第16話 龍の世話



「今日は見るだけだ」



 重連はそう言って、キングフィッシャーの龍房を開けた。その手には頭絡と呼ばれる龍の嘴に取り付ける龍具が握られている。頭絡は嘴全体を覆うカバーのような作りで、上嘴と下嘴の部分からそれぞれ一対の手綱が取り付けられるようになっている。騎手はそれら二対の手綱を操って、龍に三次元方向の指示を出すのだ。



 早朝でまだ眠いのか、キングフィッシャーは大人しかった。葵は龍房の入り口近くに立ち、少し距離を取って重連の動きを注視する。



 まずは嘴を覆う革製のカバーのような部分を装着し、ベルトを頭の後ろに回して金具で固定する。特に複雑な手順もなく、頭絡の取り付けは数秒で終わった。それから頭絡に二対の手綱を取り付けると、重連は龍房の外に眼を向ける。



「そこの鞍一式を持ってこい」



 龍房の前には鞍が引っかけられている。馬のものとは全く違い、サーフボードにも似たような形で取っ手が二つ付いている。革製で五キロ近くあるそれを抱えると、キングフィッシャーの手綱を引いて厩舎を出ていく重連を追った。



 重連が厩舎前にある鉄杭にキングフィッシャーを繋ぐと、葵は鞍を渡した。鞍には龍の首と尾に当たる部分にベルトが付いている。まずはそれを龍体に取り付けると、その上からさらに二本のベルトを翼を避けるようにクロスさせて強固に締め付ける。まるでランドセルを背負うような感じだ。



「難しい事はない。このまま放っておけば、龍は勝手に翼を動かして躰を温める。調教は頃合いを見て俺が連れていく。戻ってくるまでは今まで通りの仕事だ」



 装鞍の手順もそう複雑ではない。これならなんとかなりそうだ。



 葵は頭の中で装鞍のシミレーションを繰り返しながら空いた龍房の掃除に取り掛かった。三砂がいない分時間は掛かり汗だくになったが何とか終わり、厩舎前を掃いていると重連とキングフィッシャーが戻ってくる。重連は鞍と手綱を外してから、キングフィッシャーを綺麗になった龍房に入れた。



「明日からは自分でしろ」



「分かりました」



 葵は威勢良く返事をした。しかし、内心では拍子抜けだった。



 キングフィッシャーは手が掛かると言うが、頭絡や鞍を着ける時は落ち着いたもので、手が掛かるどころか初めての葵ですら簡単そうに思えるほどだ。



 いや。葵は頭を振る。



 三砂がキングフィッシャーに振り回されて倒れたのは事実だ。キングフィッシャーも担当が変わって戸惑い、借りてきた猫のように大人しくしているだけかもしれない。



 葵は気を引き締めて、残りの仕事に取り掛かった。



 午前中の仕事が終わり、午後三時頃までの長い休憩に入る。葵は三砂の書いたノートを読み、キングフィッシャーについて勉強する。



 書かれていたのは、遊びについてがほとんどだった。



 こういう仕草を見せた時はこんな遊びをすると良い、こんな鳴き声を出した時はこんな遊びをすると良い。龍の世話というよりは子供の世話といった感じで、試しに他の龍について書かれたノートを見たが、他に似たような書き方をしたものは一つもなかった。



 書いている人が違うのが理由だろうが、それでもどこか引っかかるものがあった。とはいえ、先人の知恵は素直に受け入れよう。葵はノートを持って、キングフィッシャーのいる龍房に向かった。



「キングー」



 声を掛けるが反応はない。見ると、黙々と羽繕いをしていた。あちこちには水が飛び散り、水浴びをした痕跡が残っている。



「何かしたい事ない?」



 ちらり、キングフィッシャーが葵を見る。束の間、また羽繕いに戻った。



 つれない反応だ。葵はノートにあったキングフィッシャーが一番好きだと言う、紐の付いた鼠の人形を取ってきた。これを犬とのボール遊びよろしく遠くに投げ、軽く引き寄せたりして翻弄するのが一番好きらしい。



