第8話 門
二学期の始業式が行われる9月、平日の初日。
朝9時になる、ほんの数分前。
帝立月詠(テイリツ ツクヨミ)学園の関係車両用の駐車場へと続く、なだらかなスロープに面して、横にはしる道路に、歩道の縁石を乗り越えんかという勢いで一台のくすんだ黄色いタクシーが急ブレーキをかけて停車した。
速度がゼロになるとほぼ同時に、後部座席のドアが開き、勢いよく、小さな女の子と真黒な猫が飛び出した。
女の子は、プラチナで形成された繊維のようなキラキラの髪を、緩いポニーテールにリボンで結って、肩ほどで弾ませて駆けて行く。
猫は美しい漆黒の毛並みを波打たせながら、ネコ科特有のしなやかな筋肉の動きで、軽やかに付いて行く。魔法少女に付き従う使い魔のように。
彼女の名前は、美波羅 妹子(ビバラノ イモコ)れっきとした女子高生。月詠学園高等部二年生である。
横幅が車体の幅2台分ぐらい、滑り止めの縞模様が刻まれたコンクリート舗装の坂。そこを上って行くと30メートルほど先に、鉄製の門がある。
両側に門扉がスライドして開くタイプで、大きく開いていた。
門の方へ向かっていた妹子は、走るスピードを急に緩め、スケーターが優雅にターンするように後ろを振り返った。
タクシーからまた、女性が下りてくる。
黒髪のショートカットで、手足の長いスラっとしたスレンダーな少女、彼女もまた月詠学園の生徒で二年生、妹子とは同学年ということになる。
彼女の名前は、眞元(サナモト)リナ。大変失礼だが…先ほどの小学生でも通用しそうな妹子とは違って、こちらは十二分に女子高生に見える。
目的地に無事着いたタクシーの後部座席で、リナは足元に置いていた革製の鞄を持つと、開いたドアから足を外に出した態勢のまま運転手に声をかけた。
「あの……」
(9時まで、まだ1分以上残っている。時間は足りる、間に合うわ……)
少し言いにくそうに彼女は言葉をつづけた。
「料金……乗車料金は…いくらに…なりますか?」
運転手の男は、一瞬、血の気が引いたような顔になり、ビクッとした驚きを見せた。
「り、料金? ……ま、まさか……」
美波羅妹子という、自称? 超お金持ち少女によって、助手席に積まれたままの信じられない額の対価、300万円という札束に目が泳ぎ…行く。
(まさかこの娘、……いまさら、ここへきて……え? ……法外な料金を払う義務は無いでしょ…とかなんとか言ってっ、三百はあまりにも払いすぎだから返せ! とでも……言いやがる気じゃあ……ねえよなあ……)
焦る男の心の声を見抜いたかのように、彼女は続けた。
「ち、違うんです! わたしあまりタクシー使ったことないので、今回の場合、普通だとどれぐらいの運賃になるのか聞きたくて……」
「!? あ、ああ! そうか……メ、メーターを止めたからな……」
そう言いながら、安堵すると共に、彼女の最初の言葉に覚えた一瞬の感情。
ついさっきまで、お金じゃなく使命感でこの仕事を受けたんだと……確かにそう思ったはずなのに……実際に大金が目の前で消えちまう……、札束をこの小娘に取り返されるのでは? と思わされた瞬間に! 涌き出たドス黒い感情。
殺意とでも言えるぐらいの強い憎悪が、一瞬でも我が心を支配したことに慄いた。
(こ、こいつが……大金の力……心を狂わす、金の魔力……ってやつか?)
