第5話 タクシー


 セダン型のくすんだ黄色いタクシーが陽気な男性客を降ろした。駅までは行かずに、そこへと向かう近くの道路脇にて……。


 運転手の男は、首を一回りさせ、ハンドルを握ったまま肩を数回まわし、コリを和らげると、ダッシュボードのデジタル時計に目をやった。


 『8:50:34』


 「ふぁぁ~。もうすぐ9時か……」


 軽いあくびをした、この気だるそうなタクシードライバーの名前は、寅平(トラベ)。

 昨今のプライバシー配慮等という観点から、車内に乗務員名札の提示もないため、乗客が知ることはないかもしれない。


 「さて、どうするか…特にセンターからの指示もないし、このまま駅へ向かうかなぁ」


 年は50過ぎ、高校を卒業してからドライバーを始めて、その道一筋、30年は経とうとするベテランだった。


 アクセルを踏み、緩やかにスピードを上げながら道を進めると……十メートルも進まない前方に、どうやら客らしき人影があるのを目ざとく見つけた。



 寅平は、おしなべれば、模範的、比較的…良心的な運転手と言えるだろうが、それでも車を止めるのをしばし躊躇した。


 (おいおい……、どうする、無視して駅へ行った方がコスパ良いんじゃねぇか?)


 さすがの彼もその時には、傍に猫も居たことには気づけなかったが……、呼び止めようとしているのは、二人連れの子供だけの客、さらに、制服から近くの月詠(ツクヨミ)学園の生徒だとはすぐ分かった。

 

 (あそこの連中は……どうも気に入らない、あからさまに態度が悪いわけではないが……、なンか鼻持ちならない)


 「ちっ、近距離客のゴミだ、どうせそこの学校まで送るだけ……」


 このまますっと通り過ぎて、当初の予定通り、目と鼻の先の駅のタクシー乗り場で、順番待ちでもする方が、無駄なく良い乗客=長距離客をつかめる確率が高いはずだ。


 この僅かな間、彼の頭の中では、パチパチとソロバンが弾かれる。

 (う~ん……どうする? 俺みたいなモンとは違う……いけすかねぇ人種って奴らが通う、お嬢様学校だが……。くそぉ、まあなぁ……金持ちばかりなのも、また事実。はぁ~あ、多少のチップも期待できるか? …………できねぇな)


 彼はうんざりと思い出す。


 昔と違って今や、大体がカード払い、電子マネー払い。

 わざわざチップを上乗せする手間なんてかけるはずもない。


 そういえば、先月だったか先々月だったか? ちょうど男子生徒のグループを乗せ、運賃清算の際に「釣りはいらない」と言って、めずらしく現金で札を渡されたが……。


 「おいおい、坊やが気取ってんじゃねぇ、お釣りっつっても百円ぽっちも無かったじゃあねええか~」

 もちろん。

 髪の毛ばかりを気にしていた気取った坊主に、面と向かって、その場で言った台詞ではない。

 彼の心の叫びだ。



 「……とは言ってもよぉ、チェッ!」

 男は最後に、大きく舌打ちして口をつぐむと……。


 歩道に車を寄せ止めた。


 結局、少額だろうが、まずは目の前の現金。


 (朝のこの時間だ、たぶんその先の道は混む。ちょいとゆっくり走って、上手いこと赤信号につかまりゃ……渋滞にもハマるかもな……時間分もプラスαだ、へっ、昼飯にジュース代ぐらいにゃなるだろう……)




 高確率遅刻確定組女学生御一行が、寅平のタクシーに乗った時、始業式開始時刻の午前9時まで、9分を切っていた。


 「ニャニャニャ?」


 後部座席中央に座った、毛並みの大変美しい黒猫が、深い色合いのルビーみたいなレッドアイズをキラキラさせながら、首をかしげ、御一行の一人、眞元(サナモト)リナを見つめ返す。


 「ア、ハハハ…」


 すぐ隣に腰を下ろした彼女は、変な汗が出てくるのを感じながら、ただただ、ぎこちなく笑うしかなかった。


 (そ、そんなわけない……そんなわけ……)


 「……ね、ネコがしゃべるなんて……」


 (……幻聴かな……わ、わたし……疲れてる? うん……疲れてる……絶対、疲れてる………………)


 兎にも角にも、ひとまず無事にタクシーに乗り込んだ二人と一匹。




 運転手が振り向くことなくバックミラー越しに、例の決まり台詞を、こころもち…やや不愛想に言った。


 「どちらまで?」


 そう言ったと同時に、彼はすでに乗り込んでいた黒猫に気が付く。


 「ち、ちょっと、お客さん、ペットはキャリーかなんかに入れてくれないと、ダメなんですけどね!」


 美波羅妹子(ビバラノ イモコ)は、ドライバーの注意を促す言葉を無視したのか、聞こえていなかったのか。


 「月詠学園いってちょ」


 (そりゃそうだろうよ、あんたらは…………)


 そう思いながら寅平は少女の姿を、ミラー越しではなく、振り返ってあらためて実際に肉眼で見た。


 (! ん? 何かのコスプレって奴か?)

