第14話 不幸中の幸い
今まで無言を貫いていた重連も流石に倒れた三砂を休ませた。
これで厩務員は葵一人だけだ。かといって相変わらず龍に触れないが、葵はいつもより気合いを入れて外に出た。
誰がか厩舎の中を掃いている。重連かそれとも親次が竹箒を握っているのだろうと視線を逸らしかけ、それが誰か気付いた。
三砂だ。
顔どころか首まで火照らせて、キングフィッシャーに話しかけながら掃いている。その動きは緩慢で時折ふらつき、ふとした瞬間には気絶しそうな酷い有様だ。
「三砂さん、何してるんですか」
三砂は振り返り、ぎこちない笑みを浮かべた。
「……仕事だよ」
言葉が出なかった。近くで見ると三砂の眼を虚ろで、傍にいるだけで高い体温が伝わってくる。明らかな重病人だ。
「何言ってるんですか、寝てないと駄目ですよ」
言いながら、葵は三砂の背中を押して竹箒を取ろうとする。しかし、竹箒は重病人とは思ない程力強く握られ、ぴくりとも動かない。
「……キングは……私が、面倒見ないと」
止められない。自分では三砂を布団に寝かしつけられない。葵は助けを求めて辺りを見回す。その時、重連が厩舎に入ってきた。
「……三砂」
珍しく、重連の眼が見開かれた。今にも気を失いそうな三砂をまじまじと見て、ようやく我に返って走ってくる。
「ここで何してる」
「キングの世話……任されたから」
重連が歯噛みする。それから三砂を強引に抱き上げた。三砂は軽く抵抗して声を出そうとするが、重連は構わず厩舎横の自宅に連れていく。葵は先回りして寝室のエアコンを点けて布団を敷き、重連はそこに三砂を寝かせた。
「迎えを呼ぶ。治るまでここには来るな」
重連のはっきりとした口調は、冷たいがとても優しかった。三砂は起き上がろうとするが上体も起こせず、躰の力を抜いて緩やかに首を振る。
「……駄目。私がいないと……キングが」
「今まで通り、俺が全部を世話をするだけだ」
「……それが無理だから、私が手伝うように、なったんでしょ」
現在、一萬田厩舎で働けるのは三人、調教師の重連と所属騎手の親次、厩務員の葵だけだ。それも葵は龍に触れられず、親次は片腕での騎乗スタイルの確立で手一杯だ。七十歳近い重連一人で、五騎の龍の世話をするのはかなり厳しいだろう。
「……組合に人を寄こすように言う」
「それができるなら……とっくに他の厩務員がいる筈……」
重連は言い返さなかった。図星だったのだろう。
葵が厩務員になってから一か月弱ではあるが、重連が他の人間と話しているのはほとんど記憶にない。基本無口で競翔龍の世話をして、話すにしても相手は孫娘の三砂と所属騎手の親次ぐらいで、葵の教育も完全に三砂に任せている。一萬田厩舎に来て日が浅い葵でも、重連が他人を受け入れるとは思えない。
「それにキングは……もうすぐ、レースが」
この人もか。
布団で横になる三砂の姿が、親次と重なった。自分の瀕死の躰に鞭打ってでも競龍に関わろうとする。何がそこまで、二人を強烈に突き動かすのか。
「勝手に言え。部屋に鍵をかけて閉じ込めるだけだ」
「……窓を割ってでも、飛び出してみせるから……」
二人の静かで熱い口論が深まっていく。葵は一人、思考の海に潜っていく。
三砂を放っておけば、親次と同じようになってしまう。今はただの過労から体調を崩しだけでも、さらに無茶を続ければ日増しに暑くなる気温もあってさらに体力を消耗し、取り返しがつかなくほどの大怪我や大病に繋がる。
絶対に止めなくてはならない。葵は、二人の間に割って入った。
「私が世話をします」
二人の視線が葵に集中する。葵は臆することなく言葉を続けた。
「私がキングフィッシャーの世話をします。それなら三砂さんも安心出来るし、テキも新しい人を呼ばずに済みます」
「危険だ」
即答したのは重連だった。逡巡するような間が開いて、三砂も口を開いた。
「そう……だよ。葵ちゃんが龍に触るのは……早すぎる」
「危険なのは分かってます。でも」
ここで引いてはいけない。三砂の意見を当然通すわけにはいかないし、重連の意見も重連の負担が大きすぎて、三砂が休めない要因になっている。解決策は、葵が三砂の代わりにキングフィッシャーの世話をするしかない。
「他に方法があるんですか。誰にだって最初はあります。それに危険だって言いますけど、私はキングフィッシャーがそんなに危険な龍だとは思いません」