背中に吹き出る汗を感じながらも、なるべく心の焦りを悟られぬようにと、話を続けるが、果たして上手く行ったか、いくばくも自信が持てない。
「あ……そ、そうだな……初乗り運賃に……少し……上乗せて……え~っと、う~ん、せ、千円、そんなもんかな、ああ、イイや……それぐらいで」
実際にはもっと掛かったはずだが、彼の長年の経験をもってしても、ひどい動揺が勝って、それ以上、細かな計算がままならず、切りの良いところでサッサとこの件を終わらせたかった。
「そうですか、分かりました」
リナは頷き、答えながら、外に出た。
運転手は声をかける。
「ああ。時間ないぜっ、急ぎなよ、気を付けて!」
彼女は笑顔でかえす。
「運転手さん! どうもありがとう!」
リナは、顔を学園の門の方、先を行く妹子の方へ向けると、運動神経の良さが見て取れる、流れるようなランニングフォームで駆けて行った。
妹子は、すっかり立ち止まっていたが、リナが、どんくさい女子っぽくなく! こっちへ走ってくるのを見ると、ニコリと笑い、再び踵を返し門へダッシュした。
お世辞にもスラリとしたとは言えない、短い脚だが……一歩一歩が見事にスニーカーの踏み込みを反発させ、あまつさえ砂煙の衝撃波が見えるかのように、何か拳法の達人か? ニンジャを思わせる超加速で、シュッ、タッ、タッタッと走って行く。
さあ、これで二人は間に合った! 初日早々の遅刻という、大きな大きなドジを踏むことなく、無事に時間通りに、ホントにギリギリだが、とにかく学園内にたどり着いた!
…と、思った矢先。
ガガガガ……。
どうぞいらっしゃいませ、と大きく開いていたはずの門が……閉まって行く。
妹子の目の前で。
彼女は短い……おっと……短めの、…………平均からするとやや短いのでは? と思われる……方も中には……ちょっとぐらい、いるかもしれない足を、いやいや…もとい……可愛らしい脚を、前方に出し地面を踏みしめ、キキキとブレーキをかけた。
もともと5メートル以上あった鉄扉と鉄扉の隙間が、2メートルに、やがて1メートルになり……。
妹子は完全に歩みをストップした。隙間を抜けるようなそぶりも一切見せず、腕組みすると、不思議そうに首をかしげて門扉を見上げる。
隙間は50センチを切る。
タッタッ! タッタッ! ハァハァ、後方から聞こえて来る足音と息を吐く音。
ガッシャーン!
妹子の佇む傍に、リナが駆けつけた……が、すでに門は完全に閉じていた。
「ど、どうして!」
思わず出た、リナの声。
彼女は息を整える間も惜しんで、地面に置いた学生鞄から、素早くスマートフォンを出して時刻を見る。
「まだ9時になってない!」
パネルに表示されたデジタル時計は、8時59分過ぎを示していた。
門の横に、畳にして二枚ほどの広さをしたボックス状の詰め所がある。
そこには門番として、警備員の牛窪(ウシクボ)が待機していた。
身長は190センチを超え、肩幅の広く筋骨隆々、かなり体格の良いラガーマンといった風の、まさにガードマンに適した30代後半の男性。
この門を使用するのは、主に学校の関係者で自家用車での通勤を許可された者。時々、一部の生徒のスペシャルな保護者などの来訪時。後は、工事などを含め、学校設備のメンテナンスを行う業者の車両である。
生徒の徒歩による通用も禁止されてはいないが、最寄り駅からは遠くなるし、大概の送り迎えの車は正門の大きな道路で一時駐車するので、使う者はとても少ない。
本日は、すでに、予定されていた学園長と教師、理事たちの、通勤、出席は見届けており、彼は勤務規定通りに9時『一分前』に自動で門を閉じるためのボタンを押した。
牛窪は、真面目な門番らしく見張っていたので、当たり前のように、タクシーが前を横切る道路上で止まったのが、即座に分かった。
(ん? 今日は、この時間、他に来客はいなかったはずだが……)
月詠学園高等部の制服を着た生徒が、開かれたドアから飛び出す、それは比喩ではなく、カタパルトの発射台から放たれたグライダーのように!
牛窪の脳が、一瞬バグってしまう。いつもよく見ている、なじみの色とデザインの制服に、その制服を着ている人影が、ちんちくりんな少女という組み合わせの画が……処理しきれない。
両目を瞬き、軽く頭を振る。
(なんだ? 下の生徒か?? いやいや赤茶色じゃないし……、紺色だろ? それに中等の下級生にしても小さすぎる。……似た服を着た…誰かの親族か!? ん! …黒い影のようなモノも見えた気がする……。こりゃあ、まいったな……寝不足でも熱中症ってわけでも無いだろぉ? おいおい白昼夢でも見てるのか?)
