第4話 借金取り
消費者金融の入り口は、一本道でギャンブルに繋がっている。
蒲池友治は借りた金を上着のポケットに突っ込み、駆け足で競馬場に向かった。買い目はとっくに決まっている。締め切りはもう直前、意味がないのに自動発売機を叩いて急かし、目的の馬券を握りしめてスタンドに走り出る。
競走馬のゲート入りが始まろうとしていた。双眼鏡越しに本命の馬を確認する。四番人気ながら曇り空にも毛艶が映えて、ゲートにもスムーズに入っていく。
「……いける」
今日は勝てる。友治は確信した。無意識に馬券を握る手に力が入る。
鼓動が早くなってきた。友治の本命馬はここ最近こそ調子を落としているが、悪い馬ではない。むしろ実績はこのレースで一番だ。調教も負け続けていた一時期より良くなって、復活の兆しをビンビンに見せている。
スタートした。
既に心臓の高鳴りは最高潮、視線が本命馬に釘付けになる。出遅れなく走り出したようだ。直ぐに自分の位置を確保して流れに身を任せている。上位人気馬も似たような動きをして、早々にレースは落ち着いた。
動き出すのは最後の直線だ。友治の脈動も風船が萎むように静まり吐息が漏れる。レースの流れは早くもなく遅くもなく、本命馬は前目の埒沿い、良い位置に着いている。
最後のコーナーに差し掛かった。
後方にいる人気馬たちがするする前に出てくる。騎手たちが息を合わせたように鞭を振るう。本命馬は絶好の手応えで馬群から抜け出した。
「行け、行け、行けぇ!」
声が出る。そこここから大声が上がり、競馬場全体が一気にヒートアップする。一馬身、二馬身、本命馬が二番手の馬を突き放す。しかし人気馬たちが凄い脚を繰り出して後方から襲い掛かってくる。
静まっていた心臓が、再び騒ぎ始めた。
残せ、残せ。差せ、差せ。競馬場が二つの言葉に支配される。しかし友治の耳にはどちらも届かない。自分の激しい心臓の音だけが鳴っている。
息が苦しい。なのに叫ばずにはいられない。意識が朦朧とするような感覚、気持ち悪いようで心地良いこの感覚、これこそがギャンブルの醍醐味。乾いた眼が痛み出す。口がからからに乾く。視線が、ゴール板の一点に集中する。
「……ああああぁあぁぁぁ!」
負けた。
最後の最後に突っ込んできた馬に交わされ、本命馬は二着に終わった。
競馬場は歓声と絶叫、怒声がない交ぜになった汚い声が飛び交っている。友治の心臓が、呼吸が落ちついてくる。興奮だけが長い長い余韻を残し、蒸しタオルに包まれたように全身が暖かかった。
「……良いレースだった」
心からの言葉。馬券なんて、所詮はレースへの参加権だ。勝てば勿論嬉しいが、負けたところで何の悔いもない。それが見どころのあるレースなら猶更だ。
「競龍記者が、競馬かよ」
競龍記者、呼ばれたのは自分だろう。後ろから聞こえた声に友治が振り返ると、まだ十代半ばの似たような背格好の少年が五人、友治にガンをくれていた。
「えっと……知り合い、だっけ?」
友治が言った途端、少年たちはにやついた。ピンときた。すぐさま友治は走り出す。
「待てよ社会のゴミぃ!」
少年たちが追ってくる。友治は観客の間を縫い潜り、競馬場を飛び出した。素早く道を確認する。大通りの方に走った。
流石は十代の少年、簡単には振り切れなかった。だが、友治も大学を卒業したばかり、体力にはまだまだ自信がある。それに少し長く生きている分、知恵も回る。
大通りの群衆に交じって身を屈める。用意していた帽子と伊達メガネを掛け、上着を裏返して着る。そしてそのまま脇道に入り、立て看板に身を隠して一息吐いた。
しばらく気配を伺う。少年たちの声は雑踏に紛れて聞こえてこない。もう安全か。
「最近の借金取りも手が込んできたなあ、まったく」
個人か消費者金融か闇金か、誰の手先かは候補が多すぎて見当も付かない。しかし子供を使うような相手だ。小賢しい馬鹿といったところだろう。気にする必要もない。
