第6話 札束

 タクシードライバーは行く。

 アクセルペダルを踏みながら、リズミカルなギアチェンジで、滞りなくローからハイへ上げていく。


 妹子(イモコ)とリナを乗せた、黄色いセダン車は滑るようにギュンッ! っと加速して、即座に法定速度に、たどり着いた。

 ただ彼女たちが、二学期始業式の開始時間内に、たどり着くには、残された7分ほどで5キロ弱を走破しなければならない。


 運転手の男、寅平(トラベ)はアクセルをさらに踏み込む。


 「分かってると思うけど、始まるのが9時だから、それまでに、無事に着くのだ~!」


 後部座席から屈託のない笑顔でかけてくる、妹子の言葉に、ドライバーはデジタルパネルの時計をさっと確認し無言で頷く。


 速度計はグンと上がる、早くもこの片側2車線道路の制限速度は越えた。


 (分かっています。速度違反? オッケ~オッケ~……もはや減点や罰金なんて関係ない……免停上等! ……時間内に、たどり着けるなら、映画バリのカーアクションで、追ってくるパトカーどもを振り切ってでも、着いて見せますよっ!)

 

 クーラーの利いた車内のはずだが、一筋の汗が、こめかみから頬をツゥーっとつたう。


 彼は悟る。

 これは……今まで培ってきたすべてのドライビングテクニックと、頭のてっぺんからつま先まで、すべての神経を総動員して、運転に集中しなければならない!

 つまりそれは、急な峠道をハイスピードで下りながら、繊細な絹ごし豆腐を運ぶ如くである!


 寅平は冷静に、経験豊富なドライバーとしての脳領域で計算し、目的地までのコースをシミュレーションする。

 (朝の通勤時だが、今日は幸い交通量が少ない! これはありがたい。……ただ、この先のエリアに入ってくと……おそらく十中八九、混んでくるのは間違いない)


 ハンドルを握る汗ばんだ両手に力が入る。

 (仮に時速100キロで、1分間に移動できるのは…だいたい1.6キロメートル。学校まで約4.5キロ。大丈夫……3分あれば行ける計算だ……余裕余裕)


 もちろんのこと。100キロ以上のスピードで、すべての道のりを進める訳ではないのは承知の上で、彼は考えている。


 目まぐるしく眼球を動かし、視野に入ってくる情報を処理していく。


 「おぉっ、神様~サンキュー! 信号がいい具合に青になるじゃねぇか!」

 推しはかったように、進行方向の信号が変わるのを見て、ニヤリとしながら呟く。


 寅平は、とてつもない幸運、フィーバータイムに包まれているかのような、研ぎ澄まされたゾーンに入った感覚を覚え、心に多少ゆとりというものが生まれてくる。


 となると……、助手席に重なった札束、車体の加速にともなう慣性の力によって、背もたれの方にずれて行ってる3つの束に、ちらりと目が行く。


 (……!! ま、まさか…偽札じゃあねぇよな!? ……いやいや、そんなことは無い、そんなもん束にしてわざわざ持ち歩くって可能性の方が、めちゃくちゃ低いだろ…………?! コピーか? 精巧にできた玩具のおカネか!? ……まさか…俺……騙され……)


 今度は、バックミラー越しに、ファンタジー世界から転生でもしてきたような、プラチナブロンドヘアーの奇妙な少女、妹子をちらりと見る。


 一瞬、あの透き通るような瞳と、それにシンクロする彼女に抱かれた真黒なネコの両目、合わせて四眼がギラリと紅の光放ち、こっちを射抜いて来た気がして、ゾッとする。


 (おい……もう足、踏み入れちまった以上……余計なことは考えんな……集中だ)


 そう思い直した時……ふと彼は、唐突にあることを想起した。



 寅平の愛読書に『グラップラー・バキ』という格闘小説がある。

 グラップラーとは格闘技のスタイルの事で、分かりやすく言えば、主に投げたり絞めたりする柔道の様なイメージである。バキというのが主人公の名前……。


 その物語には、数々の達人たち、桁外れの強さを持つキャラクターが登場するのだが……、中でも、彼にとって印象深い登場人物に、ヤクザの少年がいた。


 なんと、その少年は中学生で武闘派暴力団の組長。

 その座は、後継ぎのお飾りなんかで得たのではない。とても10代とは思えない、震えあがるような、ごつい体格…身長190センチ体重160キロと、恐ろしいまでの肝の座った精神の持ち主。いわゆる素手の喧嘩のプロ、鬼なのだ。


 言うまでも無く、これはフィクションであって、現実にこんな人間はいない。


 だけれど、彼の30年ほどの運転手としての歴史、経験の中で、数名ながら、そんな雰囲気を感じさせる客がいたのも事実。

 ストリートギャングや暴走族や愚連隊の様な不良少年だったというのではない、外見はいたって普通の小中学生なのだが、交わす会話の節々や、佇まいに、強烈な圧、オーラを感じて、こちらがごく自然に、おのずと敬うような低姿勢になるのだ。


 (彼女は…そんな類の人種だ……)

 

