確認したロランドは、勢いよく立ち上がり、侍従のドナルドを呼びつけた。
「帰るぞ、ロンドンに! すぐにだ!」
しかしロランドがあたりの書類をあわててかき集めても、ドナルドは冷静な表情で扉の前から動こうとしなかった。
「なにをしている? 帰る準備をしてくれ」
「たったいまマクマティ伯爵がいらっしゃいました。殿下にお目にかかって弔意をお伝えしたいそうです」
「父がお相手すればいいだろう」
「お父上はただいま枢密院議長と面会中です」
「しかし――」
ロランドは大きなため息をついた。
「――メイベルが、ミス・ワデルが、過労で倒れたんだ」
それでもドナルドは冷静な表情を崩さなかった。
「婚約者として、見舞わなければ」
ロランドはいくぶん落ち着きを取り戻して告げた。
「みんな、ぼくのせいなのだから」
ドナルドが問いかけるように片方の眉を上げたので、ロランドは咳払いした。
「つまり――婚約の話が表沙汰になったために、彼女がパパラッチの餌食になってしまった」
無言を貫くドナルドに、ロランドはさらに説明を試みた。
「しかも、ラフレスの王族にコネをつくろうと、イギリスじゅうの貴族が屋敷に眠っていたアンティーク家具をミス・ワデルのもとに持ちこんでいるらしい。彼女は舞いこんだ依頼を要領よく断れるような、そういう人ではない。メディアの注目と大量の依頼がいっぺんにのしかかったために、倒れてしまったんだ」
ドナルドがようやく口を開いた。
「ミス・ワデルは将来、王妃の座につくお方です。その点をご自覚いただくためにも、よい機会かと存じます」
「いや、だがいまはまだ一般人だ」
「助手となる者をこちらから一名派遣しておきます」
「もういい。とにかくぼくはロンドンに戻る」
ロランドはそういい放つと、扉に向かった。
しかしドナルドはあきらめなかった。
「殿下は、いずれこの国を動かす人物になるのですよ。国益を第一に考えていただかなければなりません。弔問客との面会はともかく、お父上の即位を目前に控えたいま、殿下が国を離れることは許されません」
もういいかげんにしてくれ!
ロランドは心のなかでそう叫んだものの、祖父のこと、父のこと、ふたりのいとこのことを思うと、たしかにいま国務を投げだすわけにはいかなかった。
ロランドは足を止めた。
「わかった。伯爵にはすぐに行くと伝えてくれ」
ドナルドが一礼して去っていった。
ロランドは大きなため息をもらし、倒れるように椅子にすわりこんだ。
* * * * *
「いいかげん懲りたでしょ?」
ベッドわきからジュディスが声をかけた。
ベッドに寝ていたメイベルは、むっつりしたままだった。
「もっとうまく立ちまわらなきゃ」とジュディス。
「でも、貴重なアンティークがつぎからつぎへと運ばれてくるんだもの。修復師としては、むげには断れないわ」
「それでこのざま?」
ジュディスにそういわれ、メイベルは返す言葉もなかった。
けっきょくロランドは公務に追われ、まだラフレスから戻っていなかった。だからメイベルも、ラフレスで別れて以来、一度も顔を合わせていない。
もう偽の婚約者はやめたいと伝えたいが、さすがにメールで告げる気にはなれず、そのままになっていた。
しかしロランドからのメールによれば、3か月後に予定されているアレクシスの正式な戴冠式のあと、最初の祝祭としてロランドとメイベルの婚礼の儀を執り行う準備が着々と進んでいるという。
このままではやっかいなことになりそうだ。
* * * * *
ようやくロランドがロンドンに戻ってきた。さっそくメイベルは彼の屋敷に招かれて出かけていったが、そこには大勢の人間が集まっているようだった。
「やあ!」
玄関ホールに入ってきたメイベルを見るなり、ロランドが満面の笑みを浮かべて駆けよってきた。まるで当然のことのようにメイベルを腕のなかにおさめ、頬に愛情たっぷりの口づけをしたあと、「会いたかった」とささやきかけてくる。
「きみが過労で倒れたというのに、見舞いもできずに申しわけなかった」
メイベルは耳に吹きかけられたロランドの吐息に敏感に反応し、久しぶりに味わうロランドの胸の温もりにとろけそうになった。それに、意外にもやさしい彼の言葉が胸にじわじわしみてくる。
それでも、訪ねてきた目的を思いだすと、意を決してからだを離した。
「陛下のことはほんとうに残念だったわ。それでも、一度でもお目にかかれてよかった。心からのお悔やみをいわせてちょうだい」
「ありがとう」
ロランドにひたと見つめられ、メイベルは頬が熱くなるのを感じた。
何度見ても、ほんとうにすてきな瞳……。
そのどこまでも深い青に溺れかけたところで、メイベルは王位継承権の件を思いだし、ロランドをきっとにらみつけた。
「でも、ロランド! どうして黙っていたの?」
「なにを?」
「あなたのお父さまが王太子だっていうこと! いえ、いまはお父さまが国王陛下だから、あなたが王太子なのよね。ラフレス王族の一員と婚約したというだけでも大騒ぎなのに、まさか王太子だったなんて!」
「黙っていて申しわけなかった。だが祖父が亡くなるまでは極秘情報だったので、いえなかったんだ。ぼく自身、つい最近知ったことだ」
「そうなの?」
メイベルは少し落ち着こうと深呼吸した。とにかく婚約解消を申しでなければ。
「ロランド。なんだか結婚話がどんどん進んでしまっているようで、不安なの」