白髪をキラキラさせて、弾むように坂を登ってくる。
それは人間の女の子というより敏捷な小動物の動き。
(へぇ~……確かに、心臓破りの急な坂ほどではないが、それでも、そんな早く駆け上がれるのは一流アスリート並みの脚力だぞ)
最初にわいた疑問は忘れ、思わず感心してしまう。彼も日ごろのトレーニングから、わずかな傾斜の違いで、思った以上に筋肉に負荷がかかることを知っていた。
間を置かず、もう一人、車から下りて来るのが見えた。
(ああ……やっぱり、学園の生徒か……おやおや、遅刻って訳ねぇ……。いや、しかし、ここで働き始めて、こんな展開は初めてだな……)
物事が牛窪の理解の範疇に収まりだしたことで、安堵感を覚えながら、二人目の女生徒に気を取られている隙に、ハヤテのごとく、先頭にいた小さな少女は門の前までたどり着いていた。
先ほど彼が開閉ボタンを操作したことで、機械式で動く鉄扉はもう閉まりかけていた。
彼女たちが、もしや無理やりにも、通り抜けようとして、万が一にも事故でも起こしては大事だと、警備員の大男はいそいそと詰所から出て、門の前に移動することにした。
(よしよし……ちっちゃな子はすっかり足を止めてる。心配ないだろうが……、まあ一応、最近の若い奴らは、何を思って、何をしでかすか……分かったもんじゃないからな……)
その小さな少女の近くまで、注意を促すような大声を上げる事無く、あえてゆったりとした歩みで進み。
(そうだ……驚かす必要はない)
鉄門扉を背後にして立った牛窪は、ふと閃いた。
さっきの黒い影の正体は、猫だ。
(猫ってヤツは、ちょっと目を放すとたちまち消えちまう)
少年のころ住んでいた港町に、よく野良猫がいた。
興味深そうな目でこちらを見つめるので、ついつい気を引かれてしまって、後を追っかけて路地裏を曲がると…とたんに居なくなってしまう。
(まったく、気ままに…何処に飛んでいっちゃうんだか? ……アイツらは)
この子もそう、一瞬目を放した隙に、もうあっという間にすぐ傍まで来ている。
(猫の妖怪か? あの一瞬は、黒猫が少女に化けた瞬間だったりしてな……フフフ)
牛窪の見せる顔は、冷静で生真面目な怒ったようにも見える表情だったが、心の中ではそんな愉快な想像で笑っていた。
もう一人の女生徒も、かなりのスピードで駆けあがって来た。
(だが……残念)
門が、仁王立ちの門番の後ろで完全に閉じた。
牛窪は、改めて奇妙な少女をしっかりと伺う。
知らない生徒。
とはいえ、牛窪とて、すべての生徒の名前と顔を把握している訳ではない。
正直、年のせいか……同じような少女の顔をそうそう覚えられない。悲しいかな、年々、男女問わず、アイドルの見分けもつかなくなってきていた。髪型なんぞを大きく変えられたら……、そうそう、イメチェンなんてされたらかなり厳しい。
(だが、断言できる。記憶しておくべき生徒の一人では…ない……)
覚えておくべき生徒とは、特別な便宜をはかるべき生徒、重要人物、学園におけるヒエラルキーの頂点のグループ、つまり生徒会の面々だ。
(特に生徒会役員の連中は……忘れようのない強烈な印象を、相対するこっちに刻む……何とも言えないオーラがある……子供だってのに……笑っちゃうが、事実……一度会ったら決して忘れないような生徒ばかりだ……)
牛窪はやや大きなジェスチャーで、腰に手を当て、門の前に佇む少女を見下ろす。こちらの事は全然見えていないのか、全く無視をしているのか、気にする素振りの全くない全く奇妙な少女。
彼は改めて思う。
覚えていないはずがない、こんな生徒はいなかったのではないか?
(髪の毛を白く染めてる? 良くは知らんが、脱色してるのか? ファンタジー小説なんかに出て来るエルフっていうのか? そんなファッションなのか? 夏休み明けで、心機一転……いや、休みの間に、すっかり悪い方にはっちゃけたか?)
