第13話 爪嘴
爪嘴師が、一萬田厩舎を訪ねてきた。
龍の爪や嘴は放っておけばどんどん伸び、それが元で龍自身を傷つける恐れもある。だから定期的に爪や嘴を短くする必要があるが、それを爪嘴という。
それらはただ短くすれば良いわけではなく、爪や嘴の具合が気に入らないとそれだけで龍は機嫌を損ねて食欲が落ちる場合もあるらしく、確かな技術が求められる職人芸だと言う。
葵は聞かされた話を思い出しながら、三砂と爪嘴師のやり取りを見学した。
「長さはいつも通りで良いんですよね?」
洗い場に鎖で繋がれたキングフィッシャーを見ながら、四十手前の爽やかな爪嘴師が言った。三砂は頷き、キングフィッシャーの翼を優しく撫でる。
「この子は甘えん坊なので爪も嘴の先も丸めてください。本人もそこら辺は気にしてないので思いっきりお願いします」
「はい。じゃあ頭巾被せてくれますか」
三砂は龍頭巾と言われる龍の頭を覆う布を手に取った。龍は暗闇に置かれると途端に落ち着き従順になる。その習性を利用して、爪や嘴の手入れや興奮した龍を落ち着かせる時などに用いるのが龍頭巾だ。
三砂は龍頭巾を両手に持ち、キングフィッシャーに被せようとする。しかし、キングフィッシャーは顔を背けてそっぽを向いた。
「こら、じっとして」
冗談めかした口調で言い、もう一度龍頭巾を被せようとする。だが、今度は隙を突かれて頭巾を取られてしまった。キングフィッシャーは嬉しそうに咥えた頭巾を振り回し、爪嘴師がくすくす笑う。
「相変わらずやんちゃなだなぁ」
三砂は溜息の混じった愛想笑いを返し、龍頭巾を取り返そうとする。それを遊んでくれているのと勘違いしたのか、キングフィッシャーはさらに激しく頭巾を振り回した。
不意に、三砂が動きを止めた。
頭巾を振り回すキングフィッシャーを見ながら、何もしない。ただ、ぼんやりとキングフィッシャーを見ている。
「……三砂さん? 大丈夫ですか」
葵が声を掛けると、三砂は我に返ったように首を振った。
「ああ、うん、大丈夫……大丈夫だから」
言って、頭巾を取り返そうと悪戦苦闘を再開した。
心配だった。
最近、三砂は魂が抜けたようにぼうっとする時がある。それが起こるようになったのは、キングフィッシャーが入厩してから数日ほど経った頃からだ。原因は間違いなく、異常なほど手の掛かるキングフィッシャーだ。
常に構ってもらいたがり、しかし急に大興奮して三砂を威嚇し、食餌も啄んだかと思えば周囲に散らかすだけで少しも食べず、挙句の果てには夜でも大騒ぎして三砂を叩き起こす始末だ。
三砂はまともに睡眠もとれず、それでいて葵と違って大学にもしっかり通っている。浮かべる笑顔は日に日に力を無くし、頼みの綱の重連は重連で、三砂の状況に気付いているのに手を貸そうとはしない。葵にしても直接龍に触れないのでは手伝える事も限られて、今も龍頭巾を被せようと頑張る三砂を見ているだけしかできなかった。
「その子、ハンドレアードだろ?」
若い男の声が聞こえた。
長身の青年が歩み寄ってくる。初めて見る顔だ。厩務員お決まりの格好でもなければ記者というにはラフな薄着で、龍主というにも若すぎる年だ。おそらく、葵や三砂と同年代だろう。
「ハンドレアードは普段世話をする厩務員には変な行動を見せるからね。別の人が頭巾被せた方が良いと思うよ」
言って、青年は葵を見た。
「私は新人なんで龍には触れないんです」
「そうなの。じゃあ俺がしようか」
そこで、ちらちら青年の様子を伺いながらも龍頭巾を取り返そうとしていた三砂が手を止めた。
「龍は危険ですから」
「俺も厩務員だ、任せて」
穏やかな表情に笑みを浮かべると、青年はキングフィッシャーに近づいた。
「君はこの子の視界に入らない場所に行ってくれる? 大丈夫、変な事はしないから」
