第33話 死人
その日、競龍雑誌「ダイブ」に、戸次親次の真実と題された記事が載せられた。それは競龍業界の内外に大きな反響を呼び、様々な人の眼に触れた。
志賀葵も例外ではなく、それに目を通して親次の今までの行動全てに納得がいった。そしてつい最近、親次がレース中に墜落して騎乗龍が安楽死処分となった事、勝ちきれない未勝利龍を勝たせたものの翌日には競翔龍としての登録を抹消された事が頭に浮かんだ。
その時に送ったメッセージには未だに返信がない。競龍協会の発表で無傷なのは確認でき、直ぐに返信してこないのはいつもの事だと思って深く考えていなかった。
しかしもし、二騎の龍の死に絶望しているのだとしたら。返信すらできないほど打ちひしがれているのなら。じっとしてはいられない。
葵は一萬田重連を介して、その弟の好連と会う約束を取り付けた。それから急いで空港に向かい、飛行機、電車、バスと乗り継いで、翌日の昼には飛騨トレーニングセンターに到着した。
巨大な施設だ。山地丸ごとを競翔龍の為の施設にして、麓の町ですら競龍関係者が殆どを占めている。平時なら隅々まで見て回りたいと思えたが、今はそれどころではない。葵は一萬田好連厩舎のスタッフの案内を受け、広大なトレーニングセンターを横切って一萬田厩舎の事務所を訪れた。
「テキ、志賀葵さんを連れてきました」
スタッフが声を掛け中に入る。扇山競龍場とは違い、どこぞのオフィスの応接室のような綺麗な部屋に、重連を一回り若くして温和にしたサラリーマン風の男が座っていた。
「……ああ、座ってください、志賀さん」
見るからに元気がなさそうだった。手元には今週号の「ダイブ」だけが置かれ、仕事の痕跡が全くと言って良いほど見つからない。葵がソファに座ると、好連は弱弱しい愛想笑いを浮かべた。
「ここは遠かったでしょう? 躰の方は大丈夫ですか」
「大丈夫です。それよりチカ、親次の方こそ大丈夫なんですか」
好連は俯き、重い息を漏らした。
「あれから調教にも来てません……。ダイブさんの記事のお陰で親次への見方が変わり、少しずつですが調教依頼や騎乗依頼が来るようになりました。しかしこのままだとまた依頼が減り、今度こそ騎手生命が終わるでしょう」
何故、こんな事になった。
親次は自分の命を懸けて龍を守ろうとして立場を悪くし、しかし真実が明らかになって風向きが変わってきた。今こそが最大の好機だ。それなのに何故、親次は部屋に閉じ籠ってしまった。
「チカにとって、死んだ二騎はそんなにも大切な存在だったんですか?」
疲れを見せる穏やかな表情で、好連は首を振る。
「親次は今、騎手の限界にぶつかっています。それも、より大きな衝撃を受けるタイミングになるよう、私が仕向けました」
その言葉は、保護者のような表情から発せられた。そのせいでうっかり聞き逃しそうになり、言葉の意味に気付いて葵の背中は凍り付いた。
「なんで……そんな事したんですか」
信じられなかった。好連は親次を潰すつもりなのか。
「親次の為です」
穏やかだった重連の表情が、俄かに厳しくなる。
「親次が選んだ道は、地獄に続く道です。自分の立場は悪くなり、どれだけやっても救える龍は極僅か。場合によっては自らの手で龍を殺す事にもなる。幸せになんて絶対になれません。だからこそ、もしここで潰れて騎手を辞めるようなら、そちらの方が良いかもしれません」
それは理解できる。しかし他にやりようがあったのではないのか。怒りがふつふつと湧いてくる。立ち上がろうとする本心を、理性が落ち着けと言ってソファに縛り付ける。
「本当に辛い道ですよ。本人だけではなく、周りにも迷惑を掛けることになる。私も一度は限界に感じて、体の良い理由をつけて兄のいる地方競龍に厄介払いしました。私にも養うべきスタッフがいますからね」
怒りが収まっていく。好連の発言は至極全うだ。悪い事をしているのは、間違いなく親次の方だ。それは分かっている。なのに、心の奥底でもどかしさが渦巻いていた。
「それからしばらくして、親次は厳しいリハビリを乗り越えて復活しました。その時、兄に言われたんですよ。龍に関わる人間が龍に殉死する。これ以上の死に方があるのか。はっとさせられましたよ」
好連は苦笑する。それから、表情を引き締めた。
「競龍界の人間で、龍の現状を良く思っている人はいません。しかしどうにもできない現実が何十年と続き、諦めてさえいました。そこに現れたのが親次です。人によっては青い、子供だというでしょう。普通に言っても問題児、悪く言えば殺人未遂の自殺志願者です。……それが、私には眩しかった」
疲れた中年の顔には、子供のような輝きが宿っていた。
