第12話 優しい脅迫



「蒲池君、大丈夫か?」



 男の良い声で、友治は泥の中から目覚めた。どこかの道端、何故か自分は地べたに横たわっている。そこまで認識して、昨夜の馬鹿騒ぎを思い出した。



「昨日はお楽しみか? ほら、お茶」



 良い声をした男がペットボトルを差し出してくる。友治はそれを受け取って口を付け、ようやくその人物の顔を見た。



 朝倉氏幹。友治が金を借りている一人だ。大学時代の二つ上の先輩で、金持ちのボンボンらしく毒気のない顔した男だ。返済を迫るような真似はしない。友治は茶で口を濯ぎ、地面に吐き捨てた。



「……ありがとうございます」



 立ち上がり、ペットボトルを返す。アスファルトの上で寝たせいで躰の節々が痛い。ようやく痛みが引いた青痣が疼いているようだ。まだ梅雨は抜けていないのに濡れていないのは幸いか。昨日の記憶もちゃんとある。お世辞にも調子が良いとは言えないが、二日酔いにはなっていない。



「良いよ、困った時はお互い様だ。遊び歩いてたって事は仕事の調子は良さそうだな」



「いつも通り悪いですよ。先輩はこんなところで何を?」



 朝倉は眉尻を下げて苦笑した。



「蒲池君が約束の時間にこないから探しに来たんだよ。どうせ馴染みの店の近くで潰れてると思って探しに来たら、案の定だ」



 約束。そういえば、昨日朝倉に取材の申し込みをした記憶がある。朝倉は大学卒業後、新たに事業を立ち上げた。



 それが、競翔龍の屠殺業だ。



 前夜の乱痴騒ぎで完全に忘れていた。借金がチャラになった今、親次の弱みを握る何かが見つかるかもと期待して申し込んだ取材に興味はない。しかし大学時代から世話になっている朝倉を邪険に扱うのは躊躇われる。



「あー、今から取材、大丈夫ですか」



「勿論だ」



 嫌味でもなく、朝倉は笑顔で頷いた。二人は近くの喫茶店で腰を落ち着け、適当にコーヒーと軽食を頼む。



 競翔龍の屠殺。



 今となってはさして興味のない話題だ。友治も競龍記者のはしくれだ。それに競馬も遊ぶから経済動物の大まかな事情は分かっている。



 競翔龍を所有するには、とにかく金がかかる。厩舎の預託料だけでも月に数十万を必要とし、競龍場への輸送にもこれまた金が掛かる。レースで稼いだ金でそれらは賄える龍なら良いが、そうでなければ金食い虫だ。優秀な成績を収めて繁殖に上がった龍以外は、引退するとさらに金食い虫に拍車が掛かる。



 つまり、用なしになった龍たちの行き着く先が屠殺だ。それだけ分かっていれば競龍記者として十分だ。今更屠殺の実情を知っても一銭にもならない。迷った末、友治は唯一気になる事を口にした。



「……儲かってます?」



 我ながら欲望丸出しの質問だと思ったが、朝倉は声を上げて笑ってくれた。



「儲かるね。蒲池君はハラルフードって分かる?」



「イスラム教の禁忌に触れない、安全な食べ物の事ですっけ?」



「そうそう。俺の会社はさ、それと同じような感じで龍を漢方薬にしてるってわけ。要は昔ながらの製法で作ったプレミア品ってところかな。これは国内じゃ俺の会社でしかやってない」



 大したものだ。朝倉の実家は金持ちで、いわゆるボンボンだ。だから常人より元手があると言っても、それを軌道に乗せたのは朝倉自身の手腕に他ならない。



「羨ましいですよ」



 友治の口から本音が零れると、朝倉は苦笑交じりに息を吐いた。



「これでも参入するのにかなり手間取ったんだからな。野生の龍を捕まえてやろうかと何度思ったか」



 それはあながち、冗談でもないだろう。



 現在、野生の龍はほとんど生息していない。銃が発明されて以降、野生の龍は次第に数を減らしていき、農薬による悪影響が決定打となって急激に個体数を減らした。そして、なんとか龍を保護できないかと試行錯誤した結果生まれたのが、競龍だ。



 現在生息する野生の龍は極僅かで、狩猟しようものなら重罪は確定、国によっては問答無用で死刑に処されるぐらいの大罪だ。それでも野生の龍を捕まえたいと思うのだから、競翔龍の屠殺業に参入するのは想像を絶するものがあったのだろう。



