第11話 勝負の夏



 一日に行われるレース数が五割増しになった。親次は落ち着く暇もなく調教に行ったりレースに乗ったりしていたが、葵の仕事はレースの開催日でもいつもと変わりない。



 梅雨でぬかるんだ地面もかっちり固くなり、日差しも日増しに強くなっている。最初に三砂に手綱を引かれて龍房から出てきたのは、緑龍のキングフィッシャーだ。表の鉄杭に繋がれ、リラックスがてらに翼を伸ばす。その間に葵は空いた龍房に入って掃除を始めた。



 龍は奇麗好きで同じ場所にしか糞をせず、龍房の隅にはいつも白や緑の糞溜まりが出来ている。しかしキングフィッシャーの龍房だけは、あちこちに糞が散らばっていた。



 まるで子供みたいだ。



 龍は雌より雄が小さく、中でも雄のキングフィッシャーは特に躰が小さい。一萬田厩舎で一番躰の大きい雌の個体と比べれば倍近くの違いがあり、事実三歳という年齢は龍にとっては子供だ。辺りをやたらと気にして三砂に躰を寄せて歩く姿も、その印象をより強くさせた。



 散らかった龍房に手間取ったが慣れてきたのもあり、一時間ほどで終えて食餌の用意に移る。丸鶏の解体が終わったところで、大学の友人からメッセージが届いた。



 今日も休み?



 今の葵にとって、競龍の厩務員が第一だ。後ろめたさは微塵も感じず、休む旨を伝えて作業に戻る。次は食餌の振り分けだ。重連の残したメモを見ながら、龍それぞれにあった餌の量を振り分けて、個体によってはサプリメントを混ぜ入れる。これで準備は終わった。



「さてと……どうしようか」



 思わず、葵の口から溜息が漏れた。



 今までなら、この時点で三砂が仕事を手伝ってくれていた。しかしキングフィッシャーが一萬田厩舎戻ってきてからというもの、それがめっきり減っている。



 龍房にいる龍たちの様子を伺う。何騎かは龍房内をうろつき、何騎かは無意味に羽ばたいたり鳴いたりしている。そして、一様に葵の血に汚れた前掛けに視線を送っていた。



 未熟な葵でも分かる。龍たちは明らかに腹を空かせていた。早く餌をあげたいが、その前に餌の量が問題ないか確認してもらう手筈になっている。



 表に出ると、案の定三砂は日光浴の為に龍房から出したキングフィッシャーに掛かりきりだった。



 三砂がケガや異常はないかとキングフィッシャーを触ろうとすると、その度にキングフィッシャーが三砂にちょっかいを出す。嘴で髪を弄ったり、頭を擦りつけたり、龍体のチェックが遅々として進まない。見れば見るほど、キングフィッシャーは手の掛かる子供のようだ。



 声を掛けるべきか。悩んでいると、重連が競龍場から戻ってきた。



「あれ、龍は良いんですか?」



「後はやる。休憩に入れ」



 葵はスマホで時間を確認する。今は丁度、重連が競龍場に連れて行った龍がレースをしている時間だ。この状況を予想して戻ってきたのか。重連は三砂を一瞥して、何も言わずに龍たちに食餌を与え始めた。



「お先に失礼します」



 葵は居候している重連の家に戻り、リビングでテレビを点けてスマホを手にする。見るのは勿論、親次のレースだ。親次は鞭を振るえないという弱点を露呈したものの、それ以外の技術と知名度により騎乗依頼が舞い込んだ。今日はほぼ全レースの八鞍に騎乗する予定で、既に一つ目のレース結果が出ている。



 親次は二番人気の龍に乗り、五着。勝ったのは一番人気の龍で、加来惟教という騎手が乗っていた。



 やはり、利き手が使えない状態でレースに勝つのは難しいのか。そんな事を思っていると、親次が騎乗する二鞍目のレースが始まった。



 今度の龍は抜けた一番人気だ。親次が苦手とする登りでも巨体を生かして力強く上昇する。今度は勝てる、思った瞬間、後ろから斜面を舐めるように滑空する競翔龍に抜かされた。



