#6 はじめまして、メイベルの婚約者です
翌日の日曜日。
メイベルは父の誕生日を祝うため、早朝に出て実家に戻っていた。
「ケーキは焼けた?」
メイベルは母に問いかけた。
「もう少しよ」
母がキッチンから顔だけのぞかせて答えた。
メイベルはにこりと笑いかけた。
「久しぶりだから楽しみ」
母も笑みを返した。
かつてはだれもがうらやむ美人だった母だが、いまやすっかり老けこんで体重を増やし、昔の面影はほとんど残っていなかった。それを思うと、メイベルの心は痛んだ。
「仕事は順調か?」
テーブルの向かいで紅茶を飲んでいる父がたずねた。
「ええ、順調よ。今日はそのことで話があるの」
今回の訪問で、メイベルはロランドの依頼のおかげで借金が返せそうだと両親に打ち明けるつもりだった。いままで苦労してきた両親を、少しでも早く安心させ、楽にさせてやりたかった。
「お待たせ!」
母が自慢のケーキを手にダイニングに現れた。父がそれをにこやかに迎える。
久しぶりに父の笑顔を見て、メイベルは切ない気持ちになった。ふたりとも、ここのところ田舎に引きこもったままで、なにも楽しいことをしていないのでは? そんな両親を、早く安心させたかった。
「あのね――」と口を開きかけたものの、母がいそいそとキャンドルを取りにいってしまった。
「ほら!」
母が細いキャンドルをケーキに刺し、火をつけた。そのあとはお決まりのバースデーソングを歌い、最後に父がふっと息を吹きかけて火を消した。
「あなた、おめでとう!」
「おめでとう、お父さん」
「ありがとう」
父がうれしそうに目を細めた。しかし、全身からにじみ出る生活苦は消しようがなかった。
「さあ、ケーキを切りましょう」
母がナイフを取りに席を立った。
ケーキを食べたら話そう。ロランドのことも、洗いざらい。軽率だと責められるかもしれないけれど、とにかく両親のためなのだから。メイベルはそう心に決めた。
ところが三人でケーキを食べているとき、突然、外が騒々しくなった。
「なにかしら?」
母が不思議そうに窓の外に目をやった。
「なにかな?」
父も窓をふり返る。
なんの音だろう? バラバラと、やたらに騒々しい音がする。近所の人たちもなにごとかと家を飛びだし、道路に出ているようだ。
メイベルも両親と一緒に庭に出てみることにした。
すると、数十メートル先の広場にヘリコプターが着陸していた。しかもそのヘリから、ロランドが降り立ったではないか!
「え!? どういうこと!?」
メイベルは思わず大声を出した。
ロランドはメイベルの姿に気づくと、すたすたと近づいてきた。その光景を、近所の人たち全員が好奇の視線で見つめている。
メイベルはかっとなった。それでなくとも人目を忍んで暮らしている両親を、こんな好奇の視線にさらすなんて!
ロランドが目の前に来ると、メイベルは文句をいおうと口を開きかけた。
が、驚いたことにいきなりロランドに抱きすくめられた。
「愛しい人」
周囲の好奇の視線がさらに強まった。両親も、わけがわからずきょとんとしている。
メイベルがなにかいうより早く、ロランドが口を開いた。
「きのういっただろう? ご両親にご挨拶しなければ、と」
メイベルは抱きすくめられたまま、口をあんぐりと開けていた。なんといっていいのかわからず、混乱するばかりだ。
でも、ロランドの腕のなかはすごく心地よくて――
「あの……」
わきにいた母が声をかけてきた。
「どちらさまで……?」
ロランドはメイベルのからだを離すと、両親に面と向かった。
「はじめまして。ラフレスのロランド・オアシスと申します。突然お邪魔した無礼をどうかお許しください」
そういって、深々と頭を下げる。
「ラフレスの……オアシス……」
母がはっとして、父に向き直った。
「あなた、こちら、ラフレスの王族の方じゃない?」
父もぎょっとしてロランドを見つめた。
「ま、まさか……」
「はい。そのまさかです」
ロランドが例の悩殺スマイルを浮かべた。
それを見て、母がぽっと頬を染めた。メイベルは思わず天を仰いだ。
「と、とにかく、こんなところで話もなんですから、どうぞお入りになって」
近隣住民の視線を背中にひしひしと感じながら、メイベルは3人を引き連れて家のなかにもどった。
「は!? うちのメイベルと!? あなたさまが!?」