「でも、ここまで来た」



 朝倉の表情が引き締まる。二十半ばの青年実業家に相応しい精悍な顔付きだ。



「仕事は順調そのもの。始めて数年だっていうのに、俺一人なら一生遊んで暮らせるぐらいの儲けが出せた。それに引き換え蒲池君、お前はどうだ?」



「……え?」



 自慢話が始まったと聞き流していた。それが急に問いかけられ、友治は変な声で生返事をしてしまった。



「まだ大学を卒業したばかりなのにギャンブルの沼にはまって、俺からも数十万の借金をしてる。総額でいくらだ? 二百万は楽に越えてるだろう?」



 説教か、気が重くなってきた。しかし不意に、朝倉は口元を緩めて笑った。



「あー、ごめん、勘違いさせた。貸した金もあげたつもりで貸したからどうでも良い。つまりさ、まだ金に困ってるのかってのを聞きたいんだよ」



 意図が分からない。友治は眉を顰め、コーヒーを啜る。



「どういう事ですか」



「仕事、手伝ってくれない?」



「……雇えば良いじゃないですか」



「どうせなら知り合いの方が、何かとやりやすいだろ?」



 怪しい。根拠はないが、嫌な予感がした。



「……うちの会社、副業禁止なんですよ」



「この通りだ」



 朝倉は手を合わせて頭を下げる。その必死な様が、ますます怪しかった。屠殺事業は上手く行ってないのではないか。警戒心がむくむくと頭をもたげてくる。



「……無理です。会社クビになりますよ」



 朝倉の助けになりたい気持ちがないわけではない。そもそも友治が競龍記者になるきっかけを作ったのも、当時屠殺会社を立ち上げようと競龍界に関わっていた朝倉だ。



「そうか……」



 ややあって、朝倉は頭を上げた。先ほどとは打って変わって冷え切った表情で溜息を吐き、懐から紙の束を取り出す。



「……見てみな」



 朝倉の態度の急変に違和感を覚えながら、友治は紙の束を手に取った。



 全て借用書だった。



 借主の名は、蒲池友治。



 はっとする。急いで中身を改める。遠藤の闇金業者の借用書もある。昨日友治の借金を返したのは編集長の田北ではなく、朝倉だったのか。借用書の総額は三百万近くに達し、友治の借金全ての借用書が揃っていた。



「どっちかだ」



 朝倉の良い声は、静かな喫茶店に良く透った。



「金を返すか、俺の仕事を手伝うか」



 状況が呑み込めない。頭が混乱して舌が上手く回らない。



「……何故です?」



「蒲池君の為だよ」



 そう言った朝倉の声は、酷く優しかった。



「良いか、俺は蒲池君を嵌めたいんじゃない。借金に困ってる蒲池君を助けたいんだ。大事な事だからもう一度言う。これは、人助けだ」



 どんな理屈だ。どう考えても脅迫だ。



「でも、ただで助けたら蒲池君の居心地が悪いだろ? 多分、関係だって壊れる。だから俺は、蒲池君の借金を代わりに返すっていう報酬の代わりに、簡単な仕事を依頼する。ギブアンドテイクだ」



 そうなのか。都合の良い甘い話についつい納得しそうになる。しかし、理性がなんとか押し留めた。



「でも」



「よく考えて見ろ。俺が一度でも蒲池君を嵌めた事あるか? 大学時代から数えて、何度金を貸した? 累計でいくらになる? 一度でも返せって言った事があるか?」



 その通りだ。



 朝倉は大学時代、終始優しい先輩だった。まさしく金持ち喧嘩せずという性質で、友治が恩や借りを受けた事はあっても、その逆はなかった。また、朝倉はそれを笠に着るような真似もしなかった。



 朝倉の実績を考えろ。友治が大学一年の時から今までの四年間、朝倉は常に優しい先輩であり続けた。そうだ。ここ最近、遠藤という悪人に追われていたせいで思考が悪い方へ悪い方へと流されている。これは単純に、今まで通り優しい先輩からの救いの手だ。あまりにも甘い話だから疑ってしまったが、そう考えるのが最も理屈に合っている。



「……分かりました。ありがとうございます」



 友治がそう言うと、朝倉はにっこり笑った。



「じゃ、仕事の話をしようか。と言っても中身は単純、簡単な指示を出すからその通りに従ってくれれば良い。時間ある?」



 それから、友治は喫茶店から一番近い駅に向かった。構内に入ると朝倉に電話をかける。



「じゃあ三番線に行って人を探して。七十代のデブでハゲの爺さん、柑橘系の香水をまき散らしてるから直ぐに分かると思う」



 指示に従う。昼前、朝のラッシュ時ほどではないがそれでも大勢の人が利用して、それぞれが持っている傘が余計に混雑具合を悪化させている。これでは視覚で探すのは困難だ。友治は嗅覚を頼りに目的の人物を探した。



 見つけた。どこにでもいそうな顔立ちだが、いかにも高そうなスーツを着ている。金持ちは金持ちでも成金といった感じのいけ好かない老人だ。



「その人の後ろに立って」



 香水の匂いは話し通りきつく、周囲には小さな輪が出来ている。そこに友治は滑り込み、次の指示を待った。



 電車が駅に入ってくる。構内が俄かに騒がしくなる。



「じゃ、その人押して」



 は? という声は口から出なかった。老人はホームの最前列に立っている。押せばホームから落ち、電車に轢き殺されてしまう。



「大丈夫。落とせなんて言ってない。ちょっと押すだけで良いから」



 いやでも、その声すら出ない。電車の音が近づいてくる。聴覚はスマホから出る朝倉の声に集中する。



「大丈夫。ひやっとさせれば十分だから」



 電車が見える。時間がない。早く、朝倉が静かに急かしてくる。落ち着け、大丈夫だ、友治は自分に言い聞かせる。



 今が朝倉に恩を返す時だ。それに老人を殺すわけではない。少し背中を押すだけ。怪我すらもしないちょっとしたイタズラだ。それがどんな罪になる。



 これは悪事ではない。いや悪事かもしれない。でも人助けだ。



 これは善行だ。そう、善行だ。



「行け!」



 朝倉が言った瞬間、友治は老人の背中を押していた。直ぐに逃げる。騒ぎは構内の喧騒に紛れて分からない。友治はその場を離れ、駅を出ると猛然と走った。

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