 勝ったのは、またも加来惟教の騎乗する龍だった。



「お、加来さん絶好調だね」



 額に汗を滲ませて、三砂がリビングに入ってきた。服も薄汚れ、髪は引っ掻き回したように乱れている。誰がやったのか明白だ。



「キングフィッシャーって、いつもそんな感じなんですか」



「あの子はハンドレアードって言って、最初から人に育てられた子だから。そう言った子は龍に育てられた子、ペアレントレアードに比べて手が掛かるんだよ」



 声は明らかに疲れていた。しかし表情には笑みが浮かび、充実感が見て取れる。



「それより、親次君どう?」



 スマホで戦績を見せると、三砂は感嘆の声を上げた。



「おー、本当に加来さん調子良いね」



「凄い人なんですか」



「ここで腕も年齢も一番上の騎手だよ。お爺ちゃんは中央のトップジョッキーと比べても全然見劣りしないって言ってた」



 つまり、怪我をする前の親次と同じくらい凄い騎手という事か。なら、怪我をした親次が勝てなくても仕方ないのか。



 昼前から午後三時までの数時間、厩舎は早朝から慌ただしさを忘れて一息吐く。朝から散々三砂を苦労させたキングフィッシャーも疲れたのか、めっきり大人しくしていた。



 そして、親次の全レースが終わった。



 八鞍乗り、勝利したのは二つ。負けた半数のレースの勝者は、ベテランジョッキーの加来惟教だった。



 今の親次は勝てなくても仕方ない。しかし葵はもやもやとした気持ちを抱えて、午後の仕事を始めた。三砂が龍を連れ出し、表に繋いでいる間に葵が掃除をする。



 突然、絶叫が迸った。



 大量の壊れたクラクションを一斉に鳴らしたような大音響。壁が震え、空気がびりびりと振動する。異常事態、緊急事態、直ぐにそれは理解した。だが、葵はあまりの出来事に反応すらできない。時間が経てば経つほど頭に混乱が広がっていく。



 視界の隅に、疾走する三砂が映った。



 手伝わないと。良心が躰を動かし、葵は龍房を飛び出した。絶叫の元凶は、すぐ傍の龍房にいた。



 キングフィッシャー。



 両翼を地面に着け、肺が破裂しそうなほどの大絶叫を上げる。その眼は血走り、全身の鱗毛を逆立たせ、狂ったように鉄格子を突きまくる。龍は危険。皆が口々に言う言葉が脳裏に過った。



 葵は無意識に後退っていた。鉄格子は太く、いくら龍でも壊せない。分かっていても背中が冷たくなり、足元の感覚が遠くなる。



「こっち来て!」



 瞬間、三砂に手を掴まれた。掃除していた龍房に引っ張り込まれる。すると、あれほど興奮していたキングフィッシャーが急に静かになった。



 三砂は溜息を吐いてから、歯を見せて笑った。



「安心して、あの子は私に反応してるだけだから」



 意味が分からなかった。尋ねようとしたが声が出ず、唾を飲むだけで終わってしまう。



「私が葵ちゃんを手伝おうと戻ってきたらキングと眼が合って、ああなったの。嫉妬したのかな? とにかく私が視界にいなかったら落ち着くから安心して」



 分からない。躰の点検をしている時、キングフィッシャーは子供丸出しで甘えていた。それが三砂を親の仇のように威嚇した。他の龍たちは成熟した個体ばかりだからか今でも至って大人しい。しかし、キングフィッシャーのように突然騒ぎ出すのだろうか。



「おいおい、随分とやかましいのがいるなあ」



 少し呂律の怪しい男の声が聞こえた。厩舎の入り口に男がいる。大柄の中年だ。顔を真っ赤に染めて立つのも大変そうに壁に寄りかかり、右手には一升瓶を握っている。



「あれが加来さんだよ」



 三砂が耳元で囁いた。大柄の中年騎手の加来惟教はキングフィッシャーの方を見やってにやついている。



「葵ちゃん、悪いんだけど相手してくれるかな? 今のキングに私の声は聞かせられないし、何かあった時の為に離れられないから」



 酔っぱらいの相手は嫌だが、そういう事情なら仕方ない。葵は加来に歩み寄り、キングフィッシャーを刺激しないよう声を抑えて尋ねた。



「何の用ですか?」



「あん? 美人の孫娘は相手しくれねえのか」



 距離を取っていても酒臭さが漂ってくる。葵は顏をしかめそうになったのを堪えた。



「用は何ですか」



「おたくの先生に呼ばれたんだよ。そしたらやたらと騒いでるのがいると思えば、先生もまた面倒なの引き受けたな」



 言って、加来は一升瓶を呷った。レースも終わって一息吐いたといっても、同じ騎手でもこうも違うのか。親次は騎乗に悪影響があるからと言って一滴も酒を飲まない。それなのに加来は、すぐさっきまで龍に乗っていたのにもう顔を赤くしている。それも明日もレースを控えているのにだ。