ふたりが結婚の約束をしたことを聞かされると、母がすっとんきょうな声を上げた。
「どうか、ロランドと呼んでください。お母さん」
ロランドがにこりとした。
母はその笑みにうっとりと見とれ、父は父でショックから立ち直れないようすだった。
「ご挨拶が遅くなってしまって申しわけありません。では、あらためまして――」
ロランドはそういうと、すっと背筋をのばし、両親をまっすぐ見つめた。
「――お父さん、お母さん、どうかメイベルとの婚約をご承諾いただけませんでしょうか?」
メイベルは、はじめて会ったときとは天と地ほどもちがうロランドの礼儀正しい態度に驚くばかりで、声も出なかった。
「しょ、承諾だなんて!」
母が手を勢いよく左右にふりながらいった。
「ほ、本気なんですか?」
父はまだ信じられないようすだった。
「もちろん本気です。お嬢さんと結婚したいと思っています。ぼくたち、深く愛し合っているんです」
ロランドはそういって、隣にすわるメイベルの肩に腕をまわした。
メイベルはびくっとしたものの、婚約者だと紹介されてしまった以上、そっけない態度はとれなかった。
「まあ……」
母の目はすっかりハート型になっていた。
「そうか……そうか……それは……めでたい!」
ようやく納得がいったのか、父がいきなり大声を上げた。
「で、お式はいつ? どこで?」
母の勇み足にぞっとしたメイベルは、あわてて手で制した。
「あのね、まだ仮の話なのよ。正式なものではなくて」
「なにいってるの、たったいま、花婿さんからご挨拶があったばかりじゃないの」
「花婿さん……って……」
メイベルは冷や汗をかいていた。
するとロランドが肩にまわした手にぎゅっと力をこめ、最高の笑みを向けてきたかと思うと、いきなりウインクした。
メイベルはどきりとした。
こんなことって……でも、そんな顔で見つめられたら……。
「いやあ、めでたい、めでたい。ここはひとつ乾杯といこうじゃないか」
父がキッチンからワインを持ちだしてきた。
「お父さんったら……」
「じつは来週、メイベルをわがラフレス王国に招待して、祖父や両親に紹介する予定なんです。ちょうど祝祭があるので、みんな王宮に揃っていますし」
「まあっ!」
「ほう!」
両親はともに感嘆の声を上げたが、メイベルは顔から血の気が引いていくのを感じた。
このまま両親に誤解させておくのはまずい。ほんとうのことを話さなければ。
でも……。
両親がここまでうれしそうな顔をするのは久しぶりだ。この状況に水を差したくはない。
けっきょくその日、メイベルは借金返済のめどがついたことを両親に報告できないまま、近隣住民にふたたびけたたましい騒音を叩きつけながらロランドと一緒にロンドンに戻っていった。
* * * * *
ロランドは宣言どおり、翌週ラフレス王宮にメイベルを招待した。
ともに自家用ジェットでラフレスに飛ぶため、ロランドはひと足先に飛行場でメイベルを待っていた。
やがて黒塗りの車が現れ、すぐ目の前で停止した。ロランド付きの侍従が車に近づき、ドアを開けた。車から降り立ったメイベルの姿を見て、ロランドはふたたび胸のざわめきをおぼえた。
その日のメイベルはパステルグリーンのワンピース姿だった。彼女の白い肌と淡い色彩が、陽射しを浴びてやわらかな光を放っていた。
「きょうもすてきだよ」
ロランドは心からそういった。
「ありがとう」
メイベルが頬を染めて照れくさそうに笑った。
正直、メイベルぐらいの容姿の女性なら、ロランドのまわりにはごろごろしていた。いや、純粋に外見だけを基準にするならば、もっと上はいくらでもいる。
しかし、メイベルがときおり見せるはにかんだ表情や遠慮がちな笑み、そして仕事にたいする真摯な姿勢は、ロランドにとって新鮮だった。いつも選ぶタイプとはちがうからこそ偽の婚約者に選んだのだが、その相手にここまでの魅力を感じるとは、自分でも意外だった。
パイロットが声をかけてきた。
「ロランドさま、そろそろ出発しないと」
「そうだな」
ロランドはメイベルに腕を差しだし、彼女をエスコートして機内に入った。
* * * * *
冗談でしょう!?
重厚な門をくぐり抜け、ラフレス王宮を目の前にしたメイベルは、すっかり圧倒されていた。
写真を見てはいたけれど、実物はなんて大きくて、豪華で、美しいの!