「龍に殉死する親次に、私は殉死する。そう覚悟を決め、親次を中央競龍に呼び戻しました。親次のする事は矛盾しています。しかしそれを続けなければ競龍界は変わらない。親次は報われない」
自分勝手に怒っていたのが恥ずかしくなってきた。この人は自分以上に親次の事を考えている。それも、確とした決意を持ってだ。
「これはね、志賀さん。親次にとっての試練なんです。進むにしろ諦めるにしろ、これを経なければ親次は苦しいだけです。だから早いうちに経験するべきだ、そう考えて落ち込んでいる親次に、追い打ちを掛けるような真似をしました」
一転、好連の表情は年齢相応に戻り、重苦しく吐息する。
「……後悔しています。罅割れた親次の心を、決定的に壊してしまったのではないかと」
葵は、深呼吸をした。
自分は落ち着いている。頭はむしろ冷めている。心は静まり返っている。向こう見ずに暴走はしない。冷静に、自分のすべき事を理解している。
「私ならチカをどうにかできるとは思いません。でも、チカの助けになれるかもしれません。だからチカの、親次の家を教えてください」
好連は頷き、無言で鉛筆を走らせた。
親次の家は、一萬田厩舎でも厩舎街にある騎手の独身寮でもなく、競龍から追い出されたかのように厩舎街の外のマンションにあった。
郵便受けには配達物やチラシがはみ出し、そこだけハリネズミみたいになっている。葵はインターホンを鳴らした。当然のように反応はない。電話を掛けてみる。何度もかけても出ない。ドアの耳を当てると、中から着信音が聞こえてきた。
不安になってきた。
電話を掛け続けたままドアを乱暴に叩く。
「チカ!? 私、葵だよ!」
反応はない。それでもドアを叩き、叫び続ける。間違いなく音は届いている筈だ。それなのに何故出ない。
自殺。
嫌な言葉が頭を過った。そんなわけがない。いつも楽しそうにしていた親次が、自殺するわけがない。たまたま深く寝ているだけだ。
ドアを叩く。叫ぶ。隣の部屋のドアが勢い良く開けられた。
「うるせえ!」
睨んでくる。睨み返した。出てきた男はバツが悪そうな顔をして中に引っ込む。葵はさらに力強く親次に呼びかけた。
親次は自殺していない。そうに決まっている。でも、出るに出られないとしたら。郵便物などの惨状を見るに親次は禄に外に出ていない。食料だって尽きているかもしれない。それで倒れているのではないか。
葵はドアを叩くのを止め、スマホの画面に見入った。
他に手段はない。葵はゆっくりとした動きで、警察に電話を掛けた。友人が数日間家から出てこない、声かけても反応がない。病気か、それとも事件に巻き込まれたのではないか。そう告げて十数分後、パトカーがやってきた。
やってきた二人組の警官にもう一度事情を話す。警官は直ぐに納得し、まずは外から声をかけた。
「戸次親次さん、警察です。大丈夫ですか、返事はできますか? 声が出せないようなら音は出せますか」
やはり反応はない。葵の不安が募り、警官の表情が険しくなる。その時、親次の部屋のドアが開いた。
「……戸次親次さんですか」
警官の一人が言う。聞くまでもない。出てきたのは親次だ。ひげは伸び放題で頬は痩け、なにより瞳が暗く濁っているが、それでも間違いなく親次だ。
「……そうです……何の用ですか?」
「こちらの方から通報があって、事故や事件に巻き込まれたのではないかと確認しにきました」
親次が葵を一瞥する。何の感情も籠っていない暗い瞳は、葵の姿を映さず警官の腹辺りに向けられた。
「……眠ってただけです……お騒がせしました」
警官たちは顔を見合わせ、ドアの隙間から覗く室内を見やった。
「一応、中を見させてもらっても良いですか。誰かに脅されてそう言っている可能性もありますので」
「……良いですよ」
ドアが開かれる。暗い通路が露わになった。警官に続いて葵も中に入る。
そこに、人が住んでいる形跡はほとんどなかった。
あるのはベッドとテレビにレコーダーとノートPCだけで、他には碌な物が置かれていない。コンビニのゴミ袋が落ちていることもなく、床は埃だけが薄く積もっている。もはや殺風景を通り越していた。冷蔵庫も空、ごみ箱も空、この部屋には生活感が一切感じられない。
やがて、警官は満足したのか親次に目礼した。
「ご協力感謝します。これからはご友人に心配をかけないようにしてくださいね」
そう言って、警官二人は去っていった。葵と親次、二人だけが残される。
「……チカ、あの」
「もう良いだろ……」
親次に肩と背中を押された。あっという間に外に押し出される。親次の手が離れた。振り返る。その時にはもう、玄関の扉は閉まっていた。
そして、鍵の掛かる音が鳴った。
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