暴力装置 (編集版)

 ソープランド



 題の通り、本番ありのソープランドというやつに行ってきました。これは架空の話ですから、私でなくあなたであっても良かったかも知れません。私を誘った友人はそれなりに経験をしているようで、価格帯や雰囲気などから何かを察知して風俗街を回っていたようでしたが、私は何も分かりませんので寒さとコミュニケーションへの強ばりのことを思っていました。

 店に入ってからも大抵の段取りは友人に任せてしまって、私は先に座らせてもらい、受付をしている友人の顔を眺めていました。

 この待ち時間の間は、人の顔のことばかり考えていました。美醜ではなく表情の善悪の話です。

 多くのコミュニケーションには悪意が内在します。自分の利益を最大にするために、彼らは巧妙に他者を陥れながらも、そのことを決して言語化されぬようひた隠します。しかしそのような人物の悪意は必ず、表情や声色など、えもいわれぬ部分において露出するのです。

 この言語化されない悪意というやつが、ソープランドの受付にいる友人の顔には溢れていました。気持ちの悪いほど愛想のいい配達員のようでいて、私もつられて笑顔になってしまうような暴力的な表情でした。この友人は普段は虫も外に逃がしてやるような男でしたから、尚のこと不気味に感じられました。

 いつも通り冗談を交わしながらも、なんとなく鏡を見るような思いになりました。私たちは実際、待合室の中で全く鏡に映したように座らせられました。できればこの暴力的な男とすぐにでも離れたいとソファで思っていましたら、案外時間はかからず順番が来ました。

 こちらを呼んだのは、黒い髪を肩辺りまで伸ばした、暴力的でなく快い女性、という感じでした。と言っても、セックスをするつもりはなく、その旨を伝えてベッドの端で抱擁だけさせていただいてから(このような客も珍しくは無いのでしょうと思われました。)、少しコミュニケーションを取りました。そのとき私は風俗店でセックスをしないという選択を取ることに何らかの意味を感じていた気がしますが、もう分からなくなってしまいました。

 誤解のないように言いますが、これは女性やセックスワーカーに関する社会一般の倫理規範に従うためなどというつもりではなく、あくまで個人的な構想でした(私は小さい頃レゴブロックが大好きだったことを思い出します。悪くない思い出です。)。しかしその個人的な構想も、もう分からない。生まれたとき泣きながら母か父かの中に家族を信じたように、すべての数字には続きがあるように、個人は世界の構造の中に放り込まれると個人的な感覚というのは失って全体の目玉というのを手に入れてしまって、焦点が合わなくなるという道理かも知れません。あるいは、おそらくその通りですが、単に構想が破綻していたのでしょう。

 現場でのいくつかのコミュニケーションは、私にしては普通に取れたように今のところ思っています。私のコミュニケーションはほとんど破壊的であることで知られています。最初あたりにその旨を伝えたところ、女性からは破壊的ですねとの返答をいただきました。私にとってコミュニケーションは成功と失敗とに分けられますが、これはおそらく失敗です。この場合、失敗要因は彼女には破壊的ですねと返す以外の方法が残されていなかったことです。つまり、一般化されたような答えを求めるための言葉というのは、コミュニケーションとして失敗なのです。

 そして私のコミュニケーションが破壊的であるというのは、コミュニケーションをこのような失敗に終わらせてしまうということです。これを自覚しているが為に、私はしばしば友人たちからコミュニケーションについての指南を受けています。

 それによれば、自己紹介は大事です。コミュニケーションは一般化できるものではないから、あくまで個人同士であることを了承するために、互いに自己の個人的な感情を強調しなければなりません。私は、何処で生まれたかと、何故ここにいるのか。向こうも何らかの返事をしていましたが、自己紹介の中身に意味はなく、それはどうでもよかったので、もうどこで生まれたと言っていたか忘れてしまいました。九州と言っていた気がします。

 次に、好きなものを聞きました。私が風俗へセックスをする訳でもなく、むしろ忌避しているのに来た理由はこの為でした。私は人の好きなものを聞くのが好きでした。その人を好きで、その人について知りたいからというのではありません。私を取り巻く環境が互いに個人的に好み好まれ、しかしそれが一般的な構成を取らず、束にならぬまま私を覆っていく、それを構築するためです。このためには、人気なものを集めた箱からひょいとつまんでみるのではなくて、あなたが持っているそれは何ですか、と聞いて回らねばならない。

 したがって、一番や二番でなくとも良いから、少しでも好きなものがあるなら教えてくれと乞いました。すると、余り困惑した様子もなく、何か好んでいると教えてくれました(これも珍しいことではないのでしょう。)。

 これについては、書くことを控えます。結局何にも具体を書かないじゃあないかと思われるでしょう。しかしこれに関しては、忘れたわけはありません。このために行ったのですから。プライバシーなどとふざけたものの為でもありません。それを書かないのは、それを教えられると同時に、かつ這う虫を撫でる時のように静かな表情で、それが本当は好きではないのだと、これはうそだと、確かに伝えられていたからです。

 何でも良かったのです。海と言っても、最近読むのを止めた漫画と言っても、何でも良かったのです。好きだと言ってくれるのを私が信じられるのであれば、それで良かった。しかし彼女は、ただ女性一般として私を扱いなさい、そう表情で示して、うそを言ったのです。その表情には伝えるための意思が宿っていましたが、悪意は、ましてや暴力性などはありませんでした。しかし私に対しては、加虐性はあった。自己紹介をした後の私に対しては。

 しかしその加虐性はつまり優しさでしたから、私は諦めるしかありませんでした。そこからは、幸い私がその好物に詳しくありませんでしたから、もう少し教えてくれと言って誤魔化して、街中で見知らぬ老人に話しかけられたときのようないやに社会的なコミュニケーションを取りました。その中にはいくつかの愛想笑いも含まれていました。一年に一度しか会わぬような親戚との別れ際を誰も覚えてはいないように、帰るときのことはよく覚えていません。美味しい寿司を食べに行ったと思います。




 ある暴漢に襲われた母親が、その場で小さな我が子を嬲り殺した。誰もが彼女は恐怖から狂ってしまったのだと言ったが、彼女は最後まで正常に、我が子を愛していた。

 これは私のメモ帳に残っていた随分前の文章ですが、暴漢のその後を描く気もないように思われるのは、裁かれるのが当然だと思っているからか、あるいは暴力性そのものが当然だと思っているからか、どちらでしょう。今の私には、どちらも妥当な信念であるように思われます。

 彼女が本当に正常であったどうかについては、私は彼女の静かな表情を見ているのですから、そうだと言えます。では、彼女が嬲り殺した子供はどんな顔をしていた?それは、暴漢の一人である私には、彼女が隠していたのですから、分かるはずもありません。取り調べるなら、自己紹介から始めたら良い。

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