臆病風に吹かれる

八十八 十日

 吸っていた煙草の灰がしな垂れて、コンロの隙間に落ちそうになっていた。

ふと、我に返って気づく。カーテンを開けたままにしてある窓の外はもう、

青くなり夜になろうとしていた。時計を見ると、午後六時すぎ。

キッチンでタバコを吸っていたことがばれると怒られるので片付けなければいけないし、そろそろ夕食の支度をしなければいけない。

だらだらとした動作で煙草の火を消し、真後ろにある冷蔵庫を開ける。あるもので適当に。すっかり染み付いた能力。

 年明けから騒がれていた感染症が流行し、政府からの外出自粛要請もあり、

会社からリモートワークをするよう指示があった。

いつまで続くかはわからないが自宅で自習をしてください、とのことだった。

仕事をしなくてもお金が貰えるのだ、という怠惰な自分が喜んでいた。

飼い始めたばかりの猫とずっと一緒にいられる、と浮かれてもいた。

1ヶ月半後の自分を知りもせずに。

 今日は、豚肉が余っているし買いだめしていた麺もあるのでやきそばにすることにした。ただの焼きそばを作ると、「お昼ご飯って感じがするんだけど」とKに文句を言われるのでオムそばにしよう。iPhoneでYoutubeを流し見しながら、自分の世界に没頭するように晩御飯を作る。炒め物をする匂いに誘われるように、ノルウェージャンフォレストキャットのメイが足元で小さく鳴く。

「これはメイちゃんのご飯じゃないからね~」

メイに話しかけていたところで、iPhoneにLINEの通知が届く。Kからだ。

『もう家に着きます。コンビニで買っていくものはありますか。』

『ありません、ちょうどご飯ができるところだよ』

返信しながらため息をつく。

今日の幸せな時間は終わりです。


――――私には、三年ほど付き合っている男が居る。仮にその男をKとする。

付き合うとほぼ同時に、男が私の家に転がり込むような形で同棲が始まった。

前に付き合っていた男とも同棲状態に有り、別れた直後だったこともあって、

家に人がいてくれるのは寂しさを埋めてくれてちょうど良かった。

同じ会社に勤めていた上司で、仕事ができ、少しわがままなところがある7つ上の男でマンツーマンの研修担当だった。

世間知らずの20歳の私がそんな男に惹かれるのは時間の問題だった。

 Kには社内に付き合っている彼女がいて、公認のカップルだった。

Kがものすごく遊人である、ということもまた有名だった。

しかし、入社したての私にそのようなことを教えてくれる人もなく、研修終了後に

連絡先を人づてに聞いたKから毎日のように連絡が来るようになった。

 付き合っている彼女に悪いと思いながらも『もう、別れようと思っているんだ』

『うまくいってないんだ』なんて、常套句に騙されたのか騙された振りをしたのか、

Kからの連絡を心待ちにしている自分がいた。

 一度、ホテルに行ったが、彼女とお揃いでつけている指輪やブレスレットをそのまま付けてくるKの無神経さに引いた。このまま関係を続けることが怖くなり、ほとんどストーカーと化していたKを振り切って連絡を取らなくなったのだが、どういう因果かまた同じような泥沼に落ちてしまうなんて。

自分の馬鹿さ加減もここまで来ると笑えてくる。


「ただいま~、お酒買ってきたよ~」


Kが帰ってきた。

テーブルに箸やコップを並べながら、笑顔を向けて「おかえり」という。

機嫌を損ねないように、女の子っぽく飛び跳ねたりしながら、買ってもらった酒に

喜んでみたりする。

こんなこと、辞めたいと思いながら。

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