#4 偽の婚約者になってくれ
月曜日の朝。
メイベルは全面ガラス張りの洒落たビルを前にして、しばしためらった。
オフィス街に来るのだから、もう少しまともな格好をしてくればよかった。
しかしあとの祭りだ。メイベルはいつものもさっとしたファッションに気後れを感じつつ、ビルの入口を抜けた。すると受付の前で顧客らしき男性と立ち話をするロランドの姿が目に飛びこんできた。メイベルは足を止めた。
先日訪ねてきたときのロランドはジーンズにシャツというラフな服装だったが、それでも十分、王族ならではの気品をただよわせていた。
いま、高級スーツに身を包み、顧客と自信たっぷりのようすで会話するロランドは、気品だけでなく、一流ビジネスマンのオーラを全身にまとっていた。
それにこうして少し離れたところから見ると、すらりと長い脚、輝くばかりの金髪、美しい顔立ち、そして細身ながらもたくましい肩が、いやでも目についてしまう。
メイベルはどきどきしながらゆっくりと歩を進めた。近づくにつれ、ロランドと顧客の会話が聞こえてきた。あまり聞いてはいけないような気がして、メイベルはふたたび足を止めた。
「いやあ、ほんとうに見事なアドバイスだったよ、ロランド」
「いえいえ、あなたの思いきりのよさが勝因ですよ」
「いやいや、ははは。さすがトップの成績を誇るだけあるな、きみは。これからもよろしく頼むよ」
ふたりは握手を交わして別れた。
トップなんだ、あの人、この大手投資銀行で……。
顧客が出入り口近くにいるメイベルのすぐ近くを通り過ぎたので、それを目で追っていたロランドに気づいてもらえると思いきや、彼はくるりと受付嬢をふり返った。
モデルかと思うほど見目麗しい受付嬢が、満面の笑みを浮かべてロランドを見上げた。ロランドがなにやら小声で言葉をかけると、受付嬢がぽっと頬を赤らめた。
……ビジネスマンとしては一流かもしれないけれど、ジュディスがいっていたとおり、女癖は悪そうね。
メイベルが一瞬顔をしかめたそのとき、ロランドがようやく彼女に気づき、例によって悩殺スマイルを浮かべて近づいてきた。メイベルの鼓動がいきなり高まった。
「おはよう。早かったね」
「ど、どうも。早めに出てきたから」
受付嬢がいったん顔に警戒の色を浮かべたが、メイベルの姿を見て安堵したのか、すぐに取り澄ました表情に戻った。
「行こう」
ロランドが携帯電話を耳に当てつつ、すたすたと出口に向かった。
メイベルは受付嬢にしかめ面を向けたのち、急いでロランドのあとを追いかけた。
ビルの前の通りに、黒塗りの高級車がすうっと到着した。
「お待たせいたしました」
白い手袋をはめて帽子をかぶった運転手が出てきてドアを開けたので、メイベルは戸惑いながらもなかに乗りこんだ。
ロランドもあとにつづき、車が静かに発進した。
* * * * *
ロンドン郊外に入った車はやがて重厚な鉄門を抜け、メイベルには森としか思えない木立の合間をいつまでも走りつづけた。ようやくあたりが開けたと思ったら、みごとな佇まいの古い屋敷が現れた。
ジュディスのタウンハウスもメイベルにしてみれば充分豪華だったが、この屋敷はそれを遙かに凌駕している。
車が停止し、運転手が降りてドアを開けた。先に降りたロランドが、メイベルのために手を差しだしてくれた。
そんなことをされたことがなかったメイベルは、どぎまぎした。
ビジネスライクな態度をとってはいても、やはりそこは王族だ。身についた紳士のふるまいが無意識のうちに出るのだろう。
礼をいおうと顔を上げた瞬間、またしてもあの笑顔が目に飛びこんできた。気がつくと、メイベルはロランドの美しい顔に見とれていた。
「着いたよ」
メイベルの心がぐらりと揺れた。
「ど、どうも」
メイベルはぎこちないしぐさで車から降り、目の前にそびえる屋敷を見上げた。
「すごいお屋敷」
執事らしき男性が内側から大きな二重扉を開き、メイベルたちをなかに招き入れた。
「祖父の別宅なんだ。ロンドンにいるときは、ここを住処にさせてもらっている」
メイベルはロランドに案内されるまま、広々とした玄関ホールを抜けて大きな扉の前に立った。
「さっそく仕事の話だが」
そういってロランドが扉を開けた。
かび臭いにおいがむっと鼻をついた。周囲に埃がふわりと舞い上がり、メイベルは一瞬目を閉じた。
そして目を開くと、部屋をぐるりと見まわした。長年使われていない部屋のようで、家具の大半には白いシートがかけられていた。
「どれも、アンティーク好きの祖父が集めた品物だ」
メイベルはすぐ目の前の家具に近づき、白いシートを持ち上げてみた。
古いテーブルだ。ところどころ痛んでいる箇所はあるものの、使用されている木材といい、その洗練されたデザインといい、めったにお目にかかれない貴重なもののようだった。おそらくは18世紀ごろの品物だろう。
「すてき……」
メイベルは思わずそうつぶやいた。こんな仕事を逃す手はなさそうだ。
「それで……」
ロランドがメイベルに向き直り、まっすぐ見つめてきた。
「……報酬だが、1万ポンドでどうだろう?」
「1万ポンド?」
まだすべて確認したわけではないが、この保存状態なら破格の報酬だ。ただ……必要な額には、5000ポンドほど足りなかった。
メイベルはついため息をもらした。もう時間が足りないことはわかっていたけれど……。
「ただし、ひとつ条件がある」
ロランドがいった。
メイベルは顔を上げた。
「条件?」
ロランドがにやりとした。
「もうひとつ仕事を受けてほしい。もっと楽に稼げる仕事だ」
なに? まさか? 頬がかっと熱くなる。