 髪の毛を奇抜に染めただけの日本人の子供なのだろうか? かと言って西洋人とも何か違う、異様な雰囲気を醸し出す妹子を前に、思わず次の言葉にちょっと詰まってしまう。


 「……お、お嬢ちゃん……、…………あ、あの…ね、ネコちゃんはダメなの」


 「お金ならある」


 今までしごく冷静だったし、多分に嫌な態度をあからさまに見せてくる客にも、常に冷静さを忘れてこなかったつもりの彼だったが……、妙なガキに、上から目線でこんな事を言われたからなのか分からないが、謎の角度から無性に腹が立ってきた。


 「は、はぁ?」


 隣に座るリナは、まだ頭の中が整理しきれなくて自分の事で手一杯。

 助手席の背もたれの後ろを、ぼぅ~っと見つめたまま、だんだんと車内に漂い始めた険悪な状況をいまいち理解できる状態にない。


 「お金ならいくらでも出すから…ほら早く、学校まで行ってちょうだい」


 プラチナヘアーのちっちゃな少女は、どこかの女帝をも思わせる感じで、座席に深く座ると、体を摺り寄せる黒猫の頭を優しくなでながら言った。



 口を一文字につぐむ運転手の頬に赤みがさし始め……。

 「……」


 ポッと火がついてしまった。

 「……あんまり、大人を……なめるんじゃないよ……」


 相手がクソ生意気な子供とは言え、お客様に道徳的お説教などとは、ご法度だ。

 だが……今となっては口が止まらない。


 「おいおいお嬢ちゃん。世の中、何でもお金で解決する訳じゃあないんだから、え? しかも、はぁ? 親からもらった小遣い程度で? いい気になって……何もすごくないよ、分かる? お金ならある? ああ? 何様のつもりでしょうか?」


 (こんなわがまま放題育ったガキ! 親の力を自分の力だと勘違いした世間知らず。ここはきっちりと、まともな大人がガツンと言ってやらねばならん!)


 「そんな、たかが一万二万もらったってねぇ、え? 笑っちゃうよ、そんな、はした金程度で、……いいかい? このおじさんはねぇ……へいこらしないよ、長年、この腕一本で車を転がしてきたプライドっつうモンがね……ある……」



 リナが、やっと……なんとなく、この嫌~な雰囲気に気が付く。


 「ね、ねえ? 妹子ちゃん、下りる?」


 その何気ない言葉、何の意図もない、その一言が、寅平の怒りの地雷を踏んだ。


 (は? じゃあ~下りるだぁ? うだうだうるせぇこと言うんなら降りりゃあいいだろってか! キモイじじぃの説教なんざ御免こうむるってぇ? はぁあ?!)


 ドライバーを下僕の如く完全に見下し、当たり前のように挨拶など一切せず、無視した態度をずーっと取り続けている、年上らしい少女。

 彼はリナの今置かれているメンタルに、当然、考え及ぶことなどなく、表面的な仕草のみをひどく勘違いして、そう受け止めていた。


 リナを血走った目で睨みつけ、声高に言った。

 「ああ! 降りろ! さっさと出ていけ!」


 吐き捨てると、キッっと正面に向き直り、基本姿勢でハンドルに向き合う。


 後部の自動ドアを操作し……開けようとする。



 せっかく幸運にも、否、奇跡的にも手に入れた、ゴールへの最後のルート。

 遅刻を辛うじて、免れるかもしれなかった、彼女たちにとっての最後の手段が……ああ! 無念……ここで潰えるのか?



 ドサッ!


 (お前らみたいな…生意気な小金持ちの小娘に……)


 ドサッ! 助手席に聞きなれない音がする。


 (……クソ…ガキなんぞに)


 ドサッ。


 (……カネで……ああ、そうだ、俗に言う、札たばで……)


 『札束で頬を叩くような真似は、絶対この俺は許さない』……その言葉、彼の口からは出なかった。



 「それで3人分。ダメなら下りる……時間ないから早く決めるのだ」


 寅平は、首がちぎれるのではと思うぐらいに後ろを振り返り、その言葉の主を見つめた。


 「9時までに、あたしたちを学校まで連れて行くの?」


 澄んだ瞳。まさにその言葉がふさわしい、見つめると吸い込まれる瞳。


 「行けないの?」


 何か心の奥の大切なモノを捕らえられるような、魅惑の紅い水晶玉に見入っていると、馬鹿みたいに熱くなっていた体内の熱が引いていく。


 ある意味で最後の言葉を彼は聞いた。



 「……あんたの言う通り、お金はどうでもいいの。やるのか…やらないのか……それだけ」


 タクシー運転手の見開いた両目が、隣のシートに投げ入れられた強烈な物体に釘付けになり、……頭の中で、今、目の前で起きている常識外れの現象が、だんだん明確に解析されるにつれ……、えも言われぬ、止めようもない笑みが漏れ出てくる。



 助手席の三体、300万円を目にして。



 (札束で……ほほを……たたく? ………)


 メーターを止めた。変に力が入りすぎて壊しかねぬ勢いで。


 その声がいったい自分のどこから出たのか、本人にさえ分からなくなるような感覚のまま、何とかしゃがれた声でドライバーは話し出す。

 「で…では学園前まで…で」


 (ふふふ……き、気持ちいいじゃあねぇか! 実際にされると~思いっきり気持ちいいじゃああねぇえか……)


 「よ、よろしいでしょうか? お客様……お手数ですが……」


 (頬を撫でてくる……札束ってヤツの感触は!!)


 やがて…締めの決まりセリフは弾むような軽やかさになった。


 「シートベルトの方をお締めください~」

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