 しかし、キングフィッシャーは鼠の人形を一瞥するだけだった。葵に近寄りもせずのんびり羽繕いをして、また水浴びをする。



 別龍のような大人しさだ。



 単純に遊ぶ気分ではないのか。龍だってそんな日もあるのだろう、そう葵は納得して、静かにしてくれるなら都合が良いと休憩室に戻り、一通りノートに眼を通す。



 やがて午後の仕事が始まった。午前中に調教に行かなかった龍が調教に行き、葵は雑事に汗を流す。そうして夕暮れ時になり、重連に呼ばれた。



「ブラッシングだ」



 そう言って、重連は葵とキングフィッシャーを厩舎前の洗い場に連れていった。歯ブラシと洗剤の入った霧吹きを手にして、キングフィッシャーの尾羽を指差す。



「糞が付いてるな」



 重連の言う通り、キングフィッシャーの尾羽には白い糞が付いていた。着いてから時間が経っているようで糞は固まり、その部分の羽は変形して波打っている。



「最初は温めの湯だ」



 重連はホースの湯でキングフィッシャーの尾羽を濡らし、洗剤を吹きかけて歯ブラシで優しく擦る。固まって手強くなった糞だが、それでも重連は根気よく丁寧に優しく磨き、少しずつ糞を落としていく。



「羽が波打ってるのは放っておいても良いんですか」



「それは蒸しタオルを当てる。十分に温めれば乾いた時にはぴんと張る。肌には当てるな。家の電子レンジで作ってこい」



 葵は重連の家に戻り、濡らしたタオルを電子レンジで温める。それを持って戻ってくると、丁度糞が落ち切っていた。



「できました」



 タオルを渡す。重連は波打った羽だけを慎重にタオルで包み、じっくり温める。



「……龍ってのは」



 ふと、重連が呟いた。



「世話ってほどの世話は必要ない生き物だ。羽繕いをすれば水浴びもして、勝手に綺麗になる。レースに出そうとしなければ、大して手は掛からん」



 それは、薄々感じていた。



 龍に関わらせなくても葵の厩務員仕事が成り立っていたのは、龍自身が自分の世話をするからだ。調教や診察は専門の技術や知識が必要だが、厩務員仕事は指示する人がいれば経験の浅いアルバイトでも十分にこなせる。



「だからこそ、キングフィッシャーには気を付けろ」



 それきり、重連は言葉を忘れたように沈黙する。波打っていた羽が元通りの美しさを取り戻すと、重連はキングフィッシャーを龍房に入れた。



「……気を付けろ、か」



 ともあれ、今日の仕事は終わった。葵は片付けを済ませて居候している重連の家に帰り、キングフィッシャーの今日の様子を三砂に報告する。



 三砂の負担にならないよう、メッセージは端的にした。意図を組んでくれたのか、三砂の返信も感謝と応援に留まった簡潔なものだった。そして、最後には三砂の病状が書かれていた。



 一週間は安静にするようにと診断され、その間に大学を休んだ分を取り戻す期間も含めて、重連により十日の休養を言いつけられた。



 十日で三砂が帰ってくる。それは喜ばしいが、葵が龍に触れられるのは十日しかない。それで、親次が競龍に命を懸ける理由の一端でも掴めるのか。



「……ん?」



 聞き覚えのある声が聞こえた気がした。耳を澄ませると、女の話し声が聞こえてくる。



「……お母さん?」



 そんな筈がない。しかし、外から聞こえてくる声は母のものに間違いない。何故、母がここにいる。葵は慎重に部屋の窓を開け、外の様子を盗み見た。



 母が重連と話している。楽しそうな雰囲気ではない。仕事終わりらしい母は真面目そうな顔をして、重連はいつものように不機嫌そうな顔をしている。



 母は様子を見に来ただけなのか。重連を責めに来たのか。家出した日以来、葵は母と話していない。メッセージのやり取りもしていない。だから何をしに来たのか分からないが、不穏な来訪には違いない。



 やがて、母は会話を終えて立ち去った。母の姿が見えなくなると、葵は急いで重連に母の事を尋ねた。



「自分で聞くんだな」



「でも、私のせいで責められませんでしたか」



 重連は何も答えてくれなかった。いくら問い正しても無駄なのは分かっている。葵は引き下がり、間借りしている自室に戻った。



 母は何をしに来た。思考を巡らせた時、ふと思い出す。葵は重連の家に居候するようになってから、まともに大学に通っていない。



 それだけの理由で訪ねてきたとは思えないが、重連に迷惑をかける理由は一つでも多く減らすべきではないのか。三砂が帰ってくるまで大学に通う余裕は一切ない、というより大学程度にかまけている余裕はないが、これ以上重連に迷惑は掛けられない。



 幸い、キングフィッシャーも今は大人しい。もう手遅れかもしれないが、大学の知人友人に話を通して口裏を合わせてもらおうか。



「……そうしようかな」

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