第18話 限界寸前



 人の頭をバットで殴ってしまった。



 その夜、友治は眠れなかった。ネットで自分が起こした事件のニュースが上がっていないかを確認し、朝になってからは新聞も含めてくまなく目を通し、午前も終わろうかという時になってもニュースになっていないのを確認して、ようやく少しだけ安心した。



 しかしこれ以上ホテルに籠っていられない。昨日自分が行った事の顛末を確かめ、これ以上罪を重ねる前に朝倉の悪事を暴く。友治は熱いシャワーで身心ともにすっきりし、扇山競龍場に向かった。



 早速昨日訪ねた厩舎に向かう。午前中の仕事は一段落して蝉だけが騒いでいる。人の姿も見えず、友治は厩舎横の事務所の扉を叩いた。



「はいはい、今出ます」



 出てきたのは、あの中年の厩務員だ。友治を認めた瞬間、その眼付きが悪くなった。



「アレ……あんたが入れたのか?」



 背中に冷や汗が流れる。しかし、友治は表情を変えずに口を開いた。



「アレ? 何の話ですか」



「アレって言ったらお前」



 そこまで言って、厩務員はばつが悪くなったように口ごもった。友治を睨んで押し黙り、ややあって舌打ちする。



「……惚けるってのか」



 龍の食餌に謎の粉末を混入させたのが気付かれている。あの時いたのは厩務員を除けば友治しかいないのだから当然だ。直接言わないのは、おおっぴらに口にするのは憚られるという思いがあるからだろう。



「待ってください。まずは何の事か説明してください」



 友治は困った風に言う。認めるわけにはいかない。中央競龍ならまだしも、地方競龍の厩舎に監視カメラの類はない。しらを切り通せば首の皮一枚は繋がる状況だ。



「……てめえ!」



 厩務員の声に力が入る。その躰がぴくりと反応する。殴られる、友治は咄嗟に身を引いた。厩務員の荒い呼吸がやけに響く。



「ちょっと! 何してるんですか」



 不意に、若手騎手が事務所の奥から飛び出してきた。中年の厩務員を諫めつつ、友治には憐憫の表情を向けてくる。



「龍の近くで喧嘩するつもりですか」



「アンちゃんはすっこんでろ。こいつがアレを混ぜたに決まってんだ。他に人がいなかったのがその証拠だ」



 まさにその通りだ。あの時間、部外者は友治一人だった。厩務員の疑いは当然だし、そもそも友治が犯人だ。



「落ち着いてください。人なら他にもいましたよ」



 その若手騎手の一言で、厩務員の動きが止まった。



「龍たちに食餌をあげた後、どこかに行ってましたよね? その時知らない人が厩舎の前にいましたよ。というかそもそもの話、興奮剤をあげたっていう証拠があるんですか」



 風向きが変わった。それを敏感に察した友治は、自分を守ろうと追撃に出た。



「興奮剤? ドーピングですか」



 厩務員が怯み、即座に若手騎手を睨む。しかし若手騎手はどこ吹く風といった感じで友治に説明した。



「食餌を摂った後から龍が興奮してる。それだけの理由で勝手に言ってるだけですよ」



「勝手じゃねえ! あいつはいつも大人しいんだ。興奮剤でも取らなきゃあんな騒ぐわけねえだろ!」



 上手く怒りの矛先が変わった。友治は内心で笑みをこぼす。



「検査はしたんですか」



 また、厩務員の鋭い視線が友治に向いた。



「したら出翔停止になるだろうが!」



 ドーピングが発覚すればその競翔龍は一定の期間レースに出られなくなる。選択肢は二つ、犯人を捜せば金を失い、放っておけば時間が解決してくれる。自転車操業の地方競龍がどちらを選ぶかは考えるまでもない。



「というかアンちゃん、怪しい奴って誰だよ。というかどっかに遊びに行ったんじゃねえのか。怪しい奴っていうけどよ、お前が入れたんじゃねえのか!?」



 穏やかだった若手騎手の表情が、俄かに硬直した。



「財布スられて行けなかったんだよ!」



 怒声。龍たちが騒ぎ出す。その剣幕に押されたのか厩務員は若手騎手から視線を逸らし、初めて厩舎を気にする素振りを見せた。



「疑って悪かったよ。ここで騒ぐのはよそう、な?」



 それで一件は落ち着いた。誰が犯人なのかはなあなあに終わり、蟠りは残ったが事件化は避けられた。友治は最後まで部外者を装ってその場を離れ、状況を整理する。



 友治が行った悪事は四つ。競翔龍の食餌に謎の粉末を混ぜる、若手騎手の財布を盗む、通行人を襲う。それと、東京では駅のホームに立つ老人を驚かせた。



 明らかに仲間外れなのは、東京で老人を驚かせた事だ。普通に考えれば、数々の悪事を行わせる前に逃げられない理由や悪事を手伝わせる切っ掛けを作りたかった、それが朝倉の狙いだろう。しかし、他にも理由があるのではないか。