送迎車から降り立つと、巨大な二重扉の前にずらりと衛兵が並んでいるのが見えた。メイベルはふと気後れして立ち止まった。
するとロランドの手がさっと背中にあてがわれた。
「さあ、行こう。家族が待ちかねている」
それでもメイベルは動けなかった。
「な、なんだか、足が固まっちゃったみたい」
ロランドが小さく笑い、耳もとに口を近づけてきた。
「だいじょうぶ。取って食われるようなことはないから。すべてぼくに任せておけばいい」
そんなふうに耳もとでささやかれたら、もっと緊張しちゃうじゃないの!
メイベルは心のなかでそう叫んだ。
それでもどうにか足を踏みだし、重々しい扉を抜けることができた。しかし、内部の絢爛豪華さにまたしても度肝を抜かれることとなった。
「す、すごい……」
それ以上、言葉が出てこない。
ぎくしゃくとした足取りのまま客間に案内され、そこでロランドの両親と伯母に紹介された。
「は、はじめまして」
ぎこちなく頭を下げるメイベルを、ロランドの両親は温かい笑みで迎えてくれた。
「ようこそラフレスへ。ロランドの父アレクシスだ。きみがメイベルだね。会うのを楽しみにしていたよ」
「わたしもよ、メイベル。いままでずっとふらふらしていた息子の足を地に着けてくれるなんて、どんな人かと楽しみにしていたの。思っていた以上に愛らしいお嬢さんね。うれしいわ。これからどうぞよろしくね」
母親のエレノアがつづけた。
「こ、こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
メイベルはふたたび深々と頭を下げた。
「堅苦しい挨拶は抜きよ、王宮を楽しんでね」とエレノアがいった。
かつて世界的モデルだったエレノアは、いくぶん歳を重ねたとはいえ、いまでも充分美しかった。しかも見るからにおっとりとしており、メイベルは即座に好感をおぼえた。
エレノアのほうも、きらきらとうれしそうな目でメイベルを見つめている。
「ほんとうに、愛らしいお嬢さんだこと」
メイベルは隣の席にいるロランドの伯母アグネスに顔を向けた。
「メイベル・ワデルです。はじめまして。どうぞよろしくお願いいたします」
「ワデル……ワデルねぇ……ひょっとして、スタンレー一族のご親戚かしら? たしかそういう名字の方がいらしたような」
メイベルはあわてて否定した。
「いえ、まさか、ありえません。うちはごくふつうの家ですので」
「そう」
アグネスがあごをくいっと突きだした。
「それは残念ですこと。でも、見るからにきちんとしたお嬢さんのようですし、ロランドのお嫁さんにはよろしいのではないかしら?」
アグネスは口もとを緩めはしたものの、その目は冷たい光を放ったままだった。
「姉上、ロランドが選んだ女性なのですから、まちがいはありませんよ」
アレクシスがさりげなく口を挟んだ。
「そうでしょうとも。ラフレスへようこそ。ご滞在を楽しんでくださいな」
「はい。ありがとうございます」
「疲れただろう? 部屋に案内しよう」
ロランドに部屋の外に連れだされたとき、メイベルは止めていた息をようやく吐きだすことができた。
第一関門突破……よね?
* * * * *
まったく、平民の娘なんか連れてきて。平凡な田舎娘もいいところじゃないの。
アグネスは去っていくメイベルの背中をにらみつけた。
この父にしてこの子あり、ということね。
鋭い視線を弟アレクシスにきっと向ける。アレクシスはエレノアと楽しげに会話を弾ませていた。メイベルがたいそう気に入ったらしい。
そもそもわがラフレス王族には高貴な血しか流れてはいけないはずだというのに、アレクシスがモデル上がりの女を連れてきたのが運の尽きだった。
アグネスはエレノアの背中を憎々しげに見やった。
おかげでいずれわが国には、平民の血が半分混じった国王が誕生することになってしまった。
それはもう止めようがないとしても、これ以上平民の血を入れるわけにはいかない。ロランドまで、あんな華のない平民の女と結婚してしまったら、わたくしのふたりの娘の嫁ぎ先にも影響がおよびかねないではないの。王族に平民の血が入ってもいいと思われたら、どんな汚らわしい虫がたかってこないともかぎらない。
冗談ではすまされないわ。そんなこと、許されるはずもない。
とりあえず結婚に賛成の顔はしておいたけれど、いまに見ていなさい。この婚約はかならず解消させてみせますからね。
アグネスはさっと席を立つと、アレクシスたちに声もかけずにつかつかと部屋をあとにした。
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