青年は龍を前にしても堂々としていた。龍を見くびっているわけではなく、普段から龍に接している人特有の、自然体な落ち着きようだ。キングフィッシャーも青年をじろじろみているが、好奇心が先に立っているのか警戒している様子はない。
ややあって、三砂はほっとしたような息を吐いた。
「……お願いします」
三砂は厩舎の裏に歩いていく。青年に向いていたキングフィッシャーの視線が三砂に移り、三砂が龍房の裏に消えると青年に戻る。
「この子名前は?」
「キングフィッシャーです」
葵が答えると、青年はキングフィッシャーの緑の龍体を眺めた。
「キングフィッシャー。カワセミ、翡翠か。うん、緑龍にはぴったりの名前だ」
言いながら青年はゆっくりと、しかし悠然と龍頭巾に手を伸ばした。キングフィッシャーはそれを見てるだけで暴れない。そして、あっさり龍頭巾を掴んだ。
「返してくれる?」
軽く引っ張る。それだけで、キングフィッシャーは龍頭巾を放した。さらに青年は片手でキングフィッシャーの嘴を撫でながら、もう片方の手で器用に龍頭巾を被せる。
何一つ急いでいないのに、あっという間の出来事だった。
「……凄い」
思わず、葵の口から声が出た。三砂があれだけ苦労していた事を、簡単にやってのけてしまった。龍と言葉が通じているのではないかと思うほどの見事な手練だ。
「もう帰ってきて良いよ」
青年が言う。しかし、三砂は戻ってこなかった。聞こえない距離ではない。重連に何か用事でも頼まれたのだろうか。
「……そういえば、テキに会いに来たお客さんですか」
「違うよ。親次いる?」
急に幼馴染の名前が出て、葵の意識から三砂の事が吹き飛んだ。
「知り合いなんですか?」
良く見れば親次や加来に比べれば少し細身ではあるが、青年はアスリートのような躰付きをしている。この人も競龍騎手なのだろうか。
「競龍学校の同期なんだよ。まあ俺は途中から厩務員過程に移ったけどね。始めまして一萬田厩舎の皆さん。俺は吉弘純景、中央競龍で厩務員してます」
騎手ではなく、中央競龍の厩務員か。それなら若くして龍の扱いに慣れているのも頷ける。葵、爪嘴師と自己紹介をしてから本題に戻った。
「チカならテキと、このキングフィッシャーが出るレースについて話し合ってます」
「なら終わるまで待っていようかな、邪魔するのも悪いし。仕事が忙しくてあんまり連絡が取れてなかったけど、親次はどんな騎乗してるの?」
答えあぐねた。ここ最近の親次は躰も万全に近づいてきてそれなりに勝ってはいる。しかし、右腕を使えないハンデは相変わらずで成績は平凡だ。
純景は察したような顔をして、厩舎横の事務所に眼を向けた。
「親次には、しばらくこっちにいるって伝えといて」
言って、純景は踵を返す。
「会わないんですか?」
「引退とか重なって担当した龍がいなくなったんだよ。それでテキが纏まった休みをくれたからさ、大怪我をした友人に会いに来たんだ。昼間は観光して、夜に改めて会うよ」
掛ける言葉を熟考したいのだろう。純景は来た時と同じようにふらりと立ち去った。
爪嘴氏の服が汗でびっしょり濡れる。ようやく、爪嘴の終わりが見えてきた。
三砂がいなくなってから二十分近い。心配になってきた葵は、キングフィッシャーが見える範囲で三砂を探しに行った。まずは厩舎の裏に行き、あっけなく三砂を発見する。
「寝てるし」
三砂は地べたに座って両ひざを抱え、窮屈そうな姿勢で眠っていた。見た目以上に疲れていたのだろう。身じろぎもせず寝息も漏らさずうっすら汗を掻き、まさに睡眠を貪っているというような必死な眠りだ。ふとした瞬間には死んでいるのではないかと不安にさえなってくる。
その数日後に三砂が倒れたのは、必然だったのだろう。
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