第17話 危険な安らぎ
翌朝、葵は午前の仕事を早めに終わらせて、久しぶりに大学に行った。
真面目に講義を受ける暇はない。昨日の内に軽く話を通していた知人友人に直接会い、葵がちゃんと大学に通っていると嘘を吐いてくれるようお願いする。
根回しは昼前には終わった。だからと言って、講義を受けようという気はさらさらない。厩舎へ帰る道すがら、どこかで昼食を済ませようと考えていると、遠くから見知った人が歩いてきた。
親次だ。
ふと、駅で数年ぶりに再会した時の事が甦った。杖を突き、這いずるように歩いていたボロボロの親次はもういない。すたすた両足を動かして葵に近づいてくる。
しかし、葵に気付いた親次が利き手とは逆の左手を挙げる。それで現実を思い出した。
「……こんなところで何してるの、チカ」
「病院帰りでこれからジムに行くところ。葵は?」
「午前中の仕事が終わったからちょっと大学に。今はその帰り」
親次とこんな何気ない会話をしたのは久しぶりかもしれない。多分、中学生以来だ。中学を卒業してから進む道が決定的に違ってしまったのが原因か。思えば、駅で再会した時も会話が成り立っているようで、根本から噛み合ってなかったような気がする。
でも、今は騎手と厩務員だ。それならあの時とは違う会話もできるかもしれない。
「ねえチカ、お昼一緒に食べない?」
「悪い、今からジムで躰動かすから余計なもの食べたくない」
つれない反応だ。ジムに行くのは競龍の為だろうから無茶を言うのも躊躇われる。どう説得しようかと悩んでいると、コンビニが眼に入った。
「そうだ。それならそこのコンビニで買い食いでもしようよ。チカはジムの後に食べるもの買うだけで良いからさ」
親次はコンビニに目をやり、ややあって口を開いた。
「良いよ」
決まりだ。葵は嬉しくなって親次の手を引っ張り、コンビニに入店した。涼しい空気が身体を包む。店員がいらっしゃいませという言葉と共に見てきた。親次と手を握っている。葵は急に気恥ずかしくなり、慌てて手を離した。
「……何してんの?」
「うるさい」
葵は速足でコンビニの奥に行った。厩務員になって躰を動かすようになり食欲がぐっと増えた。一番多く肉が入っていそうな弁当を選び、おにぎりを一つ手に取る。それでも足りないかと思い、もう一つおにぎりを取った時、親次が隣に来た。
「男子高校生みたいだな」
笑われる。親次が選んだのは、蕎麦に蒸した鶏肉とサラダ、健康志向のOLみたいなセンスだ。これではどっちが男でどっちが女のなのか分からない。
「……チカはそれで足りるの?」
「俺はまた後で別に食うから」
そう言って、親次はレジに歩いていく。葵は置いて行かれないよう急いで買い食い用の菓子を選び、親次の後ろに並んで会計を済ませた。
コンビニを出る。蒸し暑さが纏わりついてきた。時間を確認すると、休憩時間の終わりまでは余裕があった。
「ジムまで着いていって良い?」
「良いけど、何?」
合図もなく二人して歩きだす。葵はレジ袋からラムネ菓子を取り出すと、親次が声を出した。
「あ、それは食う」
苦笑しながら親次にラムネ菓子を渡し、葵はチョコ菓子を食べる。
何から話そうか。いきなり競龍に命を懸ける理由を聞いても、以前のように撥ねつけられるだけだ。無言でチョコ菓子を食べていると、親次の方から話しかけてきた。
「厩務員大変だろ?」
「肉体労働だから大変といえば大変だけど、そんなにかな。騎手はどうなの?」
「レース以外は楽。調教ちょろっと乗ったら終わりだしな」
親次は呑気に言ったが、楽なわけがない。
「怖いとか思わないの?」
「……龍に乗るのなんか怖くもなんともないよ。いや、恐怖は感じてるけど俺の恐怖なんて大した事ない」
そこだけ微かに声が低くなったような気がして、葵は親次を見やった。すると、親次も葵を見ていた。
「なあ……キングフィッシャーの調子はどうなんだ。レースは今週、大事な時期だろ。三砂さんが休んで悪影響出てないか?」
何かを誤魔化しているのか。葵は直感でそんな違和感を覚えたが、原因が分からず親次の質問に思考を向ける。
「大人しすぎるのが心配なぐらいかな。でもテキが何も言ってないから大丈夫だと思う。騎手から見てどう?」
「さあ? 良くも悪くも飛ばない龍だから」
打って変わってあっけらかんと言う。先ほどの違和感は気のせいだったのだろう。葵は気を取り直すように笑った。
「しっかりしてよー、チカ」
その時、親次が右腕を動かした。
ゆっくりとだが確実に、親次の動かない筈の右腕が上がっていく。そして、肩の位置で止まった。葵は自分の眼が信じられず、思わず笑っていた。
「チカ……右手が」
「これが限界だ」
途端、親次の右腕は糸が切れたようにだらんと下がった。