月詠学園の校則に、髪の毛に関する規定は一切ない。
というか、校則という物自体が存在しない。
(手帳に明記された校則などない……ということだがな……)
牛窪は、中身を磨かずして外見だけを奇抜にして、少しでも注目を浴びたがるような人物は、あまり好きではなかった。
「フンっ~」
迷宮の門を守るミノタウロスのように、一度大きく鼻で息を吐いて、後から息を切らせて走って来た、もう一人の女生徒のほうに注意を向ける。こちらのショックを受けて呆然とした少女は、若干だが、見覚えがある気がする。
(……何かのスポーツ部のエースだったか? しかし、特別な生徒ではない……分類するならば一般……まあ、生徒を色分けするなんて、自分は好きではないが……仕方がない。会社の方針には従う)
少女の抗議の声に、冷静な声で、理由を付け加えることなくシンプルに答えた。
「規則ですから」
ジリリリ、リーン。
9時のチャイムが鳴り響く。
ラビリンスは閉ざされた。
リナは、青ざめた顔で……思い出した。
月詠学園において、時刻ぴったりというのは……もはやそれは遅刻。
少し前に来るのが常識、当たり前のマナー。
つまり、閉門時刻は1分前なのだ!
リナはとてつもなく後悔した。自分のうぬぼれに。
「妹子ちゃん……ごめん……わたし……」
彼女は、絶対間に合うと思っていた。タクシーを飛び出して、スロープの中ほどで待っている妹子を見た、あの時点でも…。
(! え、ドライバーさんとの話し……ちょっと時間かけすぎちゃった?)
思いのほか、妹子の居る位置が、遥か遠くだったので、計算以上に時間を使いすぎたかと少し焦った。
(ええ、大丈夫、時間はあるんだから、すぐに妹子ちゃんに追い付ける!)
大怪我も経験せず、毎日トレーニングをしていた昔の自分ほどではないが、脚力にはまだ自信があった。妹子の体型……正直、あの短いリーチを考えると、必ず追いつき抜き去ることも可能、そう確信していた。
リナは駆けあがる、最初は少々、足の古傷を気にして、8割程度の力で……。
妹子が再び門の方へ体を向け、進み始めるのが分かった。
(! あ、あれ? お、追いつけない??)
思ったほど距離が縮まらない事に気づき、すぐにおのずと全速力で、力の限りのダッシュをするが。
(……うそ…だ……)
結局、前を行く妹子の影を踏むことさえできなかった……最後まで。
「ハァハァ…ご、ごめん……わたしが、つまらないことで、遅れたせいで……」
リナは前傾姿勢で両ひざに手を置きながら、何とか呼吸を整えつつ妹子に謝った。
「ガハハッ! チッチッ、まったく問題無~し」
そう言って、息一つ乱すことなく、豪快な笑顔を見せ、彼女は人差し指と首を振る。
「あたしたちは、ちゃ~んと9時前にはついたんだから! このでっかいおっさんが入れてくれてたらセーフだったのだ」
妹子はここで初めて、自分の2倍はある巨大な門番の牛窪を、顎をくいっと上げ見上げた。
牛窪は、彼女たちの性質を……特にこの月詠学園に通うような生徒たちの大きな傾向を十分に理解していた。
それは簡単に言うと、大人を馬鹿にしている…という事。
もう少し細かく言えば、自分の様な取るに足らない学校の職員を。
(大金を払ったVIP客とか呼ばれる奴らが、接客人に対し完全に見下した態度をとる、お客様は神様だと、当然に思っている態度……いや……そもそも同じ空間に存在する人間だとも思っていないのかもしれない)
とは言え、彼はそれに対していちいち苛立つようなことは無い。
(こちらは規律通り……ルール通りに対応すればいい)
妹子は、自分たちの会話を聞いてはいても、何も言わず仏頂面で静かに立つだけのガードマンに、ひょいと近づき、腕を頭の後ろで組むと、石蹴りポーズの膝を延ばしたステップで、お遊戯の様に、ゆっくり、大男を中心にして回りだした。
彼は警戒した。
(ふぅー、本当に分からん……何をしでかすか? 何を考えているのか?)
突然、妹子が牛窪の大木のような太い片足に抱き着いた。
!!