 再びバックミラーに目をやり、後ろの道路を確認、続けて前方、遠くを見渡す。


 相変わらず、ありがたいことに、まだ道は混んではいない。近距離に存在する交通車両と言えば、隣車線やや後方に黒いレーシングスーツに身を包んだライダーの乗る黒い大型バイクが一台続いている程度。


 汚い警察が巧妙にネズミ捕りでも張っていなければ大丈夫、行ける。ギリギリだが行ける。寅平には、このミッションを必ず成功させ、ものにするという自信があった。




 後部座席に、黙って座っているもう一人の女子高生、眞元(サナモト)リナは運転手に怒鳴られた事で、少なからず動揺していた。


 幼いころに父親を亡くしたこともあり、大人の男性に面と向かって叱られた経験が乏しかったからだ。

 さらに言えば、この事だけでなく、今朝を思い返しても、あまりにもジェットコースター的な展開過ぎて訳が分からなくなってきた。


 (待て待て……一度、深呼吸だ)


 胸に手を当て、瞳を閉じる。


 「ふぅ~」


 (と、とりあえず……わたし、最初の……すべきことは……)


 ゆっくり目を開け……気を落ち着かせながら、布張りのリアシートの横隣を……見る。

 当然、幻や空想ではない。実在し、シートベルトを締めて大人しく座っている、自分と同じ学校の制服を着た同級生、美波羅(ビバラノ)妹子を観察する。


 今、妹子は彼女自身の両ひざに堂々と乗った美しい黒猫の頭を、片手で優しくなでながら、窓の外を静かに見つめていた。


 「い、妹子ちゃん?」


 「ん? 何」


 「あ、あの……」


 (言いにくい…けど、きちんと……しなきゃ)



 「た、タクシー代! …………なんだけど」


 キョトンとする妹子。

 「?」


 「わ、割り勘……かなぁ? って、そうなるのかなぁと思っていたんだけど……」


 気まずくて顔が赤くなり、目も伏せがちになるリナ。

 「あ、あのね……」


 ポケットから、年季の入った赤茶色の小さながま口の財布を出して、開ける。

 折りたたまれた千円札一枚と、500円玉一枚、小銭が数枚ぽっち。

 おしゃれ感ゼロの小銭入れ……これもまた恥ずかしいが仕方がない……主に店の手伝いの、お使いで使っている物なのだから。


 「わたし、これだけしか持ってないの!」


 クレジットカードはおろか、電子マネーの類にも彼女には縁がなかった。


 ついさっきの妹子と運転手のやり取り、リナにとって、あまりに非現実的な出来事で、正直、実感が湧いてこないというのが、今の心境なのだが……。



 妹子が、テレビドラマや映画でしか見たことない、帯封をされた札束を3つ渡した……ように見えた。


 (そ、それは、つまり……100万円の束、1万円が百枚集まったモノ……それを三つ、100かける3、……言い換えれば……、100足す100足す100、100万円を三回足すってこと…………え~いっ! なっ、何をいってるの? 当たり前なことを……)


 つまりは、300万円を…文字通り、ポンと払ったという事だ!

 もう少し正確を期すと…ポンポンポンッと。


 300万円。

 缶ジュースを買うため、自動販売機に投入するかの300円ではない!!



 そ、そ、そうなると……半分、割り勘という公平なルールで導き出される金額は……。


 ひっ、150万!


 一生かかっても払えないとは……言いすぎだが、そんな大金を返すために一体何年アルバイトをすればいいのだ。


 もちろん妹子が勝手に払ったと言えばそれまでだが……。


 彼女にとって、これは最初に解決しておかねばならない最重要課題だった。




 「ぷっ」

 美波羅妹子はリナの出した手元を見て、吹き出すように笑った。


 嫌味のない純粋な反応だったとしても甚だ失礼だが、リナは笑われたことに対して何の怒りの感情も無い。


 「ちっこくて、めちゃかわいいじゃん、その財布」

 それだけ言って、また窓の外を見る。



 「そ、そうじゃなくって、お金……」


 妹子は、窓の外を見たまま答える。

 「あぁ……言ってなかったっけ? あたし……超お金持ちだって……」


 「?」


 ゆったりとした動作で、彼女は、肘をドアの突起部に載せて、頬杖を突き、小首をかしげてこっちを見る。

 窓から差す光で、遅れ毛やはねた癖毛がキラキラ輝き、神々しさを醸し出す反面、なんとなく、部屋の隅っこで、ふてくされた小さな子を思わせる。


 「ふぅ~…リナ……一度だけ言っとくぜぃ」


 リナはうなずく、神妙に。


 「例えば、こうして一緒に車に乗ったときにさぁあ。……あ、すんません、ちょっと、そちらの方の空気も吸わせて頂きまして……。な~んて断ったりして、遠慮する?」


 「???」


 「分かんないかなぁ? あたしがナンかお金使ったりするとき、ついでに誰かの分を払ったりすることがあったって、その程度なの……。誰かが、ただ単に、あたしのまわりの空気を吸った程度……以下なの」


 「……」


 「ようするに、気にするなってことだぜぃ。……友達なら、なおさらなのだ」


 呼応するように、黒猫も鳴く。


 「……ニャ」




 数百万の出費など、そこら辺の空気のようなもの?!