「で、先生はどこよ」



「多分、事務所に」



 葵は加来を案内する。すると、事務所から丁度良く重連が出てきた。加来が一升瓶を持った右手を挨拶代わりに掲げる。



「おー、先生。調子はどうですか」



「そのろくでなしを事務所に連れていけ。すぐに戻る」



 重連は加来も見もせずに厩舎に向かう。キングフィッシャーの様子を見に行ったのだろう。葵は指示通りに事務所の応接室に加来を連れていく。



「茶とかいいぞ、俺にはこれがあるからな」



 加来は笑い、ソファにふんぞり返って一升瓶に口をつける。葵は酔っ払い相手の会話に困ったが、重連は間を置かずに戻ってきた。



「それで先生、忙しい俺を呼びつけたんだ、さぞかし大事な用があるんでしょうね?」



「いつも暇だろう」



「そう邪険にしないでくださいよ。俺が先生なんて呼ぶテキ、一萬田先生だけですよ。もっと可愛がってくださいって」



 鼻を鳴らし、重連は加来の向かいに腰を下ろす。これで自分は必要ない。葵が応接室を出ようとすると、扉がノックされた。



「失礼します」



 親次が入ってきた。親次は重連と加来を見て納得したような顔をして、葵を見て首を傾げた。



「座れ、お前たち二人に話がある」



 重連が言う。葵は邪魔をしないよう応接室を出た。音を立てないよう慎重に扉を閉める。立ち去ろうとして、しかし好奇心に惹かれて扉の脇に控えた。



 扇山競龍場のトップジョッキーの加来惟教、今はリハビリ中ながらも中央競龍のトップジョッキーだった戸次親次。所属厩舎も違う二人を呼んだのは何故なのか。どうしても会話の中身が気になって、葵は扉の向こうに耳を澄ませた。



「加来は良い騎手だろう、親次」



 重連が言うと、親次は言葉を選ぶような間を置いて答えた。



「噂に聞いてたよりは」



「おー、言うねえ。地方のお爺ちゃんの腕を認めてくれるなんて、さすが怪物。若造でも見る目はあるな」



 加来が笑う。それから飲んだ酒がむせたのか、何度も激しく咳き込んだ。



「こいつはもう少し若ければ、中央に移籍して活躍していた筈の騎手だ。親次、今のお前なら逆立ちしても勝てない相手だ」



 加来が上機嫌に大笑いした。それを遮るように、親次が少し声を張る。



「何が言いたいんですか」



「お前たち、今日から潰しあえ」



 不意に、加来の笑いが止まった。応接室が静まり返る。葵は思わず息を止め、可能な限り気配を消そうとする。



「親次、お前が加来を超えたと判断すれば、中央復帰を認めてやる」



 無茶だ。



 加来惟教という騎手は、怪我をする前の親次に匹敵するほどの腕前らしい。それをまだリハビリ途中の親次が超える。しかも利き手を使えないハンデも克服できていない、圧倒的に不利な状況で。



「先生、俺のメリットは」



「ない」



 重連は至って真面目に言う。加来が喉の奥で笑った。



「まあ、先生の頼みなら聞きますよ」



 話が進んでいる。これは良くない流れだ。親次は中央免許の返納を迫られている。つまり、時間がない。短期間で弱点を克服してトップジョッキーを超える。そんなの不可能だ。



 今から応接室に飛び込んで止めるか。その思いが頭をもたげた時、親次が口を開いた。



「分かりました」



 人生を左右するとは思えないほど、あっさりとした口調だった。



「今度は怒鳴らんか」



「また心境が変わりました。俺には競龍しかない。今の俺が中央に戻ったところで、騎乗依頼はこないし勝てるわけもない。それなら、ここで片手でも勝てる騎乗スタイルを見つけて、前より上手くなって中央に戻ります」



 それは自信に溢れた宣言だ。



 思い上がりでもなく、腹を括ったからこそ生まれる自信だ。親次は誰よりも前を向いている。後ろ向きだったのは当事者ではない葵の方だ。



 止めようとした自分が恥ずかしい。



「頑張れ、チカ」



 そう囁いて、葵はその場を離れた。

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