「……それは」
三砂が言い淀む。重連は息を吐き、おもむろに首を振った。
「龍は例外なく危険だ。それにあれは、かなり手が掛かる」
「ならどうして、そんな龍を三砂さんに任せたんですか」
「三砂ならできると思ったからだ」
嘘ではないだろう。ただし、その理由は三砂の能力を信じているからではない。
重連は人との関りを断った偏屈な老人といった感じだが、実際は孫娘思いのおじいちゃんだ。だから人嫌いでも三砂の頼みを断れずに葵を雇ったし、今もこうして三砂を力尽くでも休ませようとしている。今まで三砂がキングフィッシャーに振り回されているのに手を貸さなかったのこそ厳しいが、それでもなんだかんだと気に掛けていた。
その重連が、三砂が初めて世話をする競翔龍に、手が掛かるにも程があるキングフィッシャーを選ぶだろうか。キングフィッシャーは不意に凶暴な面を見せるが、三砂の躰は傷一つなく奇麗なものだ。それはまさに、キングフィッシャーの安全性を証明する何よりの証拠ではないのか。
「私に任せてください。勝手な事はしませんし、何をするにも相談してから動きます」
「駄目だ」
「経験が浅いからですか?」
「熟練の厩務員でも龍の機嫌を損ねる事はある。そうなれば非力な人間の命は龍の気まぐれ一つだ。正式な厩務員でもないお前に、龍を触らせるわけにはいかん」
頑固な老人だ。ならば説得するべき相手は、その孫娘だ。
「三砂さん。このままならキングフィッシャーは一人になります。テキはいても、いつも面倒を見ていた三砂さんはいません。それで良いんですか」
三砂は答えない。虚空に焦点の合わない視線を向けて黙り込む。
「テキは他の龍の面倒も見ないといけません。三砂さんがいた時から比べると、間違いなくキングフィッシャーの世話をする時間は減りますよ。でも、私がいればそうはなりません。勿論三砂さんと比べたら全然ですけど、いないよりはマシな筈です」
三砂の天秤に乗っているのは、キングフィッシャーの心配と葵の身の安全だ。三砂にとってどっちが重いか。キングフィッシャーという龍をどう見ているか。それらを考えれば答えは自明の理だ。
果たして、三砂は頷いた。
「キングの事……お願いできる?」
「任せてください!」
それから、葵と三砂は重連を見やった。
「……良いだろう」
溜息交じりの声だった。それでも、承諾を取り付けた。これで三砂はゆっくり休める。親次のように後遺症が残るような大怪我や大病を患う危険はなくなった。
「三砂、もう寝ていろよ」
「うん、ごめんねお爺ちゃん」
重連は微笑し、寝室から出ていった。二人きりになり、静寂に包まれる。気まずさはない。嵐の後の静けさのような、何かする気にもならない放心めいた沈黙だ。
「……休憩室の抽斗」
ふと、三砂が声を漏らした。
「そこに……ノートがあるから」
それだけ言って、三砂は力尽きたように眼を閉じた。顔は相変わらず真っ赤で、話が落ち着くと肌寒ささえ感じるほどエアコンを利かせているのに、額にはびっしょり汗を掻いている。それでも、穏やかな表情で眠っていた。
葵は言われた通り、事務所の休憩室にある抽斗を開けた。そこにはノートが何十冊もあり、一番上のものにはキングフィッシャーと書かれている。
ぱらぱらと捲る。中身はキングフィッシャーの性格や癖、好みなど競翔龍キングフィッシャーの全てが綴られている。字から察するに書いたのは三砂だ。他のノートも同様にそれぞれの競翔龍について纏められ、全て達筆な事から重連が書いたものだろう。
これがあれば何とかなる。分からない事は重連や親次、少し具合が良くなれば三砂に聞いたりすれば良い。それにキングフィッシャーの世話をすると言っても、基本は調教師の重連が面倒を見るのだ。葵の仕事は、あくまでも補助に過ぎない。
「……あ」
気付く。
龍に触れられる。
胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
葵が競龍の内部に入って厩務員のアルバイトを始めてから一か月弱、親次が競龍に命を懸ける理由は分かっていない。それは何故だ。競龍の核たる龍に触れていなかったからだ。それでどうして、競龍に命を懸ける人間の気持ちが分かる。
でも、これからは龍に触れられる。
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