第9話 家族
月詠(ツクヨミ)学園の裏門の詰め所で、警備員の男が杞憂にすぎないことで悩み、彼の想像では、ひと欠片たりとも思い浮かべることかなわない、もっと恐ろしい事態を、図らずも回避していた幸運を知らずにいた時刻。
朝9時10分過ぎ。
二学期の始業式のために、ほぼすべての生徒たちと関係者、来客者が体育館に整列をすませた時刻。
妹子(イモコ)とリナは、学園の広い敷地をぐるりと囲む、歩道を並んで歩いていた。当然のことながら、辺りには、このような時間になっても、お気楽に歩いているような生徒の姿は、二人以外に誰一人として見当たらない。
彼女たちが目指すところは、学園正面のゲート、およそ800メートルほどの道のり。
先ほど裏門前で「おしゃべりしながら歩こう」とは言ったものの、リナは何を話していいのか戸惑っていた。
すると、どこからだろう?
気づかぬ内にいつの間にか傍から消えていた、あの美しい黒猫が、そっと足音一つ立てずに飛び降りてきて、いつもの我がポジションはここでしょうと、妹子の横を体を添わすように歩き出した。
いくつかの大きな『?』が、解消しきれていないが、とにかく妹子の飼い猫なのは間違いないと、リナは思った。
そして……無言の行進という、軽い地獄から抜け出すべく意を決して声を出す。
「あ、あの…」
「でさぁ……」
見事に、二人が同時に口を開いた!
もしも、このお二人さんが、ラブラブの…若しくは、初々しい恋人同時だったとしたら? このやや気まずい感じに、お互い頬染め、見つめ合いながら……。
「え? 何?」
「そっちこそ……なに?」
「フフ…、君から話しなよ」
「やだ……いいよ……先に聞かせてよ」
……等と言う、イチャイチャとした、究極に意味のない…が、しかし幸せな……定番の譲り合いの言葉のラリーが数十行にわたって繰り返されるだろうが……もちろん彼女たちはそうではない……。
妹子は、リナの発しようとした言葉を全く配慮せず、先ほどのセリフを言い切った。
リナの方は当然、ハッっと察知して口を閉じる。
「でさぁ、さっきは寅平のおっさん…タクシーの運ちゃんと最後、何話してた?」
「……」
(? と、とらべ?? ああ! さっきの運転手さんか……)
リナは戸惑いながらも、端的に話す。
「……料金、タクシー代の事」
(? え? 名前…なんて、書いてあった? ……だめだ、わたし、全然周りが見えてない……)
「あ、そう」
妹子は、わずかに下唇を尖らせながら、そっけなく返事をして続ける。
「じゃあさぁ、リナは今日、なんで遅刻しかけてたんだぁ? はは~ん……あたしと同じ……朝寝坊なのだ! わかっちゃったのだ…ぐふふ」
妹子は子犬の足みたいな握った両の手を口元に当てて、大喜びの含み笑い。
別に本当のことを告白する理由も必要もない。
リナは妹子の問いかけに合わせて、おざなりに答えることも出来た。
(そう! 正解~その通り、やっぱり分かった? 昨日夜遅くまでスマホ見ちゃってて……)
今朝、初めて会ったばかりの……友人だとも言い難い……ましてや、親友なんて呼ぶには程遠い……ただ単に、ついさっき、知り合った同じ学園の生徒、同じ方向に向かう目的でタクシーに相乗りしただけの関係。
しかし、どうしてなんだろう? 彼女は素直にありのままを話したくなった。
リナは、頭で組み立てた台詞を捨て、ちょっと申し訳なさそうに首を振る。
「えっと……そうじゃないの……色々、嫌になっちゃって……」
「ふ~ん、なんだハズレか~、で、何なのだ? しょぼくれ婆さんみたいに、踏切の前で黄昏てたホントのわけは?」
リナは視線を少し下へ外すと、堰を切ったかに饒舌に語り始めた。
幼いころ父を亡くし、小さな食堂を営む母親と二人暮らしだが、家は貧乏で、月詠学園へも奨学金制度の援助で通っていること。
その際の大きな推薦理由は、バドミントンのトップクラスの選手でもあったからだったが、怪我のためにパフォーマンスを維持できず退部したこと。
このまま学園に残るためには、もう一つの条件ともいえる学業で、もっと上位に入れるように勉強を頑張り、レベルを上げなければ厳しいこと。
母親は、相変わらずのんきに、いつも家の手伝いを押し付けてきて、自分の気持ちや置かれている状況を全く理解してくれないこと。
それでいつも、つまらない事でケンカになってしまうこと……。
「わたしは、もう……がんばってる……がんばってるけど、これ以上は、いくら勉強したって……難しい。それなのに……時間がないのに……お母さんは…まったく……マイペースで自分の事しか考えてなくて……いつもいつも……」
話しているリナ自身、面白くもない愚痴の連続で、間違いなく聞き手の気分を悪くさせる退屈な話だと思いながら止められない。
「色々考えちゃうと…なかなか眠れないし……今朝も…なんだか……わぁ~ってなって、怒鳴っちゃって、口ケンカして、むしゃくしゃして……家を出て……学校行くのも、…………なにもかも……嫌になってきて」
目を少し赤くし、言葉も震わせながら、リナはとめどなく思いを口にしてしまう。
(ああ! もうっ、わたしったら……バカ! こんなに一人で、長々と、ごちゃごちゃわめいちゃって……)
とはいえ溜まっていたものを多少でも、初めて外に吐き出せたことで少し落ち着き、妹子の様子を伺うことができた。
「ご、ごめんね。こんなつまらないことを………」
リナは妹子を見つめる。
妹子は、以外にも、退屈した顔せず……。
とっても熱心に、集中していた。
リナの話が終わったことに気付いた妹子は、ちょっと首を斜めにして……
「ん?」
そう、か~るく返答する。
なぜならば、集中していたから。
感覚に……、指先の……。
彼女は、小さな小指を……思いっきり、鼻の穴に入れて……鼻くそちゃんを、ほじっていた……のだ。
「…………」
がーん!