メイベルの顔に浮かんだ警戒の表情を見て、ロランドがあわてて否定した。
「いや、いや、きみに変なことをさせようというわけじゃない。そういうことじゃなくて――」
ロランドがいったん言葉を切り、せき払いした。
「――ぼくの婚約者になってもらいたいだけだ」
「は?」
メイベルは目を見開いた。
「あなたの婚約者?」
「ああ。ただし、偽の婚約者だ。こちらの仕事にも1万ポンド支払う」
わけがわからない。メイベルは目をぱちくりさせた。
「じつは……」
ロランドが説明をはじめた。
「つい先日、一族のあいだでちょっとした出来事があったんだが、それをきっかけに、おせっかいな伯母が王族にふさわしい花嫁をぼくに押しつけようとしはじめた。だがぼく自身は、まだ結婚なんて考えられない。なによりあの伯母が選んだ女性を妻にするなど、考えただけでぞっとする。だから、もう自分には心に決めている人がいる、とつい口から出まかせをいってしまった」
ロランドがにやりとした。
「そこできみに婚約者のふりをしてもらいたい。こちらについては前払いするよ」
「そんなことのために、前払いで1万ポンドも払うの?」
一般庶民のメイベルには信じられない話だった。
「ああ。あの伯母のいいなりになるくらいなら安いものさ。だれより血筋とプライドにこだわる人だからな。うちの父が母と結婚したときも猛反対したらしい。ぼく自身、幼いころから伯母が母につらくあたるのを目の当たりにしてきた」
「あなたのお母さま……知ってる! 母から聞いたことがあるわ。ラフレス王国の王子が世界的モデルと結婚して、世間をあっといわせたって。すごくロマンチックな話だと思ったのをおぼえている。そうなのね、その王子というのがあなたのお父さまなのね」
それにしても……。やはりメイベルにはわけがわからなかった。
「でも、どうしてわたしなの? あなたなら、いくらでも女友だちがいるでしょう? そもそも、偽の婚約者じゃなくてほんものの婚約者になってもらえそうな人が、まわりにいくらでもいるんじゃないの? そういう人を探して、伯母さまにだれかを押しつけられる前に、さっさと結婚してしまえばいいじゃないの」
「さっきもいったように、まだ結婚して身を落ち着けるつもりはない。それに、きみはぼくの好みからかけ離れているところがいい」
そういったあと、ロランドははっとして口をつぐんだ。
「いや、その、侮辱するつもりはない」
メイベルは内心かなり傷ついたものの、努力してそれを顔に出すまいとした。
もちろん、自分がこんなハンサムで高貴な身分の男性の好みであるはずもないことは、いわれなくともわかっている。それでも、なにも面と向かってそこまではっきりいわなくてもいいのでは?
屈辱感から、ふたたび頬が熱くなってきた。
「なんというか、つまり、きみみたいな……堅実なタイプを連れていけば、家族もぼくが本気だと思うだろうから、説得力が増すというか」
なるほど。わかったような、わからないような。
「いつまで婚約者のふりをすればいいの? いずれは結婚しないことが伯母さまにもわかってしまうでしょう?」
「そうだな、ここの家具の修復が終わるまではどうだろう。修復にはしばらく時間がかかるだろうから、そのうち伯母もあきらめるかもしれない。家具の修復と婚約者のふりの両方を受けてもらうことが条件だ。もし偽の婚約者になってもらえないのなら、家具の修復についても忘れてほしい」
「……」
「それに、仕事ぶりによっては、きみのことをわが王国の貴族に紹介してもいいと思っている。そういう連中と懇意にしておけば、将来への大きな足がかりになるだろう」
ロランドがたたみかけるようにいった。
メイベルはしばし考えこんだ。
そんなにむずかしいことではないのかもしれない。期間も限定されているし、偽者とはいえ、こんなハンサムな人の婚約者になるのも悪くない。
それに王族のアンティーク家具を修復する機会をやすやすと逃すのは、あまりに惜しい。そしてなにより、これで両親を借金から救うことができるはず。
「わかったわ。前払いしてくれるというなら、この話、お受けします」
「契約成立だな」
ロランドがにやりと笑った。
メイベルは握手しようと手を差しだした。ところが、気がつくとロランドの腕に包まれていた。
「では、誓いのキスを」
いきなりロランドに唇を奪われ、メイベルは固まった。一瞬、抵抗しようとてのひらを押しつけたものの、やがてからだから力が抜けていった。
メイベルのからだがとろけていくのがわかった。それを支えるかのようにさらに腕に力をこめたロランドは、だぼだぼの服に隠された細いくびれと豊かな胸を感じ、驚いた。
いきなりからだの芯にぽっと火がつき、全身が熱くなっていく。
信じられないほどやわらかな唇だ。
それをもっと味わいたくて、ロランドはいつしかキスを深めていった。
このままメイベルのなかに溶けこんでしまいたい……。
やがてロランドは口からあごへ、さらにはなめらかな首筋へと唇を移動していった。
「ちょっと!」
腕のなかのやわらかなからだがいきなり拒絶反応を見せた。
「こんなこと、契約には入ってないでしょ!」
メイベルが顔をまっ赤にして怒っていた。
いや、その赤らんだ頬は、怒っているからか、それとも……。メガネの奥の瞳は、潤み、きらきらと輝いている。
なんて美しい瞳なんだ。
ロランドはその顔にしばし見入ったあと、ふっと笑ってからだを離した。
「じゃあ、これからよろしく」
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