 行ってきた四つの悪事が一連のものだとすれば、一番最初に浮かぶのはこの街だ。あの老人は東京ではなく、この街の関係者だった。それも恐らく扇山競龍場の関係者ではないのか。調教師や騎手、厩務員ではない。競龍雑誌などの人間でもないだろう。ここまでくれば残るのは一つだ。



 あの老人の顔と柑橘系の臭いは強烈に覚えている。忘れられるわけがない。それにどこかで見たような気がする人物だ。ネットで調べる。



 見つけた。やはり、龍主だ。



 地方競龍が主だが、中央にも数騎の龍を所有している人物だ。さらに調べると、この扇山競龍場にも所有する龍がいた。



 間違いない。朝倉は扇山競龍場で何かをしようとしている。



 場所は分かった。後は目的だ。手がかりはもう一つ、昨夜襲った人間は誰か、だ。これも恐らく扇山競龍場の関係者だろう。



 友治は競龍記者の取材を装って、あちこち聞き回った。



 幸か不幸か、意外にも苦労した。襲撃事件は公になってなく、直接的に訪ねるわけにもいかない。進展は遅々としたが、夕暮れになってそれらしい人物の情報を手に入れた。



 三十半ばの騎手が、酔っ払って転倒し後頭部を強打したらしい。命に別状はなく入院期間も短いそうで、後遺症も残らないと言う。



 友治が昨夜襲ったのは、この騎手だろう。てっきり残る競龍関係者である調教師かと思っていたが、それは違ったらしい。



「龍主さんの奢りで、しこたま飲んだらしいよ」



 その騎手が所属する厩舎の厩務員は、呆れたようにそう言った。引っ掛かるものがあり、友治は突っ込んだ。



「サシですか」



「まさか、うだつの上がらない奴や若手が何人もいたらしいよ」



 分かる範囲で参加者の名前を尋ねる。すると、その中に友治が財布を盗んだ若手騎手の名前が入っていた。



 まさか、朝倉か。何かが分かりそうな気がした。友治はホテルに飛んで帰り、ベッドに横になってメモ帳と睨めっこする。



 駅のホームで背中を押す、競翔龍の食餌に興奮剤らしき謎の粉末を混ぜる、若手騎手の財布を盗む、三十半ばの騎手を闇討ちする。二人の騎手を含めて接待する。



 それは直観だった。友治がさせられているのは悪事の一端だ。全てではない。その一端からでは予想できず、妄想するしかない。だが、競龍記者の友治だからこそ分かった。



 八百長だ。



 朝倉は扇山競龍場で八百長を行おうとしている。八百長に必要なのは実際にレースで騎乗する騎手、次に関係者を買収する為の資金源である龍主、最後に競翔龍に手を加える為に日ごろから世話をしている厩務員だ。



 朝倉は龍主を脅して八百長を強制させ、興奮剤を使って競翔龍をどうにでもできるぞと厩務員に圧力を掛けた。さらに元々金のない若手騎手の財布を盗んでさらに懐事情を苦しくさせ、接待をして八百長を持ち掛けた。そして恐らく、参加を断るか悪い反応を見せた三十代の騎手を襲撃して見せしめにした。



 ふと思い出す。興奮剤の件で中年の厩務員に問い詰められた時、若手騎手は助け船を出す様な真似をした。あれは真実を知っていたから、大事になる前に共犯者である友治を助けたのではないか。



 間違いない。朝倉氏幹は扇山競龍場で八百長をしていようとしている。



 問題は、ここからだ。



 朝倉が八百長を企んでいるという情報をどう生かす。これを使って朝倉を脅し、手切りに持っていくのはどうか。



 いや、朝倉には遠藤が着いている。敵対するような真似は逆効果だ。なら、遠藤を味方に引き込むのはどうだ。



 遠藤は三百万近くで朝倉に味方した。しかし八百長ならもっと稼げる。朝倉の八百長を利用すればもっと稼げるぞと囁けば、仮に八百長を知っていても朝倉を裏切ればさらに稼げるぞと耳打ちすれば、遠藤と朝倉を分離できるのではないか。



「……いける、か?」



 スマホを手に取って遠藤に電話を掛けようとする。それから遠藤をどう説得しようと考えている自分に気付き、友治はスマホをズボンのポケットに仕舞った。



 危なかった。余りにも迂闊な行動だ。冷静になれ。そもそも遠藤を説得して引っ張り込めるのか、そんな根本部分から疑問のアイディアではないか。



 よしんば遠藤が朝倉を裏切ったとして、友治に味方するメリットはあるのか。そんなものあるわけがない。情報を教えたが最後、お役御免と捨てられるのが目に見えている。



 前提をよく考えろ。朝倉は八百長を企んでいる。朝倉と遠藤は敵に回せない。それでいて、最低でも借金を返済するぐらいの大金を稼ぎたい。



 閃く。



「……便乗だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る