「番人のおっちゃん~。おねげぇだぁ、開けてくだせぃ~、ウエ~ン~!……オイオイ」
父親の足にしがみついて、ワンワン泣きつく子供の様に、妹子があからさまなウルウルの涙目で、情けなく守衛の足にすがるようにして、泣き落とし作戦で頼み込む。
牛窪は心の内では、この予想もしなかった茶番劇、彼女のコントみたいな行動に、非常に戸惑いつつも、一切、相手のペースに乗せられまいと冷静を装い一言。
「出来ません」
そうして、少女の肩に手を置いて、体を引き離そうとした。まるで女子高生とは思えない外見と精神年齢! 小さなきかん坊のような妹子を。
が、そこに彼女の姿は無い。伸ばした手が空をつかむ。
「え?」
「じゃあ、さあ~、この門を登って勝手に入るならいい?」
敏捷な子ザルが、枝から枝へと飛び移ったのかと思うぐらいの軽やかさで、一瞬で体躯を反転させた妹子が、鉄扉の格子に掴まっていた。
一体どういう事だ? はたして自分は人間の子の相手をしてるのか? と思いつつ、その背後からの言葉に反応した牛窪も、体全体で、できうる限り素早く振り返り、門の方を向く。
少女はジャングルジムで楽しく遊ぶ子供みたいに、縦に並んだ鉄格子の棒をつかみ、2メートルほどの天辺付近まで移動している。
(まったく!! ほんとに! 何をしでかすか分からん!!)
牛窪はどうするべきか、これから自分が、どう行動するべきなのか迷った。
最善の方法は……無い。最悪のルートの中で、かろうじてマシな道を選び進むしかない。
(ここで彼女を止めずに、万が一、怪我を、それが、たとえ膝の擦り傷程度だったとしても、自分は叱責を受ける……間違いなく。……下手をすれば首が飛ぶ。……かと言って、無理やり捕まえて、力任せに降ろすことも、かなりのリスク。ふむ…………だが、そっちの方がましか……、監視カメラという客観的証拠もある)
ここまで、妹子の予測不可能な行動を、ただ見ているしかなかったリナだったが、門をよじ登って校内へ入る! などという、あまりの無謀さに、声が出る。
「妹子ちゃん! ダメ!」
ちょうど、リナの呼びかけと同じぐらいのタイミングで、警備員は自分のすべき仕事を果たすべく後ろから、妹子の制服の首の辺りの襟を掴む。
「くっ!」
牛窪は一声呻き声のようなものを漏らしはしたが、彼の腕力をもってすれば、十分に彼女の体重は軽い、そのまま片腕で妹子を掴み上げた。子猫をつまみ上げるように。
観念した妹子は、手足をだら~んと伸ばしたぬいぐるみ同然に、牛窪の腕でリナの横へと運ばれる。
妙な事だが、そうしながらも彼は、自らの行動をいま一度プレイバックするように思い返し、何か……えも知れない不安を抱いていた。
それは何も直接、相手の体に手をかけたことが、この少女たち、月詠学園の女生徒たちから、セクハラや、体罰などという言いがかりで訴えられるのではと、危惧したのではない。
それは、少年時代の記憶……カブトムシ。
(なぜだ……カブトムシを捕まえた時の記憶が、ふと蘇った……なぜだ? あの自分の手のひらに収まるような小さな昆虫が……そう……樹にとまっていて……)
牛窪はすっかり手を放し、放された妹子はリナに向かって照れた顔を見せている。
「動かない」
彼の思いは口を飛び出し、小さく呟いていた。
(カブトムシは動かない……ガシッと樹の肌に爪を立て、しがみ付いているので、取れない……子供の自分には、全くの予想外……小さな体からイメージできなかった……昆虫という生物の力強さ……)
動かない。
この少女を、捕まえ…引っ張った瞬間……まさか! ビクともしなかったのでは?!
まさか? 動かない??
そう、まるで彼女の両手両足が、鉄格子に溶接されていたかのように……動かなかったのでは?