リナの両目は真っ白になっていた……だろう……マンガの、ひとコマなら。
(き、き、聞いてな…い、いいい…妹子ちゃ~ん……)
妹子は掘り当てたモノを満足そうに確かめ、ピンッっと弾くように道路へ飛ばした!
ガハハ!
豪快な笑顔でリナに笑いかける。
(こ、これは、間違いなく聞いてない……)
リナはガックリと肩を落とし、白々とした顔でなんとか笑みを作って返した。
(ま、まあ、そうね……こんなつまんないこと、聞きたくもないよね……フフフ……妹子ちゃん……たら……、でもさ、逆に、すがすがしい! 上辺だけ心配そうなふりされるより、よっぽどね……)
多少、自分の長くて重い独り語りが恥ずかしくなると共に、ガックリ落とした両肩が、なぜだかその肩が、軽くなってる事に気づいた。
リナは足取りも軽やかに、妹子の前に出た。
さあ気分を変えて、先へ進もう……っと、さらに一歩を出したときに……。
「幸せじゃん、リナ」
後ろから投げかけられた、その妹子の言葉。最初は、どういう意味なのか彼女には理解できなかった。意図を図りかね、どう受け取ればいいのか、分からなかった。
彼女は、自分の話を聞いていなかったから、そんな無責任なことを、適当な事を言ったのか? それとも何かの皮肉? あてこすりなのか?
リナは足を止めて振り向く。
妹子は真っ直ぐに見つめ返してくる。
「……」
「……」
リナは、台本のページをめくる定めの中で、おもむろに次の事を聞いた、口調は軽く。
「妹子ちゃんは? どんな家庭? 両親は?」
「小さい時、死んじゃったよ」
リナは……ショックを受けた。立ち眩みするほどに。
彼女の中で、全く予想外の事だった。
確かに、自分自身も父親を幼いころに無くしている……。だが……妹子のような裕福な……月詠学園の生徒のような非常に恵まれた人たちという、最上の階級に属するモノが、想像させる家庭像に、両親が存在しないというイメージを持つことが、これっぽっちも出来ていなかった。
(お金持ちって……、仕事の出来るスマートなお父さんがいて……家庭的なお母さんがいる…………そんなお家は稀だとしても……それがベースだと思ってた。そ、そうね……仕事熱心すぎて家庭に帰ってこない父親、母親もいるだろうし、華麗なる一族なりの悩みも沢山あるとは思うけど……)
まさか、両親ともにいないという事は……想像できていなかった。
(わたしは、どこまでぬけてるのよ、もう! ……なんて愚かな考えをしてたんだろう……。そうよ……ちょっと考えてみれば、当然ありえる。ホントに、今日はいったい幾つ、こんなひどい後悔ばかりの、どうしようもない行動をとってるの?)
目まぐるしい初日だったとはいえ、始まったばかりだという事に、愕然とした。
(……今日わたしはいったい何回間違った選択をした?)
「ごめんなさい」
リナは心からの謝罪で頭を下げて言った。
二人と一匹の足は完全に止まっている。
妹子はいつもの調子とは感じの違う、小声で話す。
「悲しくないよ……、もう…昔の事だから」
言うか言うまいか少し迷ったような間があった後、彼女は続ける。
「でも、でもね……」
彼女の大きな両目に、みるみる涙がたまる。
「…去年……にぃが死んじゃった時は……悲し…かった……」
黒猫が小さく鳴きながら体を摺り寄せる。妹子はしゃがんで抱き寄せた。
「あたし、独りぼっちになった」
ポロポロっと、涙のしずくが落ちた。
それがあまりにも、絵画的で、悲しみの塊のようで、世界中のすべての人々が涙することが禁じ得ない、パーフェクトなシーンに見えて……実際、リナの耳に、きっと空耳なのだろうが、嗚咽のような泣き声が聞こえたような気さえしてきた。
リナの心の奥へ、妹子のさっきの返事が突き刺さる。
「そんなこと言えて、幸せだね、あなたは」
つまらない事で言い合える幸せ、喧嘩ができる幸せ、うっとおしいと思える幸せ、そうどれもこれもすべて……生きていてこそ。
妹子にかける言葉はとうてい無いが、せめて近づいて、そっと手を肩に添えた、そうせずにはいられなかった、出来れば抱きしめてあげたかった。
この上なく、この小さな少女のことが愛おしく思えた。
「……でも、もう悲しくない、今は」
リナのその思いやりに、妹子は微笑みで答えると、顔を上げて、気丈にもそう言った。
「……だって……あたしは…もうひとりじゃないから」
少女のパッチリした目に、もう涙は無い! キラキラと輝くのは光。
「……あたしには、もう……」
黒猫がルビーの瞳をキラリと反射させ、答えるように「ニャア」と鳴く。
妹子はリナを真っ直ぐ見つめてる。
「今の、あたしには……」
リナは頷く。
「あたしには…」
(……新しい……友達が……できたから?)
妹子は胸を大きく張って、大地を踏みしめ、言った。
「だって、今のあたしには! 超お金があるのだ!」
ガハハハッ!!
愉快豪快な高笑いが響き渡る!
これが……関西の喜劇舞台ならば……リナはド派手にずっこけていた。間違いない。
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