「躰はもう治った。右指は神経がイって使い物にならないけど、腕は少しだけ動かせる。後はこの躰でどうやって勝つか。それだけなんだ。それさえ分かれば、キングフィッシャーを勝たせられる」
ふっ、と親次は子供みたいに笑った。
「だから葵、キングフィッシャーを頼むな」
頑張ろう。
葵は改めて自分の心に、親次の笑顔に誓った。
「というわけで俺はジムに行くから。葵が仕事を」
不意に、親次の眉間に皺が寄った。
「どうしたの、チカ」
言いながら親次の視線を追う。遠くに青年と老人の二人組が歩いているが、流石に無関係だろう。それらしい人がおらず視線を戻す。すると親次は一人足を速め、葵のずっと前を歩いていた。
「じゃ、そういう事だから」
親次は肩越しに手を振って離れていく。気になったが、葵の休憩時間も終わりが近かった。葵は親次に別れを告げ、坂を上って帰路を行く。
短い時間だったが、親次との会話は心地良かった。どこかから運ばれてくる柑橘系の香りが、尚更葵にそう思わせた。
その良い気分は翌朝まで続いた。
いつもの光景がほんの少し明るく見える。その程度の変化だったが、それが良い。葵は頭絡を手にキングフィッシャーの龍房に行った。
「外出るよー、キング」
そう言って頭絡を付けようとする。不意に、抜け落ちた鱗羽が眼に入った。
珍しくはない。食餌を抑えてずらしているといっても換羽期だ。数枚落ちている事もあるだろう。葵は視線を前に戻し、再度キングフィッシャーに頭絡を付けようとする。
また、別の鱗羽が眼に入った。さらに数枚、キングフィッシャーの後ろには数十枚、水浴び場には水が見えなくなるほど大量の鱗羽が浮いている。
「……え?」
気付く。キングフィッシャーの右翼の付け根が禿げ上がっている。地肌は無残に露出して、周辺の鱗羽には点々と赤い血が付いていた。
「……え、え?」
まずい。素人の葵でもそれだけは分かった。急いで重連を呼びに行き、キングフィッシャーの禿げ上がった患部を見せる。
「毛引き症だ」
「……危ない病気ですか」
「人間が毛を抜くのと同じだ。三砂が倒れて遊び相手がいなくなって、ストレスが溜まったんだろう」
迂闊だった。
三砂がノートに遊びの事ばかり書いていたのは、こう言う意味だったのだ。それなのに、手が掛からないからとキングフィッシャーを構わなかった。
「……気にするな」
言いながら、重連はキングフィッシャーと葵に背を向けた。
「こうなるのは分かっていた」
その言葉は、聞き間違いかと思った。
「分かってた?」
「ああ。三砂が倒れてからのキングフィッシャーを見ていれば、それぐらいは分かる」
意味が分からない。
「何で、何もしなかったんですか?」
「こいつは三砂に任せた龍だ。自分が倒れた結果どうなるか、それも勉強だ」
あまりにも厳しい。
三砂がどれだけキングフィッシャーを好きか、重連も分かっている筈だ。それなのに、キングフィッシャーが危うい状況に置かれているのに見て見ぬふりをした。
そして何よりも、葵を一切信じていない。
無意識に拳を握るが、寝起きのようなもどかしさで全力が出ない。怒りとやるせなさがないまぜになり、蒸し風呂に閉じ込めれたような不快感がせり上がってくる。
「……私は、何の為にいるんですか」
重連は龍房を出ていく。仕方なく葵も後に続いて外に出た。キングフィッシャーは自らの禿げた一瞥して、血の付いた鱗毛をまた一枚、勢い良く引き抜いた。
「俺が完璧な人間に見えるか」
そう言ってちらとキングフィッシャーを見た重連の眼は、どこか憂いを帯びていた。葵は冷や水を頭から掛けられたような気分になり、我に返る。
「龍主が何を言おうと、三砂が求めるなら龍を任せよう。ただし、半端は許さない。俺にできるのはそれだけだ」
それが、重連という人なのだろう。
「……キングはどうなるんですか」
「飛翔能力にどの程度影響が出ているか、それを調べる為にも出翔は延期だ」
出翔レースの延期。
重連は三砂が倒れた時点で起こるべくして起こったと言った。重連が葵にキングフィッシャーの面倒を任せると認めたのは、三砂を休ませる為の方便だろう。だから、キングフィッシャーは当然の如く毛引き症を発症した。
それは、本当にそうだろうか。
葵はキングフィッシャーが思いのほか大人しいの良い事に、その理由を深く考えず放置した。あの時一度でも詳しい理由を探ろうとすれば、毛引き症は防げたのではないのか。何より、重連の目論見はどうであれ、三砂は葵にキングフィッシャーを任せた。
キングフィッシャーの出翔延期の責任は誰にある。
「……私だ」
そして、親次を裏切ってしまった。
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