 実際の美波羅家の所有財産が、どの程度なのか知る由もなかったが、これがいわゆる億万長者の感覚なのか?

 湯水の如くお金を使うという、比喩表現もあるが、そんなものなのだろうか?


 リナは言葉に詰まったまま、妹子をただただ正視する。


 (……待って……もしかしたら)


 逆に、この態度は……ハッタリ……虚栄、未熟な子供が愚かな背伸びをして、友達……仲間……、はたまた、お金や地位に近寄ってくる取り巻き達に、イイ恰好を見せたいが為に図らずもやってしまっているだけなのではないか?


 本当は、それほど持ち合わせがないにもかかわらず、必死に繕って平気を装っているだけではないのか? そうだ、この子は、内緒で勝手に親の金を盗んで持ち出してるんじゃあないか!


 (……違う……)


 リナは理解した。なぜかは説明できないが分かった。

 誰かの気を引くためだとか、無理をしてだとか、妹子にそんな気持ちは微塵もない。

 彼女にとってその言いぐさ通り、取るに足らないものなのだ。


 自分の中で、美波羅妹子という存在をそう理解しつつも、湧き出る好奇心から尋ねた。


 「妹子ちゃんは……いつも、そんな風に持ち歩いてるの……」


 「?」


 「クレジットカードとか? じゃなくて……そんな沢山の現金って危なくない?」


 ちっちゃな手を口元に当てて、少し照れ臭そうに答える妹子。

 「グフフフ……、ばれちった。ああ、正直言っちゃうと……たまたまだぜぃ。ガハハ」


 「ニャ~ニャ……」


 黒猫の咽喉をくすぐりながら、リナの疑問に答え続ける妹子。


 「あ~この前……、ATM、知ってるか? ……お金がいくらでも出てくるマシーンがあるでしょっ」


 ちょっと違うような気もしたけれど、話の腰を折るのも何なので首を縦に振るリナ。


 ATM……言わずもがなかもしれないが、現金自動預け払い機の事で、銀行以外にもコンビニエンスストアや駅、様々な場所に置いてある現金の取引に非常に便利な機械。

 妹子が言っているのも、紛れもなくこの機械の事である。


 「そいつが、リニューアルして、性能アップしたってんで、練習がてら出してみたんだぜぃ。そんで入れ直すのも、メンド~だから……仕方なしに、ポケットに突っ込んでた……」


 「スカートに入れたまま? 今日、登校してきたの……」


 「そう、あたしだって、こんなごわごわじゃまなモン、いつも持ち歩かないぜぃ! チッチッチッ、現金は必要な時に近くのATMから取ってくるぜぃ、当たり前なのだ!」


 そんなこと常識とばかりにそう言って、かわいい幼稚園児っぽく腕を組んで、ちょいと偉そうにする妹子。


 現金を銀行口座からおろして来るとは言わないで、取ってくるというあたりが、少しおかしいが、彼女特有の? お金持ちの感覚なのだろう……。


 (そっか……そう言えば最近この辺り、すごくATMが増えて便利になったなぁ……ん? あれ……カード無しで、お金って引き出せたっけ……、スマホかな? ああ! 高額預金者専用の何か生体認証があるんだ……う~ん……たぶん)


 自分がこの界隈の進化、時代に追い付けていないのか、それとも、やっぱりお金持ちには彼らの中での当たり前があるのか……リナには判別しがたがったが、妹子の特殊さの一端は何となく見えてきた気がした。


 (妹子ちゃんって……不思議……)




 こうして数分。少女たちが奇妙な会話を交わす内にも、タクシーは快調に飛ばし、みるみるゴールとの距離を詰めている。


 月詠(ツクヨミ)学園の始業式に間に合う為の、彼女たちのタイムリミットレースが、いよいよ終盤に差し掛かっている……。



 妹子は、焦りの『あ』の字も顔に見せず、全く涼しい顔で乗っている。


 リナは、少し落ち着きを取り戻すと共に、残り時間が俄然気になってくる。


 黒猫は、「ゴロゴロッ」と気持ちよさげに喉を鳴らし、当たり前だがしゃべらない。


 寅平は、ドライブコースに目を凝らし、死んでも事故る訳にはいかぬとばかりにハンドルを握る。



 デジタル時計は『8:55:55』を表示する。



 (良し、行ける! 間一髪ってヤツだが俺はやり遂げた!)


 車体は飛ぶように道路を進む、最後の登り……当たり前のように、歴史ある超一流の月詠学園はこの辺りの土地で小高い場所にある、つまり低い埋め立て地などでは無い、頑丈な地盤の一等地。


 この坂を登りきれば、残り1キロも無いだろう、マラソンで言えば最後のトラックに入ったも同然。そこはもうゴール目前の安全地帯だ。


 本当に運よく、筋書き通りに。


 何もかも計算通りに。



 ……行かないのが世の常。


 タクシードライバー寅平は何かを素早く察し、強くブレーキを踏んだ。

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