#5 これが、あのメイベルか?

 送られていく黒塗りの高級車のなかで、メイベルは胸の高鳴りを押さえきれずにいた。

 なんなの、あの人? 最低のプレイボーイね! 偽の婚約者だかなんだか知らないけれど、図々しいったら!

 でも、あのキス……すごく、すてきだった……。

 メイベルははっとわれに返った。

 だめだめ、偽の婚約者を演じるのは、あくまでお金のため。今後は、あんなふうにつけこまれないようにしなければ。どうせあちらはキスのひとつやふたつ、気にしないプレイボーイなんだから。


     * * * * *


 家に戻ると、リビングでジュディスが待ちかまえていた。

「お帰り! どうだった? ロランドの仕事、受けることにした?」

「うん……」

 メイベルのようすがいつもとちがうことに気づいたのか、ジュディスがたずねた。

「なにかあったの?」

「いいえ、というか、そうね……」

「なに? まさかロランドに――」

「そういうんじゃなくて、というか、そうね……」

「ええ?!」

 ジュディスが驚いてソファから立ち上がり、駆けよってきた。

 しかたなくメイベルはことのいきさつを説明した。もちろん、キスの一件は省略して。

 聞き終わると、ジュディスが心配そうな顔をした。

「なるほど。たしかにこの修復の仕事を逃すのは惜しいわね。ただロランドのような王族って、かなり特殊な人たちよ。常識が通じないところも多いし、取り巻き連中もひと筋縄ではいかない人たちばかり。あなたが傷つくようなことにならなければいいんだけど」

 メイベルはジュディスに弱々しい笑みを向けた。

「ありがとう。でもだいじょうぶ。婚約者のふりをするだけだから。それにアンティーク家具修復師として、こんな仕事を逃すわけにはいかないわ」


     * * * * *


 つぎの土曜日。

 メイベルはジュディスとともに格式ある古い屋敷の前でタクシーから降り立った。目の前の景色に見とれていたため、うっかり転びかけてしまう。

「危ない!」

 ジュディスがあわやのところでからだを支えてくれた。

「ありがとう。履き慣れないもの履いているから、つい」

 メイベルは足もとを見つめた。

 ジュディスに見立ててもらった水色のピンヒール。同じくジュディスのアドバイスで手に入れた、青い水玉模様のワンピースに合わせたのだ。

 週のはじめにいったんはロランドの条件を飲んだメイベルだが、インターネットでラフレス王族について調べてみたところ、そこが想像を遙かに超えた世界であることを知り、尻込みしはじめたのだった。

 やはりわたしには無理かも……。

 そんな気持ちをロランドに伝えたところ、王族だろうが貴族だろうがしょせんは同じ人間だ、なんなら今週、とある国の王族の血を引く知り合いがカントリーハウスでアフタヌーン・ティーパーティを開くので参加してみないかと誘われ、ジュディスにつき添われて渋々ながら出かけてきたのだった。

 しかし世界のちがいを見せつけられるような屋敷を前にして、ふたたびメイベルの腰が引けてきた。

「やっぱりやめようかな」

 つい足が止まりがちになる。

「だいじょうぶだってば! ほら」


 ジュディスが玄関の呼び鈴を鳴らすと、執事とおぼしき背広姿の男性が応答し、ふたりを招き入れた。

「本日は、中庭にお席をご用意いたしました」

 広々とした屋敷を抜けた中庭に、見るからに品のいい男女が十数名、白いガーデンテーブルを囲んでいた。

 ロランドの姿はすぐに目についた。あれだけの容姿を見落とすのは不可能だ。

 ロランドのほうもふたりに気づいたようだった。

 ところが彼はジュディスとメイベルを何度か交互に見くらべたあと、やがてメイベルにひたと視線を据えた。眉間にしわをよせている。

 メイベルは焦った。

 どうしよう、誘ってくれたのはたんなる社交辞令だったのかもしれない。ほんとうに来てしまうなんて、図々しかったのかも……。

 ジュディスがロランドに手をふりながら近づいていった。

「どうも! ちゃんとメイベルを連れてきたわよ」

 それを聞いて、ロランドが目を見開いた。

「やっぱり、メイベル……なのか?」

「そうよ、見ちがえたでしょ」

 ジュディスが自分の手柄だといわんばかりにメイベルのほうにさっと手をふった。


 驚いた。これが、あのメイベルか?

 ぼさぼさの髪がシニヨンにまとめられ、顔のまわりにほつれ毛がふわりとかかっている。50年代ファッションを思わせる白くて大きな襟と、きゅっとしぼられたウエスト、そしてふわりと広がるサーキュラースカートの水玉ワンピースは、スタイルこそ清純なイメージだが、肉感的なメイベルの魅力を存分に際立たせていた。

 ロランドはゆっくりと近づいていった。

 メガネを外したおかげで、あの美しい目が陽射しをまともに浴びてきらきらと輝いている。控え目な化粧が、もともと美しい顔立ちをさらに引き立て、顔にかかるほつれ毛が、触れてくれと誘いかけてくるようだ。それに――

 ロランドはメイベルの豊かな胸と引き締まったウエストに目を落とした。

 先日抱きよせたとき、思いのほか女性的なからだつきをしていることには気づいていたが、まさかここまでとは……。

 これが、あの地味な職人気質のメイベルなのか?