下にいるもう一人の少女が声を掛けなかったら……もし……あのまま引っ張っていたら……。
牛窪は、自分の手のひらを見つめるのをやめ。
(え、何をぼぅっとしているんだ自分は……)
姿勢を正すと、一度唾を軽く飲み込み、言った。
「正門に回って、通行口の職員に身分証を提示し理由を述べて、入園を許可してもらってください」
守衛としての仕事を全うする。彼女たちのお遊びにも、同情を誘おうとする頼みにも全く応じる気配なし、という態度を貫く。
牛窪の最後通告とも取れるセリフを聞いた妹子は、片側の口角を上げニヤリとした。
「あっそう……。いいんだ……こんなか弱い乙女たちのお願いを、冷たく無視しちゃって……へぇ……じゃあ……こっちも最後の手段を使っちゃおうかなぁ……」
リナは気づいた! 彼女のその、めっちゃ楽しい悪戯を思いついたような顔つきと態度を見て。
これは、非常に、不味いことになると。
美波里妹子は、また使う気だ! 大金を、恐ろしいマネーの力を使ってこの場を覆す気だ。
(妹子ちゃん! そ、それはダメ、学園の関係者に賄賂なんてやり方をしたら、絶対にダメ……それこそ、即退学させられちゃう!)
彼女は心の中で叫ぶ!
(一日も通ってないのに~!!)
「い、妹子ちゃん!」
慌ててリナは正面で向き合うように立つと、妹子の両肩にそっと手を置き、やや口の端が引きつっていたかもしれないが、満面の笑みで語りかけた。
姉が妹に何とか言い聞かす様。
「もう…門を登ったりとか……飛び越えたり! とかは無しにして……あはは……守衛さんの言う通りに、正門へ行きましょうよ! ねえ、……ちょっとお話でもしながら、ゆっくりゆっくり、歩いて、回って行こう……」
妹子は、ハリウッド映画の子役っぽくチョコンとキュートに肩をすくめると一言。
「そう、いいよ、行こ」
思いのほか素直に姉の提案に乗った。
リナは軽く牛窪に会釈すると、こころもち速足で、犯行現場を去るかのように……二人そろって坂道を下って行った。
やがて角を曲がり歩道を歩いて行く、正門に向かって。
嵐の去った後の静けさか……。牛窪は姿勢正しい佇まいとは裏腹に、見るともなく呆然と彼女たちを見送っていたが、姿が見えなくなると、催眠が解け、頭が回転し始める。
(自分は……もしかしたら、とんでもないミスをしでかしたかもしれん)
男は暗い表情で、やや窮屈な詰め所のドアを開けて、軽く背を屈め中に入ると内線電話に手を伸ばした。
「あ、もしもし、警備員の牛窪です……少しお聞きしたいのですが」
事務室の方へ問い合わせの電話をした。
「今日、予定外の来客は、確かに、ありませんでしたよね」
ちょうどベテランの女性事務員が電話を受けていて、彼の疑問に答えてくれた。
「はい、予定以外は入っていませんね、どうかしましたか?」
「ええ、まあ。あまり来ることの無い……生徒が二人、こちらの門から通学なされようとしまして……ただ時刻が、ちょうど期限、9時を過ぎるところで」
「フフ、遅刻の生徒さんが、そっちへ行ったという訳ですね」
そんなの別に気にする事案ではないでしょ、と言わんばかりのトーンで答える事務員。
牛窪はその彼女の軽い受け取りに、やっぱり自分の思い過ごしかと、多少安心感を覚えたが、妹子の奇妙な雰囲気が頭をよぎり、もう少し念を押すことにした。
「そうなんですが……、あの……珍しい、変わった……いや…非常にユニークな生徒でして……特別……といいますか……私には見覚えのない生徒で……」
守衛の、どうも煮え切らないその言葉を聞きながら、事務員は、ふと思い当たることに気が付いた。
(そういえば……今日……転校生が来る……珍しく、滅多に無いこの時期に転入者が…………もしかして)
「少々お待ちください」
そう言って、目の前の端末を操作する。
(…………)
「……」
「もしかして……この生徒さん……でしょうか。そちらのモニターに顔写真を転送しますので、ご覧ください」
牛窪は、嫌な予感をひしひしと感じつつ、了解しましたと言って、備え付けのモニターに目をやる。
画面に映っているのは……この状況を、男の置かれた状況を分かった上で撮られたのではないか? と勘繰りたくなるような、グサッと心に刺さる写真。
