第32話 勝利の向こう側



 カラマンを勝たせた翌日、俺は勢いに乗ってセヴェリンに騎乗した。



 セヴェリンは競翔龍としてはもうお婆ちゃん、カラマンほど切羽詰まってはないにしても、先行きが明るいとはお世辞にも言えない龍だ。なんとしてでも賞金を持って帰らせ、龍主を満足させなくてはならない。



 幸先も良くセヴェリンの黒っぽい鱗毛も今日ばかりはいぶし銀のような深い光りを見せている。調子は良さそうだ。これなら十分に勝ち負けだろう。



 ゆっくりゲートに収まり、間もなくスタートが切られた。



 いつものように、セヴェリンの行き足はつかなかった。スタートは良かったものの、他の若い龍と違って加速が遅く、どんどん位置を下げ突き放されていく。



 それで良かった。セヴェリンは出足が遅く加速も悪いズブい龍だが、一流どころの龍と比べて勝っている点が二つある。一つは毎週のようにレースに出翔してもけろっといている頑丈さ。もう一つは、どんな急坂もものともしない圧倒的なパワーだ。



 コーナーに入る。下降旋回で少しでも速度を得て、斜面に腹をこすり付けるほどの低位置をとる。そして、俺は鞭を叩いた。



 セヴェリンが上る。



 登りに差し掛かってぐっと速度を落とした他龍を後目に、その巨大な翼を力強く羽ばたかせ、セヴェリンだけが加速する。それは、翼を腕のように使って斜面を這い上がっているような暴力的な登坂だ。



 後続集団に追いついたところで上りが終わった。下りに入ってまた少し離される。問題ない。俺はセヴェリンを外に持ち出し、止めていた鞭を再び振るった。



 掛かりの遅いセヴェリンのエンジンに火が灯ってくる。入射角を緩くして、一切の速度を落とさず最後のコーナーに突入する。さらに外に持ち出して進路を開ける。



 全力で鞭を振るった。先ほどの登りよりも速く力強く、セヴェリンは斜面を登り他龍を抜き去っていく。他の龍の事は考えるな、前に行く事だけを考えろ。俺は鞭を振るう事だけに集中する。一騎、また一騎、他龍たちを抜いて先頭に迫りくる。



 そして、セヴェリンが先頭に躍り出た。山向こうが見える。麓の町が見える。あとはもう下るだけ。ゴールまで鎬きればセヴェリンの勝利だ。



 バキッ、という音が聞こえた。



 あっと思った時には、高度ががくんと下がった。セヴェリンは懸命に羽ばたこうとしている。しかし真ん中から折れ曲がった右翼がほとんど動いていない。地面が刻一刻と迫ってくる。墜落の文字が、俺の脳裏に過った。



 衝撃が突き上がった。



 俺の意識はあった。それが分かれば俺の躰なんてどうでも良い。急いで命綱を外し、セヴェリンから飛び降りた。



「おい! ……大丈夫だよな!?」



 大丈夫だ、自分に言い聞かせる。墜落したのは登りが終わってすぐだ。速度も高度も大した事ない。墜落のダメージは小さい。頑丈なセヴェリンなら一か月後にはレースに出ている程度のものだ。



「……あ」



 ひゅうひゅう、音が鳴っていた。セヴェリンの声じゃない。その音は、セヴェリンの翼から起こっている。



 絶望の音だった。



 龍の骨は空洞で、直接心肺に繋がって空気をやり取りしている。だから骨が折れて皮膚を突き破ると、断面から空気が漏れていく。出血多量に酸欠、致命的な大怪我だ。



 医者が飛んできた。競龍協会の職員が俺の無事を確かめてくる。そんな事どうでも良い、俺は叫びセヴェリンを指さした。



「早く助けてくれ!」



 その拍子に、セヴェリンの傷口が視界に入ってしまった。



 翼から尖った骨が飛び出している。ところどころ赤く染まった赤い骨。断面から漏れた空気が血を吹き飛ばし、血泡がこぽこぽ生まれている。眼を逸らしたくても逸らせない。全身が石になったように動かない。