「戻るか」
スマホを取り出して現在地を確認し、競馬場までの道で人通りの多そうなルートを探していく。そうしていると電話が掛かってきた。
遠藤。その名前を見た瞬間、友治はスマホをマナーモードに変えた。闇金業者からだ。嫌なタイミングで掛かってきた。
「そこにいたか、蒲池よぉ」
男の声が、頭の上から降ってきた。
そんな筈がない。ここにあの男がいるわけがない。友治は恐る恐る頭上を見る。
「よう」
遠藤が、立て看板に肘をついて見下ろしていた。黒のスーツに眼鏡を掛けたどこにでもいそうな男が、笑っている。それだけで友治の喉は詰まり、声が出せなくなる。
遠藤は無言で脇道の奥を指差す。友治がちらと眼を向けると、撒いた筈の少年たちが道を塞いでいた。前後を塞がれた。逃げ道を絶たれた。
「じゃ、行こっか」
逆らえるわけもなかった。友治は後ろを遠藤、前を少年たちに挟まれて人通りのない裏道を進んでいく。
止まったのは、閉店した中華料理屋の裏道だった。回りは廃墟同然のような古びた家ばかりで、死んだように静まり返っている。
「とりあえずいくら持ってる?」
遠藤に言われるままに財布を差し出す。ギャンブルとは違う意味で、心臓が騒ぎ始めた。
「一万か、スッたな。お前よ、借金してる分際で博打ってどういう事だよ」
友治は何も言わずに俯く。それが最善の躱し方だ。遠藤は無表情に友治の財布から一万円札を抜き、財布を後ろに投げ捨てた。
「残り四十九万。どうやって返す?」
「……い、今は手持ちが」
「分かってる。でも、金貸す奴なんてもういないだろ? 頼みの博打も種銭がない」
「……な、何とかしますから」
「何とかできなかった結果が借金だろ。って、二十ちょいで借金塗れの馬鹿に言っても仕方ないよな」
遠藤は笑った。その表情はぴくりとも動いていなかった。
「一週間やる」
突然の優しい言葉、友治は声を漏らして顔を上げた。
「一週間で残りの金用意しろ。強盗でも恐喝でも何でも良い。汚れた金も金だ」
「ありがとうございます!」
許された。必死を装って何度も頭を下げる。一週間もあれば事態は変わる。闇金業者がなんだ。今まで通り煙に巻いて逃げ切ってやる。
「おう、礼言っとけ。俺じゃなくてガキどもにな。もしかしたら手加減してくれるかもしれないぞ」
手加減。どういう意味だ。友治は少年たちに眼を向ける。十代半ばの少年特有の、人を見下して優越感に浸る幼い笑みが、にきび顔に浮かんでいた。
「お前ら、顔は駄目だぞ。骨もだな。服で隠せる程度でよろしく」
目の前が真っ暗になった。
逃げる気持ちも抗う気持ちも湧かず、友治は散々に殴られた。少年たちは場離れしているのか器用に骨折を避けて暴力を振るい、最後は友達から遊びの誘いを受けて、友治の存在を忘れたかのように去っていった。
雨が降り始めた。
腹と背中から濡れていく。痺れたような痛みが全身に張り付いている。意識は薄く、五感の全てが壁を挟んだように感じる。
電話が掛かってきた。友治は震える手を何とか動かして、スマホの画面に触れる。
「生きてるなぁ?」
遠藤だ。無意識に喉が動いたが、乾ききった喉は何も通さなかった。忘れていた血の味が、口に入った雨粒に混じって広がっていく。
「大体一緒の意味なんだけどよ、過労死と事故死、どっちが良い?」
遠くなる意識が、一瞬ではっきりした。
「あ、今の無し。状況で変わるわ」
電話があっさり切れた。通話の切れた音が、雨音をかき消すように響く。
躰から、さあっと血の気が引いた。それから間が開き、滝のような勢いで冷や汗が流れ出す。
知人、友人、親、とにかく電話を掛け続けた。多くは電話にさえ出ない。なんとか繋がった通話も、一様に同じ言葉で切断された。
「もう良いよ。もう関わらないでくれ」
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