(! ま、間違いない……彼女だ)
暗い、重苦しい気持ちそのままに返答する警備員の男。
「は、はい。…そうです…こちらの生徒さん……だと思います」
相手の大きなため息が聞こえた。
「ふぅ、彼女は、美波羅、妹子さん。本日から高等部に通われる転校生です……」
事務員は、目の前のモニターに映し出されている生徒のデータを見ながら、牛窪に話している。彼の今後を思うと……少し口が重くなる。
データには、名前や年齢、住所等をはじめとして基本情報が書かれている。それらは重要ではあるが良くある平凡な情報。
では、そうではない情報とは? おそらく他校で存在することが極めて稀有な項目として、月詠学園の生徒ファイルには、ランクというステータスがあった。
彼女のファイルに記されていたのは……。
『AAA』
トリプルエー。
ベテランの事務員でなくとも、この項目の重要性は痛いほど知っている。
一般の生徒につけられるのが、『A』若しくは『B』……言ってしまえば数合わせに過ぎない生徒。非常に非常識な失礼極まる事かもしれないが、甘んじて受け止めてほしい。だって、この月詠学園の生徒だということ自体が、それだけでハイステータス、一般社会に出れば、箔が付く素晴らしい経歴なのだから。
(裏を返せば、通う生徒達すべてのレベルが高いともいえますわね……)
さて続いて、上位20パーセントぐらいの生徒、庶民から見れば雲の上のお金持ちたち、彼らのランクが『AA』通称ダブル。
このランクの生徒には、注意をして取り計らわなければならない。
最後に、ごく僅かの生徒に付けられたランクがトリプルエー。生徒会員の一部、生徒会役員……そして、生徒会長。
彼らに対し、どうすべきかは、月詠学園にかかわる職員にとって明白。
事務員は、牛窪に告げた。
「牛窪さん……指摘通り、彼女は……『特別』です。言ってる意味はおわかりでしょう……残念ですが、もしかすると、後に……何かご連絡が行くかもしれません」
間違いなく行くだろう……、画面に表示されたある一文から目を放せずに事務員の女は思った。
ファイルには追記欄がある。
そこに……学園理事長の記入だと思われる一文。
『AAA++(つまりS級、待遇でよろしくお願い致します)』
今までに見たことの無い……ランクだった。
受話器を戻し、詰め所の椅子にどっしりと腰を下ろした警備員。
「ふっ、首か……」
一時の間、この世の終わりかと思えるような落ち込みだったが、妹子たちへの対応を思い返しながら、生来の性格もあってか、怒りより反省が先立つ。
(自分は……ここの生徒たちが大人を見下していると思っていた。多分、多くの生徒は事実そうだろう……だけど……何のことも無い、自分も一部の生徒以外を……見下していた)
牛窪に落ち度は無い、公平に見ればそう言える。こんなことで、こんな理不尽なことで解雇されるなど、労働基準法上問題になるはずだ! 確かに正義に照らせばそうだろう。
だが、現実、正義がまかり通る世界ばかりではないことを彼は知っている。
(先入観にとらわれず、確認を取るべきだった。そうだな……規則も大事だが……ちょっとは、相手のことを思いやり、譲歩すべきだったかもしれない……。ふぅ…悔しいが……自分のミスだ)
今のところ実際に、まだ面と向かって首を言い渡されたわけでも無いので、彼に怒りの感情は湧いてはいない。
この後、本当に解雇されたり、もっと待遇の悪い所へ配置転換されたりすれば、その時初めて怒りが込み上げてくるのだろうか?
(少女の気まぐれ一つで、首を切られるとはね……)
妹子の強烈な印象を残す、さっき見た証明写真を思い浮かべ、笑ってしまう。
(ハハハッ……全くなんてことだ……。でもまあ…どうだろう? どちらかというと自分はネコ派だ……気まぐれに翻弄されるのも悪くないか……)
そう、彼はネコ好きだった。
そしてその後。
会社から暇を言い渡されることなく、定年退職まで無事に仕事をやり遂げた。
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