 まじまじ見つめていると、メイベルが困ったように頬を赤らめた。その表情に、ロランドの胸がいつになくざわついた。

「――ないで」

「え?」

 ロランドはわれに返った。

「いま、なんて?」

 メイベルがあきれたように天を仰いだ。

「ものめずらしいものを見るような目で見ないでっていったの」

 ロランドはにやりとした。

「いやじっさい、希有な光景だから」

「そうでしょうね。わたしみたいな女がこんなすてきなワンピースに身を包むことなんて、めったにないもの」

「それはちがう。こんなに魅力的な女性はめったにいないということだ」

 メイベルが頬をさらに赤らめた。それがまたロランドの琴線に触れた。なんて愛らしい……。

「お友だち?」

 背後から声をかけられ、ロランドはあわててふり返った。

「あ……これは失礼、公爵夫人」

 ロランドはその女性の背中に手をあてて近くに引きよせると、メイベルとジュディスを手ぶりで示した。

「友人のジュディス・ド・マクベスと、メイベル・ワデルです。こちらはモルタン公爵夫人。本日のホストだ」

「あら、ジュディス・ド・マクベス? いやだ、すっかり大きくなって、わからなかったわ」

 公爵夫人はメイベルに軽くうなずきかけると、ジュディスを連れてさっさとテーブルのほうに行ってしまった。メイベルはロランドとふたりきりでその場に取り残された。

「ほんとうに……きれいだ」

 ロランドはそういわずにはいられなかった。

「あ、ありがとう。こんな格好するのははじめてだから、なんだか慣れなくて」

 メイベルが自嘲気味に笑った。

「もっとしょっちゅうしたほうがいい」

 自分でも驚くほど真剣な声でそういったあと、ロランドはメイベルの背中に手を当てた。

「さあ、みんなに紹介するよ」


 ガーデンテーブルの前で一同に「恋人」として紹介されたメイベルは、女性客の好奇の視線を一身に浴びることになった。にこやかな笑みを向けてくる女性もいれば、見るからに冷ややかな視線を投げつける女性もいる。

 一方、男性客のほうはメイベルに釘づけだった。頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと遠慮なくながめまわす輩もいた。

 メイベルにはよく聞き取れなかった名前の中年女性が、ほがらかにいった。

「まあまあ、ようやくロランドもまともなお相手を見つけたようね」

 ロランドが悩殺スマイルを浮かべた。メイベルは、その場にいた女性全員が頬を赤らめるのを確認した。

「あら、たしかロランドは、いまロベルタとつき合ってるんじゃなかった?」

 先ほどから冷ややかな視線を向けていた若い女性が、つっけんどんにいい放った。

「シェリー、やめなさい」

 母親らしき女性がたしなめた。

「はしたないですよ」

「だってほんとうのことだもの。ロベルタがそこらじゅうに吹聴してまわってるわ」

 ロベルタ? もしかして、あの受付嬢のこと?

 メイベルはなぜか動揺しながらも、顔に貼りつけた笑みは崩さなかった。

「婚約間近だって、本人がいっていたのよ」

 シェリーは執拗だった。

「既成事実もあるって」

「シェリー!」

 ロランドがひょいと肩をすくめ、メイベルにウインクした。

 え? なに? いまのはどういう意味? メイベルはどぎまぎした。

 ジュディスがふんと鼻を鳴らしていった。

「シェリーったら、ロランドにフラれたものだから、八つ当たりしちゃって」

 シェリーが怒りで顔をまっ赤にし、なにかいい返そうとしたところへ、銀の大盆に紅茶セットをのせた執事が到着した。

 おかげで場はなんとなくおさまったものの、メイベルの胸のもやもやは消えなかった。ロランドのなに食わぬ態度と先日のキスの記憶が頭のなかでごちゃまぜになり、どういうわけか腹立たしさをおぼえてしまうのだ。

 それでも、どの世界でもしょせんは同じ人間というロランドの言葉には納得がいった気がした。愛想のいい人もいれば、シェリーのように意地の悪さを隠そうともしない人もいる。女と見れば手当たり次第に口説こうとする男がいるのも同じだ。そう思えば、一定期間、王族の婚約者を演じるくらいのことはできそうな気がしてくる。

 それに、多少の犠牲を払ってでも、いまはやはりまとまった金を手にしたい。愛する両親のために。


 シェリーのヒステリックなふるまいは気にもかけなかったロランドだが、先ほどから男友だちがメイベルに不埒な視線を向けてばかりいることは気に入らなかった。

 なぜそんな気持ちになるのかは、自分でもよくわからなかったが。

 メイベルはいわば仕事のパートナーだ。彼女がほかの男たちからどう見られようが、自分にはなにも関係ない。彼女が偽の婚約者をうまく演じてくれさえすれば、それでいいはずだ。

 友人のジョージがメイベルに近づき、やけになれなれしく話しかけはじめた。メイベルが長身のために、ふたりの顔が近づきすぎているような気がしてならなかった。

 あの女たらしめ。

 ロランドはジョージから引き離すようにメイベルの腕を取り、にこやかに話しかけた。

「そろそろ、きみのご両親にご挨拶しなければと思っているんだ」

「は?」

 メイベルは一瞬きょとんとしたが、すぐに周囲の視線を感じて恋人の顔を取り繕い、慎ましやかに応じた。

「まあ、ありがとう。でも、そんなに急がなくてもいいのではないかしら」

「いや、こういうことはきちんとしておかなければ」

 ロランドはそう宣言すると、誇らしげに胸を張り、客たちの驚いた顔を一瞥した。

 これでよし。

 おしゃべり好きなご婦人方のことだ。メイベルのことはすぐに国の親族にも知れるだろう。

 それにしても……。

 ロランドはふたたびメイベルの愛らしさに見入った。

 この芝居、思いのほか楽しくなりそうだ。

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