 好連さんとセヴェリンの龍主がやってくる。獣医と話している。近くにいるのに内容が全然入ってこない。龍主が首を振るのが見えた。競龍協会の職員が大きな幕を持ってくる。セヴェリンの躰が幕で隠され、完全に見えなくなった。



 気が付くと、俺は自宅にいた。



 セヴェリンは予後不良、その場で安楽死となった。そこから俺の記憶が飛んでいた。家のカーテンは開け放たれ、外は真っ暗闇になっている。



「……仕方ねえよ」



 自分に言い聞かせるように言った。



 翼の折れた龍は、もう競翔龍には戻れない。どれだけ上手く怪我が治っても、翼の形が僅かに変わってしまえば飛翔能力は格段に落ち、レースに勝てなくなる。優秀な龍なら繁殖に上がれるけど、血統も悪く実績のないセヴェリンの繁殖入りはあり得ない。どうせ苦しんだ末に死ぬなら、早い方が良い。



 本当に仕方ないのか。



 セヴェリンはレース前から不調を見せていたんじゃないのか。それに俺が気付いていれば、セヴェリンの死は避けられたんじゃないのか。



「……いや」



 本当にセヴェリンが不調なら、厩務員と好連さん、俺の三人が揃って気付かないなんてあるわけがない。間違いなく、あの時のセヴェリンは躰のどこにも異常はなく、絶好調だった。



 原因は、俺の騎乗としか考えられない。



 ズブいセヴェリンに全力を出させようと、思いっきり鞭を振るって無茶させた。あれがなければ、セヴェリンの翼が限界を迎える事はなかった。



 でも、そうしなければセヴェリンに勝機はなかった。勝てなかったセヴェリンを待っているのは、結局安楽死だ。



「どうすれば、良かったんだよ……」



 インターホンが鳴った。



 出る気になれない。ややあってスマホが鳴る。相手は好連さんだ。またインターホンが鳴り、くぐもった好連さんの声が聞こえてきた。



 流石に出ないといけない。重たい躰を引きずって玄関を開ける。好連さんはスーツを着て心配そうな顔をしていた。



「俺……帰るまでに変な事しましたか?」



 好連は俯きがちに首を振った。



「龍は歳を取ると、骨の柔軟性が失われて折れやすくなる。セヴェリンは、仕方なかったんだよ」



「……俺が追わなかったら、セヴェリンは勝てたと思いますか?」



「無理、だろうね」



 多分、セヴェリンは掲示板にも乗れない。ウォーミングアップのようにコースを回り、最下位争いでレースを終える。賞金は貰えず、焼け石に水程度の僅かな出翔手当が貰えるだけだ。そんな龍は早晩処分されてしまう。



 結局、勝つしかない。



 レース中の故障がなんだ。事故がなんだ。リスクがなんだ。何もしなければ俺が乗るような龍は処分される。どうせ死ぬなら僅かでも生き残る可能性がある方を選ぶしかない。



 少しでも多くの龍を助ける。その道を選んだからには、セヴェリンの死は割り切ろう。あれは勝つ為に必要なリスクだった。今回は運悪く失敗した、それだけだ。セヴェリンはどうあがいても死ぬしかなかった。



 胸が締め付けられた。でも、割り切るしかない。



「俺は……大丈夫ですよ」



 扉を閉めようとする。好連さんはどこか泣きそうな顔で口をぱくぱく動かす。俺は手を止めて尋ねた。



「まだ何か?」



「ああ、いや、その……」



 そこで、好連さんは眼を瞑った。一度深呼吸して、俺をじっと見据える。



「この状況で言うのか迷った。少し時間置いて言った方が良いかもと今も思ってる。でも、誰よりも龍が好きな親次だからこそ、早く知りたいと思うから今言おうと思う」



 そんな喋り方するなよ。嫌でも悪い予感が膨れ上がってくるだろう。



「カラマンは安楽死だ」



 頭に入ってこなかった。



「龍主さんがな、これ以上勝てるとも思えないから損が大きくなる前に処分するって。カラマンは今日の内に屠殺場に行った」



 弱い龍は、何もしなければ死ぬしかない。勝たせようと無茶をすれば死ぬかもしれない。無茶をさせてなんとか勝っても、やっぱり死ぬ。



 俺は、どうしたら良い。

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