「気持ちはわかる。父の即位にともなって、どうしてもめでたい話題が取り上げられがちなんだ」
「そこで相談なんだけど――」
「殿下、お話中のところ申しわけありません」
黒い背広姿の男が会話に割って入った。
「先ほどの件を決めてしまわないと――」
「ああ、わかった。少しだけ待ってくれ」
ロランドがいらだたしげに応対した。
「かしこまりました」
黒い背広姿の男はメイベルにちらりと目をやると、軽く頭を下げて遠ざかっていった。
「すまない、無礼な男だな」
ロランドが申しわけなさそうにいった。
「いえ、いいの、それより大切な話が――」
「殿下――」
またしても邪魔が入った。
「――首相よりお電話が入っておりますが」
「あとにしてもらってくれ」
ロランドがぴしゃりといった。
「え? い、いいの?」
メイベルはあわてたが、ロランドはメイベルの手を取ってホールを出て廊下に向かった。
「あそこではろくに話もできない」
そういって、いきなりわきの小部屋にメイベルを連れこんだ。
「ここならゆっくり話ができそうだ」
「ええ、そうね……」
メイベルは小さな空間にロランドとふたりきりになったことを意識せずにはいられなかった。それでも、はっきり告げなければ。
「偽の婚約の件だけど、もうここまでにしたいの」
ロランドは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがてメイベルの頬に手をやり、そっとなでながらたずねた。
「なぜ?」
「あなたとの婚約が公になって以来、いろいろな人から好奇の目を向けられるようになった。あなたが王太子だとわかったいまは、なおさらよ。でも、わたしのことはべつにいいの。耐えられる。でも両親のところにまでメディアが押しかけてきて……」
ロランドが険しい表情をした。
「ぼくのせいだ。ほんとうに申しわけない。よかったら、ご両親に安全な居場所を提供させてくれ」
「いえ、その、でも……もうみんなをだますのはよくないと思うの。1万ポンドはお返しするわ。アンティーク家具の修復もあきらめる」
ロランドがメイベルをまじまじと見つめた。
「理由はメディアの件だけか? そこまでいうからには、ほかにもなにかあるのでは?」
メイベルはあわてて否定した。
「いえ、ちがうの、そういうわけでは……」
姉の詐欺事件の一件を話してしまおうか……このままではロランドの一族までスキャンダルに巻きこまれかねないのだから。
しかしメイベルが悩んでいるうちに、ロランドのほうが先に口を開いた。
「いま婚約を解消したら、一大スキャンダルになってしまう。パパラッチどもが、ますますきみやご家族を追いかけまわすことになるぞ」
その言葉に、メイベルの顔から血の気が引いていった。
「どうだろう? ここはもうしばらくようすを見るというのは。具体的な挙式の話がこれ以上進まないよう、ぼくなりに手を打っておくから」
「……」
メイベルはそれ以上なにもいえなかった。
やはり軽率だった。なにもかも、自分のせいだ。
メイベルの悲しげな表情を見て、ロランドは自分で自分を呪った。
メイベルは一般市民だ。メディアの注目を浴びれば動揺するのはわかっていたはずではないか。
ただ、婚約がすぐには解消されないと知って、どこかよろこんでいる自分がいた。
なぜだ?
メイベルのことを思いのほか気に入ってしまったからだろうか?
いや、気に入ったどころではないのでは?
ロランドは、自分でも自分の気持ちがよくわからなくなってきた。いずれにしても、どうにもいらだたしい状況であることに変わりはない。
* * * * *
メイベルはロランドから受け取った報酬で無事借金を全額返済することができた。両親には、ロランドとの婚約のおかげで実入りのいい仕事が大量に入ったおかげだと説明しておいた。
おかげで両親のロランドにたいする好感度がさらに増し、ふたりしてメイベルに電話をかけてきては、ロランドとはうまくやっているか、結婚式の準備は進んでいるか、としきりにあおり立てるようになった。
こうなったからには、メイベルとしてもロランドとの偽の婚約を簡単に解消するわけにはいかなくなった。ここでやめてしまえば、両親とロランドを裏切るような気がしてしまうのだから不思議だ。
その一方で、いつメディアに姉のことが暴かれてしまうのかと気が気でなかった。さらには、いくら結婚の準備が進んでも、ふたりがほんとうに結婚することはないのだと思うと、なぜか胸が苦しくなってくる。
そんな支離滅裂な思いに心引き裂かれ、頭が混乱しているさなか、メイベルはふたたびラフレス王国に招かれた。王太子の婚約者として、いよいよ正式にお披露目されるのだ。
このままいったら、どうなってしまうの?
ロランドは、いま婚約を解消したら大きなスキャンダルになるというけれど、時間がたてばたつほど、それをさらに上まわるスキャンダルになってしまうのでは?
メイベルの不安は募る一方だった。
それにロランドの〝婚約者〟としてともに過ごす時間は楽しいが、そこにはあくまで〝偽の〟という言葉がついてまわる。そんな状態が長くつづけばつづくほど、あとで被る痛手が激しくなるような気がしてならなかった。
でも、どうして? べつに彼に本気で恋しているわけでもないのに?
メイベルはしばし考えこんだ。
ほんとうに?
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